骸は料理が上手い。
レパートリーも広い。
クロームも料理上手だけど、骸には敵わないらしい。そして、簡単なものならできないこともないけど面倒くさがりなオレと、料理に限らず家事全般が壊滅的に駄目な獄寺くんは、大変助かっている。多分、一人暮らしの大学生としては破格の食生活を送っているんじゃないだろうか。
これが本当に一人暮らしなのか、という話は置いといて。
骸の作る料理は美味しい。
レパートリーも、すごく広い。
ただ、レパートリーが広すぎて、食卓の上が混沌と化すことがある。
「骸……今日の晩飯、何?」
バイトから帰って台所に直行したオレは、見慣れない料理を見つけて、ただいまより先にそう聞いていた。
「今ちょっと手が離せないんで、後にしてください」
景気のいい油の音を響かせながら、骸は大きな中華鍋を揺すっている。宙を舞う茶色と緑のものから推測するに、チンジャオロースだろうか。ゴマ油の香りに、胃袋が小さく悲鳴をあげた。
ふむ、メインはチンジャオロースと仮定しよう。炊飯器から勢いよく湯気があがっているので、主食はご飯だな。コンロの脇に置いてある小鍋の中には、豆腐とワカメの味噌汁。ダイニングのテーブルの上には、オクラの酢の物が入った小鉢が人数分並べられている。
ここまではいい。中華料理屋なら変な組み合わせだけど、うちは一般家庭だ。ちょっとマフィアとか六道輪廻とか内臓無い子がいるだけの一般家庭だ。おかず+汁物+小鉢+ご飯の組み合わせは、ごくごく普通の晩御飯メニューである。
ただ、食べ盛りオンリーのこの家では、メインのおかずが一品ではとても足りない。一品でも大量に作ればいいだろうに、骸的にそれは駄目らしい。たまに骸もクロームも家を空けて遅くなるときにはオレが作るけど、大量の野菜炒め+ご飯とか、大量の焼き飯とか、大量の焼きソバとかになるので、『なんですかこの貧弱なメニューは。一人暮らしの大学生ですか』と怒られる。その通りだよ。
そんなわけで、今日のメインその2が、今オレが目の前にしてる大皿の料理なんだろうけど……何なんだろう、コレは。
半月状のでかいオムレツ……ではない。これは卵じゃなくて、小麦粉だ。クレープをもっと焼いて、色をつけてパリッとさせたものに近いだろうか。中に何か入ってるけど、ちらっと見えるのはエビとモヤシ……あと、豚肉も? 周りにはレタスと薄切りにしたキュウリが並べてある。骸にしては珍しい、あんまり飾り気の無い豪快な料理だ。
「あのー、骸、これ何?」
骸が火を止め、チンジャオロースを皿に移しだしたので、もう一度聞いてみる。
「バインセオですよ」
見て分からないものは、聞いても分からなかった。
「えっと……パインセオ? パイナップル入ってんの?」
「パインセオじゃありませんバインセオです『は』にマルじゃなくて点々です刺しますよ」
何もそんなに殺気のこもった目で見なくても。
「ベトナム料理ですよ。日本ではよくベトナム風お好み焼きと言われるみたいですね。お好み焼きはお好み焼きでも、関西風ではなく広島風に近いですが」
オレはときどきお前がどこの国の人なのか分からなくなるよ……。
「うまいの?」
「美味しいですよ。中の炒め物を生地ごとからし菜に包んで、ニョクマムにつけて食べるんです。からし菜がなかったので、今日はサニーレタスで代用ですけどね」
「まず、ニョク……?なんとかが分かんない。っていうかなんでいきなりベトナム料理?」
「僕が食べたくなったからです」
「あ、そう……」
正しい理由ではあるんだけど、食卓の整合性というものを気遣う心はないのだろうか。まぁ美味しいならいいけど。
「……ベトナム料理かぁ」
料理の正体が分かったところで、今度は別の疑問が湧いてきた。疑問というほどではないけど、ちょっとした好奇心である。
「骸ってベトナム行ったことあるの?」
「ないです」
ものすごくあっさり否定されてしまった。
「じゃあ、えーと……ベトナムに生まれたことがあるとか」
「ないです」
我ながら変な質問だなぁと思いながら言ったのだが、それもあっさり否定された。
「ベトナム人の知り合いがいる」
「いないです」
「ベトナム料理店の店主に憑依したことがある」
「ないです」
「じゃあなんでベトナム料理なんか作れるんだよ!」
「以前お店で食べたときに美味しかったからネットでレシピを調べたんです」
ものすごく普通の理由だった。
「そんなの六道骸じゃねぇ……!」
「僕はなんて答えればよかったんですか……」
呆れたようにため息をついて、骸はテーブルの上に置いてあった空の皿を手に取った。
「大体、ベトナム料理なんてさほどマイナー料理じゃないでしょう? その中でもバインセオと言えば、かなり代表的な料理ですよ。作れるからと言って、別に珍しくもありません」
「そうかなぁ。それを仕事にしてるプロならともかく、普通の人が外国の料理を作れるのって珍しいと思うけど」
「日本みたいな超多国籍料理の国に生まれた人が何を言ってるんです。中華もイタリアンもフレンチも、普通の家庭で作られてるじゃないですか」
「うーん、まぁ日本はそうなんだけども……」
汚れた皿を流し場に置いた骸は、同じく空のボールを手に取った。オクラが入っていたらしく、ネバネバしている。
「普通のイタリア人が味噌汁作れたりはしないでしょ?」
「でも、ジョットの作るお味噌汁は完璧でしたよ?」

カラン。

骸の手から滑り落ちたボールが、フローリングの床にぶつかって乾いた音を立てた。
「わっ、……あ、中入ってないのか、良かったな」
「……」
「……骸?」
骸は、ボールを落とした格好のまま、固まっていた。
半開きの口も、オレを見る目も、別に何かに驚いているような表情ではない。オレにおはようと言い、いってらっしゃいとおかえりを言い、おやすみなさいを言う、いつもの骸の顔だった。ただ、止まっていた。瞬きすら忘れて。
「おい、骸……?」
「……あ」
目の前で手をひらひらさせると、ようやく骸が動き出した。なんてベタな。
「すみません、ちょっとぼうっとしてました」
パチパチと瞬きした骸はボウルを拾い、オレに背を向けた。その背中から、特に動揺の気配は伝わってこない。だけど、骸が口にしたジョットとかいう人が、何か骸にとって大きな意味を持っていることはバレバレだ。
「……僕の知り合いです。昔の」
オレが黙っていたからだろうか、骸は自分から話し始めた。すごく淡々としている。こんなに色のない声の骸は珍しい。
「生粋のイタリアーノですが、日本オタクでした」
骸が水道をひねり、広いとは言えない台所に、水音が流れ始める。骸の声よりも、まだ水音の方が感情が篭っている。
「……驚いたんです」
骸はオレに背を向けている。オレも骸に背を向けた。そろそろクロームが帰ってくる。
「こんなに自然に……」
水音に紛れて、だけど骸の声ははっきりと聞こえる。オレはあまり聞きたくない。なんでだろう、なんとなく、本当になんとなくだけど、聞きたくない気がする。
「こんなに自然に、君の前で、彼の名前を出せたことに」
ジョットというのが、骸にとって重要な名前だということは嫌でも分かった。ごく限られた人間しか側に置かない骸にとって、そこまで大きな意味を持つ名前。普段なら、聞いてみるところだろう。教えてくれないだろうなぁと思いながらも、軽い気持ちで。
でも、この名前は駄目だ。
「オレ、皿運ぶな」
嫉妬なんかじゃない。ただ、聞いてしまったら、オレはきっと困る。そんな予感がした。
「……お願いします」
水はまだ流れ続けている。ただシンクに当たって排水溝に流れ落ちるだけで、食器を洗う音は聞こえてこない。
その合間に、誰かの名前を呼ぶ微かな声が聞こえる。
台所を出てしまったオレには、それがオレの名前なのか、ジョットという人なのかは分からなかった。