いつまでもずっとこうしてて



「ヒューバート。ちょっといいか?こっち」
微笑みながら、けれど真剣な眼差しで呼び寄せられれば、避けることなどできなかった。
導かれるまま小さなテーブルを挟み、斜めに向かい合う。
アスベルは何を言うでもなく人の手のひらをいじりまわしていた。乾いた手に彼の肌が触れ、指に指が絡み、そっと撫でられる。こそばゆい感覚がぞわりと背筋を熱くするが、それまでだった。もうあの頃のような激情が生まれることはない。
好きな女性ができたのだ。
花のような人だった。彼女といると、長く封印していたはずの感情が溢れて止まらなくなる。まるで目の前の景色が変わるようだった。
彼女の笑顔が眩しくて、愛おしくて守りたい。この気持ちはずっと皆には黙っていた。面白がってからかわれるのは目に見えていたし、何より兄に知られたくなかった。後ろめたいという思いがあったのかもしれない。アスベルとは、行き先を共にしてしばらく経った頃に、初めて身体を繋げていた。
あれは喧嘩の延長線だったように思う。
彼と意見が噛み合わないことが悔しくて、些細な口論を切欠に今まで溜め込んできた鬱憤が爆発した。彼にしてみれば、突然一方的に癇癪を起こされたようにしか見えなかっただろう。普段なら困惑しながらもこちらの言い分を受け止める彼も、腹に据えかねたのか珍しく強い口調で言い返してきた。そうなると売り言葉に買い言葉だ。訳も分からぬまま醜い思いを撒き散らして、気づいたら何故か彼の腕の中できつく抱き締められていた。混乱する間もなかった。口に温かいものが触れて、あとはもうなし崩しだった。
事が終わると、兄は白い布団でうとうとしながら、満ち足りた表情で自分の頭を撫でてくれた。それが幸せだったので、その後も何度も彼と身体を重ねた。
若気の至りと言ってしまうには、あまりに自分も彼も切迫していた。兄に触れると安心したし、兄に触れなければ気分が落ち着かなかった。異常な執着だという自覚はある。小さい頃、おどおどと大人の視線に怯えて過ごしていた自分にとって、明け透けな兄の愛情が唯一の拠り所だった。兄は嘘を吐かない。強くて優しくていつも自分を守ってくれる。多分、彼も自分と似たようなことを感じていた。
性交のさなか触れてくるアスベルの手は、痛々しいほど必死だった。だからこそ今も互いに離れることができないのかもしれない。
ぼんやりと体温の高い指を絡ませ、吐息をこぼす。
それでも、やはり自分達は子どもだったのだ。
「兄さんはシェリアが好きなんですよね」
確認のために尋ねると、ぴくりとアスベルの指が震えた。
「ああ」
「…ぼくはパスカルさんが好きです」
そうか、と少し遅れて笑う。緩んだ唇に目を奪われた。
あれが自分の唇や耳や胸やあらぬところをなぞったように、彼女の身体にも触れるのだろう。嫉妬するわけではないけれど、あまり考えたくなかった。
それなのにふと視線をずらした先の瞳が複雑な色をしているから、彼も自分と同じ想像をしているのだと分かってしまった。どう反応していいか分からず、曖昧に口の端を上げて誤魔化す。きゅう、と繋いだままの手の甲を指で握られた。何を言われるのか身構えていると、アスベルは穏やかに頬を綻ばせた。
「パスカルはいい奴だよ」
「は、何ですかそれ」
予想外の言葉に、思わず噴き出す。
「というか、そんなことはぼくが一番よく知っていますよ」
アスベルに言われなくとも、彼女の寛容さは身を持って感じている。軽く笑って返すと、彼は一瞬顔を強張らせた後、何事もなかったように目を細めた。
「そうだな」
その笑顔に違和感を覚えて、自然と足が立ち上がる。兄は無言でこちらを見上げてきた。
自分の何気ない発言が兄を悲しませたことは、一目瞭然だった。別に彼女を好きになったからといって自分が兄から離れるわけではないけれど、こうして寂しさを募らせていくことは止められないのだろう。兄に向かって腰を折り、顔を傾ける。近づいた口元に息がかかる。逃げるのに十分な時間を与えたのに、彼は椅子に座ったままじっと自分を見つめていた。
唇が触れ合う直前、先に瞼を降ろす。片手を柔らかな髪に差し入れて、ゆっくりと角度を深くした。馴染んだ温度に声が漏れる。舌を擦り合わせ、口内を余すところなくなぞっていく。途中、兄の手が背中に回された。丸まった背骨を抱き寄せるように、ひたりと肘まで重なる。息継ぎのときに視線が絡むと、身体が静かに熱くなった。
どうすれば兄が気持ちよくなってくれるのかなど、頭で考える必要もなかった。兄のことは全身が覚えていた。性感帯も指の仕草も声も瞳も表情の一つ一つまで、自分の中に刻み込まれている。
たとえこの先アスベルが他の人間と道を歩むことになっても、残された記憶は消えない。彼女が自分の代わりになることもない。彼への愛情、肉親を超えた感情がなくなるわけでもない。愛しているのは変わらない。ただ、いつまでも子どものままでいられなかっただけのことだ。
「…一体何なんでしょうね、ぼくらの関係は」
片目ずつ色の違う瞳を覗き込み、呟く。自分の影で暗くなった虹彩が、真っ直ぐこちらへ向けられていた。彼の髪を押さえていた手を頬へ滑らせ、もう一度唇を合わせて離れる。
胸を騒がせるざわめきは努めて無視し、口元を拭う。指先が今さっきの感触を辿ってしまうのは、仕方のないことだった。
やんわりと腰の辺りに添えられていたアスベルの手が登ってきて、耳や首筋を撫でる。僅かな熱が肌を震わせた。
「兄弟だろ」
きょうだい、と音に出さず反芻する。
「俺達は」
たった二文字の言葉が胸にふわりとはまる。答える代わりに笑みが漏れた。アスベルも表情を緩めて、腕を伸ばしてくる。短い襟足を指で梳かれるのが心地よかった。もう今後彼と身体を重ねることはないだろう。そのうち抱き合うことも、キスをすることもしなくなる。それでいいのだ。それが正しい。
そう思っているのに、なかなか彼と繋いだ右手を離すことができなかった。

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