あなたが笑う



幼い頃の自分が純粋に幸せだったかと問われれば、答えに困る。
無論生活に不満はなかった。生まれのために街一番の暮らしをさせてもらっていたし、父も母も屋敷の使用人も街の人達も、皆自分のことを大事にしてくれた。
ただ、自分は次男だった。
聞けば、自分は赤子の頃から物分りのいい、大人しい性格をしていたらしい。兄と違って手がかからない利口な子だと褒められ続けたおかげで、いつしか意識しないうちに人の顔色を窺う癖がついてしまっていた。
自分がいい子にしていれば、大人達は喜んでくれる。子ども心に、皆が笑顔でいるのが嬉しかった。嬉しかったから、より一層観察を深めていくのも自然なことで、自身がラント家の次男であることの意味に気づいてしまうのも時間の問題だった。ずっと不思議だったのだ。人々がアスベルへ向ける視線と自分へと向ける視線には、疑いようのない差異があった。その理由がこれだった。
それからは常に不安が付き纏っていた。兄のアスベルはやんちゃでいつも大人達を困らせているけれど、領主の長男だった。それがどれほど恵まれたことなのか、当の本人には考えもつかないようだった。
冒険と称して外で危ないことをする度に叱ってくる両親の愛も、兄にとっては自身を傷つけるものでしかなかったらしい。弟の前では言わなかったが、彼が両親に嫌われているのではないかと気に病んでいることも知っていた。贅沢な悩みだと教えてやりたかった。けれど彼は彼なりに真剣なのだということも分かっていたから、下手に口を出すことはできなかった。
怒られるのがいつもアスベルだけだったことも、原因の一つだったのだろう。自分も同じように街の外へ出ているにもかかわらず、周囲は自分のことを兄に無理やり連れ出された被害者としてしか見てくれなかった。最終的に彼についていったのは自分の意思なのだから、彼と同等に罰せられるべきだ。そうは思っても、足が竦んでしまって動かなかった。
もしいい子であることしか取り柄のない自分が悪い子になってしまったなら、皆はどんな目で自分を見るだろう。結局ラントの家を継ぐのは兄のアスベルであって、弟の自分はここには必要のない存在なのだ。期待を裏切れば見放されてしまうかもしれない。居場所のなくなることが怖くて恐ろしくて、堪らなかった。
「考えごとか」
「ん…」
記憶より幾分低い兄の声に、沈んでいた思考を掬い上げられる。
胸の辺りを彷徨う唇が首筋を辿ってきて、耳を何度も甘噛みされた。熱っぽい呼吸が音を響かせる。中途半端な刺激がむず痒くて、兄の身体の下で身じろいだ。支えを探して掴んだ肩は、細身な体格に反してたくましい。思わず手を滑らせ、柔らかな髪をかき抱く。
七年の時を経て、アスベルは本当に健やかに成長した。元来の真っ直ぐな性質は失わず、思慮深さを身につけ、領主として正しい方向に歩を進めている。弟として誇らしい。まだ未熟で心許ないところはあるが、間違いを正す助言さえ誰かがしてくれれば十分彼一人でやっていける。そしてその助言をする役目は、何も自分でなくとも事足りる。
寂しいが、仕方のないことだった。もうラントの人間ではない自分に、アスベルを支えていくことはできない。
それなのに彼は、こうして追い縋るように自分を抱く。好きだとか愛してるだとか、分かりやすい睦言を伝えてくることはなかったが、こちらを見下ろす目は確かにそう告げていた。少なくとも適当な性欲処理の相手として自分を使っているのではないのだろう。
自惚れかもしれない。だが、彼は何でもすぐ顔に出るから、きっとそれで合っている。そうであってほしかった。
「あっ、あ、にいさん」
性器を弄られ、みっともなく精液を垂らしながら指を突っ込まれて喘ぐ自分に、アスベルは興奮を隠そうともしなかった。性急に繋がりを求められ、返答する前に喉が仰け反る。いっぱいまで詰められる感覚に、ぎりぎりと彼の腕に爪を立てた。
「は、ヒューバート」
熱っぽい呼びかけと共に、まだ慣れきっていない中を彼が擦り始める。
「や、まって…」
人の話も聞かずに抜き差しされ、容量を超えた快楽と不快感が一緒くたに背筋を支配する。
「嫌だ、にいさん、やめてください」
首を振って懇願するも、アスベルの耳には入っていないようだった。ひゅーばーと、ひゅーばーとと掠れた声が自分を呼ぶ。悲痛な響きだった。自分を翻弄する側の彼が、何をそんなに必死になっているのだろうか。そう思うと少し余裕が出た。
ゆるりと瞬きをしてアスベルを見上げる。彼は眉を寄せ、泣きそうな表情で腰を振り続けていた。まるで手に入らないおもちゃに駄々をこねている子どものようだった。
「兄さん」
反射的に手が前へ伸び、彼の肩を抱き締める。身体の間に性器が挟まれて、覆い被さってきた兄の手が頭を抱えてきた。高めの体温が心地いい。首筋に顔を埋め、汗の匂いを吸い込んだ。舌を首筋に這わせて噛みつくと、彼が小さく震える。
「どこへも行きませんから…」
囁く唇は笑っていた。
嬉しかった。この人は自分のものだ。
「兄さん…」
吐息を絡めると、抱き締める力が強くなった。こくこくと顎が頷くのを肌で感じる。
例えばの話、もし自分が七年前の事件のときのように突然兄の前から姿を消したら、兄は一体どうするのだろうか。きっと死に物狂いで世界中を駆けずり回るに違いない。それでも見つからなかったら。この世界のどこにも自分が存在しないと知ったなら。
柔らかな赤茶の髪に鼻先を埋め、穏やかに目を細める。
兄の心の、たった一部分でもいい。これが自分のために死滅するのかと思うと、暗い喜びで満たされた。
兄には自分が必要なのだ。現に、立派に成長した今でも、こうして手放せずに腕の中へ囲っておこうとする。領主として生きていくには不要な行為だ。なのに兄は、敢えてそれを選択する。
アスベルの身体を捉えたまま、自ら緩く腰を揺する。微かに呻いた彼の耳を食めば、耐えかねたように奥を突かれた。
「きもちいい、ですか」
好き勝手に揺さぶられながら、絶え絶えに尋ねる。
「お前は…?」
上擦った声で問い返される。清廉な青い瞳は、どろりと快感に溶けていた。熱い溜息が漏れる。兄がいいと感じているのなら自分も同じだった。微笑んで無理やり唇を重ねる。放置されていた性器を纏めて擦られると、一層押し寄せる波が強くなった。彼の指がきつく太腿に食い込む。
恥もなく足を広げて、苦しいほどの体勢で犯されて、こんなことを強いる兄にどうしようもなく興奮した。
優しいはずの兄が、人も気遣えないくらいに性行為に没頭している。それも自分相手にだ。乱暴にされるのは肉体的にはつらいけれど、心の方は別だった。もっと兄の気が済むまで、好きにされたい。
こうなってくるともう兄に依存されているのが快感なのか、中を突かれるのが快感なのか、何だかよく分からなくなってくる。ただ一つ言えるのは、自分には兄がいなければどうにもいかないということだった。

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