それなら私と踊りませんか



兄が結婚すると言った。
好きなのだそうだ、彼女のことが。あまりに幸せな顔をして笑うものだから、何を言い返すこともできなかった。ただ、そうですかおめでとうございます、と自分の声が響く。
「どうしてですか」
「え?」
聞き取れなかったのか、アスベルが問い返してくる。
「独り言です」
下を向く自分に苦笑して、彼は大きく伸びをした。白い腕がウィンドルの青空に映える。
「はあ、何かお前に言ったらほっとした」
「こんなところまで連れてきて、どういうつもりかと思ったら」
「悪い。二人きりで話したかったんだよ」
年上なのに、甘く柔らかに緩む兄の顔立ちが好きだった。
そんな表情で他の誰かを思うのはやめてほしい。一方的なこの感情を兄に告げたことはなかった。端から黙って墓まで持っていくつもりだった。だがだからと言って、夢を見なかったわけではない。もしかしたら兄も自分と同じ思いを抱いているのではないか。一言口にしたら、案外あっさりと成就してしまうのではないだろうか。そんなことを考えては、ずっと兄の横顔を見つめてきた。
「母さんには大反対されてさ。お前なら絶対喜んでくれると思ってたけど」
「ひょっとして兄さん、ぼくに母さんを説き伏せてくれとでも?」
冗談ではない。
つい冷たい口調になってしまったが、アスベルは気にした様子もなく、まさかと首を振った。
「母さんは俺が説得する。俺とあいつのことだからな。自分で何とかしたい。そうしなきゃ駄目なんだ」
「は、そうですか」
真剣な眼差しに呼気が漏れる。そこまで言われてはもう笑うしかなかった。いつの間にこんなことになってしまったのか、自分には見当もつかなかった。彼女がどれだけアピールしても、彼は彼女を女としては見ていなかった。少なくとも、自分が一緒にいた頃はそうだ。
今の彼は彼女を愛しているのだろうか。抱いて、子どもをもうけて、一生を共に過ごしていく覚悟をしているとでも。
「…そう、ですか」
まるで兄が知らない人間に思えた。気分が悪くなってきて、胸元を掴む。
華やかで優しい彼女のことは、自分も姉のように慕っていた。彼女は間もなく兄のものになり、兄も彼女のものになる。あの頃のような三人の関係には、二度と戻れない。自分だけが除け者にされた気持ちだった。
「兄さんは、どうせ母さんの薦めた見合い相手と適当に結婚して、ラントの跡継ぎを生むのだと思っていました」
「何だよそれ。ひどいな」
「今まで誰も好きになったことがなかったくせに」
兄の愛情は平坦で、誰に対しても公平だった。一人を特別に思うことはない。自分が彼の弟以上にはなれない代わりに、他の人間も彼の唯一になることはなかった。ただ家族である分だけ、自分の方が少しだけ彼の心を占めている。その程度のものだ。それでよかったのに。
「じゃあお前には好きな人がいたのかよ」
アスベルがむっとして振り返る。
さらさらと弱い風に赤茶色の髪が靡いた。片方だけになってしまった、綺麗な青い瞳がこちらを見返す。好きでは足りない。愛している。鈍い音を上げて胸が締めつけられるのが分かった。
「いましたよ」
予想外の返答だったのか、兄が幼い目を丸くする。
それを見たら、ふわりと頬が緩んだ。
「その人のためなら人も殺せると思いました」
「ヒューバート…?」
「もう、終わってしまった話ですが」
表情を強張らせるアスベルから視線を逸らし、数歩後ろへ遠ざかる。大きく息を吸うと澄んだ花の香りがした。足元に咲き乱れるそれらを見下ろし、一際真っ青なものを丁寧に摘み取る。
「兄さん」
彼の元へ近寄り、手に持った花を差し出す。
「ストラタへ戻ったらちゃんと祝いの品を用意しますので、今はこれで」
きょとんと花を見下ろしたアスベルが、自分と花とを交互に見比べ、やがて心底嬉しそうに破顔した。
「ありがとう、ヒューバート!」
受け取るときに触れた指の体温に、また胸が軋みを上げる。彼に見えないように、そっと残る感触を手の中に握り締めた。
アスベルは何も知らずにはしゃいでいる。
「こんな花一つで大袈裟ですよ」
「だって、お前が俺にくれたんだぞ」
十中八九彼に他意はないのだろうが、その言い方は本当に堪える。自分があげた花だからそんなに喜んでいるのだと思ってしまうではないか。にやけそうになる顔を気力で落ち着かせ、溜息を吐く。
「そんなことを言って、どうせすぐに枯らしてしまうのではないですか」
「枯らさないさ!」
勢いよく否定した後、何かを思い出したように視線を彷徨わせる。
「あ、いやでも…。ちょっと自信なくなってきた」
アスベルは昔から細やかな気遣いというものが苦手だった。フレデリックが教育のためにと季節ごとに分け与えてくれた花も、彼は決まって駄目にしていた。その記憶が脳裏を過ぎったのだろう。素直な反応が可愛くて、つい笑みを漏らしてしまう。
「笑うなよ」
そう文句を言う兄の声も笑っていた。それが無性におかしくて、耐え切れなくなって顔を伏せる。口を覆って肩を揺らした。憤慨したふりをした兄が軽く肩を押してくる。手のひらが硬くて温かかった。剣を握り、人を抱き締める兄の手だった。その手を掴んで縋りつきたい。できない。痛い。痛くて堪らない。
「…ああ、笑いすぎて涙が出ました」
眼鏡をずらして目元を拭うと、アスベルがひどいだとか何とか突っ込みを入れてくる。
「何だよもう!絶対枯らさないからな」
ぜったい、のところに力を込め、花を手の中に庇う仕草をする。
「次に来るときが楽しみです」
薄く口の端を上げて、兄に包まれる花を見つめる。
茎を折られ、地面から離れてしまったそれが長く瑞々しさを保つはずがない。
アスベルはきっと、本当に無邪気に言葉を重ねているのだろう。そんな彼が次第に枯れていく花の姿を見たらどう思うだろうか。水を差そうが光に当てようが、一向に元に戻ることはない。いずれ腐り落ちることは決まっているのだ。そうやって、少しは手折られたもののために心を痛めればいい。
そうしてくれたら、報われる。

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