部屋を出たアスベルが戻ってきたかと思ったら、満面の笑みを浮かべている。
「またですか」
彼の手に握られたものを見て、思わず顔を顰めてしまう。
「ああ、バロニアにいる間に食べ溜めておかないとな」
うきうきと隣に腰掛けるのを一瞥し、手元の本へ視線を落とす。
アイスキャンディーはアスベルの好物だった。いつの間にか、自分の知らない間に大変お気に入りとなったらしいそれを、彼はこの街へ来る度に幸せそうな表情で食べまくっている。旅の間もエレスポットで好きなだけ出現させているくせに、まだ足りないらしい。
別に彼がいつ何を食べようと自分には関係ないのだが、腹を壊されて旅に支障が出ては堪らない。それに折角の休みだというのに、当たり棒が出るかもしれないと言ってわざわざ一本ずつ買いに出るから、同室の自分が読書に集中できないのだ。
彼が部屋を離れた後に残る微かな匂いだとか、座っていたシーツの乱れだとかが気になって仕方がない。戻ってきたらきたで、腕に触れる体温に意識を奪われてしまう。
段々苛立ってきて、ページの隅を弄りながら黒々とした文字を睨みつけた。
「よくもまあ、飽きもせずに何本も…」
「今度のはリンゴ味だぞ」
「知りませんよ」
溜息を吐き、お腹を壊しますよと付け加える。アスベルは白っぽい氷をしゃくしゃくやりながら唇を動かした。
「まだ三本目じゃないか」
「まだじゃなくてもうでしょう。それだけ食べれば十分ですよ」
アスベルが空いている方の手で自身の腹をさする。恐らく記憶を探っているのだろう。そして彼の経験上、三本は余裕の範囲内だったらしい。
「大丈夫だぞ?」
いやに自信たっぷりに頷く彼に、反論する気もなくなる。
「好きにしてください」
視線を本へ戻し、口を閉ざす。
アスベルが眉尻を下げるのが分かったが、知ったことではなかった。そんなにアイスキャンディーが好きなら一人で一生食べていればいいのだ。それで身体を壊しても絶対に看病などしてやらない。
つんとして無言を貫いていると、視界の端からおずおずとアイスキャンディーが映り込んでくる。
「お前も食べるか?」
「ぼくは甘いものは苦手です」
「そんなこと言わずに。お前が思ってるほど甘くないぞ。ほら」
ずい、と口元に差し出される。距離感を間違えたのか、唇に氷の冷たさが触れた。びくりと身体を引き、アスベルを見つめる。
「兄さん」
「ご、ごめん。でもほら」
何がでもなのか分からないが、再びアイスキャンディーの先がこちらへ向けられる。いらないと突っぱねてしまえばいいのに、それができないのが自分の弱いところだと思う。
兄の子どもっぽい顔がしょんぼりとしおれて、まるでご機嫌取りでもするかのようにじっと覗き込まれると、もう放っておけなかった。
「そ、そこまで言うなら一口だけ…」
斜め下へ目線を逸らし、歯の先で氷の欠片を齧り取る。じわりと冷たい味が広がった。舌に残った微かな甘味を飲み込むと、アスベルが首を傾げる。
「な?」
「そうですね」
にこりと間近で微笑む彼を直視できず、無意味に咳払いをする。
口にしてから気づいたが、つい兄の手から直接物を食べさせてもらってしまった。無性に恥ずかしい。頬が熱くなる。
そんな内心など露知らず、アスベルは嬉しそうに二口目を勧めてきた。今度はきっぱりと断ったのに、ぐいぐいと故意にアイスキャンディーを唇に押しつけてくる。一度でもこちらが折れてしまうと、途端に強引になるのだ。いつもこのパターンだ。
アスベルに対する苛立ちと、こうなると分かっているのに許してしまう自分への悔しさが湧き上がる。
「ほら、もっと食べろよ」
「んー」
顔を背けようとしても迫ってくるので、反対に思い切り大きな口を開けて噛みついてやる。がり、と口いっぱいに詰まった氷がじんじん歯に染みる。
「あ、お前食べすぎだぞ!」
「兄さんが無理やり食べさせようとしてきたんでしょう」
もごもごしながらだったので言葉は聞こえなかっただろうが、意味合いは伝わったらしい。恨めしげに見つめてくるアスベルに、気分が少し晴れる。こめかみの痛みを感じながら苦労して氷を片づけていると、唐突にあっと彼が声を上げた。見ると、溶けたアイスキャンディーが棒を伝い、指に垂れている。
「何をしているんですか」
やっと自由になった口で軽く責めてから、彼の手にあるアイスキャンディーと自分のハンカチを取り替える。
「だってヒューバートが俺のアイスを」
「はいはい。言い訳はいいですから、早く手を拭いてください」
「うう…」
大人しく項垂れた兄に満足し、とりあえず溶けたところを何とかしようと吸いつく。氷菓子だから普通のアイスクリームに比べて温度に弱いのだろう。既に固まりが緩くなっていて、端の方がぐずぐずに崩れそうになっている。棒を横にすると落ちそうだったので、顔を傾けながら唇で壊さないように削り取り、垂れそうになっている雫を舐めた。あらかたやり終えて視線を上げると、何故か兄の頬がやたらと赤い。
「どうしました?」
首を傾げた格好のままアスベルを見上げる。彼はあーうー唸りながら視線を彷徨わせた後、照れたように笑った。
「何かやらしいなあと思って」
「はっ?」
思わず目を見開く。
やらしい、何が、と自分自身に問いかけ、すぐにたった今自分がした動作に行き当たった。息をのむ。
色々な感情が喉に溢れてきて言葉にならなかった。じわ、と首から頭の天辺まで羞恥がせり上がってくる。
「あ、ごめん、ヒューバート。何も泣かせるつもりじゃ…」
泣いてないと食ってかかりたかったが、事実目頭に涙が浮かんでいたので黙って睨みつけるしかなかった。すると罪悪感で焦っているらしい彼は、一生懸命余計なことを言った。
「い、いつもしてもらってるときはまともに見てる余裕がないから、嬉しかったというか、ええと」
「ば…」
「ば?」
不思議そうに揺れる頭を、力任せに引っぱたく。
「ばっかじゃないですか!」
「いたっ」
横に倒れた彼を放置し、手元のアイスキャンディーにかぶりつく。
「お前、俺のアイス!」
慌てて起き上がってくるが、大した量も残っていなかったので奪われる前に全て食べきってしまう。ああ、と必死な声のアスベルが飛びついてくる。バランスを崩し、二人してベッドに沈んだ。胸元に縋りついた彼が涙目で訴える。
「どうして一人で全部食べるんだよ」
「兄さんが変なことを言うからでしょう」
「ヒューバートがいやらしいのが悪いんだろ!」
「意味が分かりません!」
強く言い返すと、アスベルは心底悲しみに満ちた様子でぽつりとこぼす。
「リンゴ味はこの時期限定だから、いつでも食べられるわけじゃないんだぞ」
そんなことを言われても、泣きたいのはこちらの方だ。まさかアイスキャンディー一つでここまで落ち込むとは思っていなかったし、大本の原因が自分のつまらない羞恥心や嫉妬であることも薄々自覚していた。食べ過ぎたのも確かに自分が悪いのかもしれない。それでも素直に謝れない。
こちらの唇に残る味を求めてか、何度かアスベルに啄ばまれる。
「…また買ってきたらいいじゃないですか」
見かねて合間に呟くと、彼は緩々と首を振る。
「いい。さっきので最後の一本にするつもりだったんだ」
「まだ食べられるんでしょう?」
あの様子だとまだ四、五本はぺろりといけそうだった。しかしアスベルは苦笑する。
「ヒューバートが心配してくれてるのに、悪いこと言ったと思ってるんだぞ」
「え?」
驚いて問い返すと、彼は薄く肩を揺らした。
「食べ過ぎてお腹壊すなんて注意されたの、久しぶりだ」
ふわりと柔らかい頬が鎖骨の辺りにすり寄せられる。ふかふかの髪が顎をくすぐった。
何と返したらいいか分からず黙り込めば、アスベルの指が愛しげに肩を撫でてくる。
「お前が怒ってるの見て、本当に俺のこと考えてくれてるんだと思ってさ。そのときにちゃんと言えばよかったんだよな。ごめんな」
優しい声に、胸が押し潰されたように軋みを上げた。
兄のそれは勘違いだ。自分が怒っていたのは、単に彼が自分よりアイスキャンディーに夢中になっていたからで、身体を思ってのことではない。折角の自由時間なのだからもっと兄と一緒にいたかった。それだけだ。頭の中は、違う意味で兄のことばかりだ。
居た堪れなくなって横を向く。握ったままのアイスキャンディーの棒が目に入った。
「あ。アタリ」
同じタイミングでアスベルが呟く。盗み見ても髪で隠れた表情は分からなかったが、物欲しそうにしているのは明らかだった。
「兄さん」
そっと身体から降りるよう膝でつつき、当たり棒を彼に見せる。
「これはぼくが貰ってきます」
「ああ…」
落胆しきった様子のアスベルに、緊張がばれないよう自然な仕草で付け足す。
「兄さんにも分けてあげますから、落ち込まないでください。ちょっと齧るくらいなら大丈夫でしょう?」
がばりと彼が顔を上げた。想像以上の勢いに身を引くと、彼は表情を輝かせてふるふると震えてから、力強くこちらへ抱きついてくる。
「ああもう!好きだ、ヒューバート!」
しなやかな腕に包まれて鼓動が高鳴る。反射的に白いコートを掴みながら、たどたどしく場を繋いだ。
「あ、アイスくらいで大袈裟な…」
「ふふ」
意味深に笑みをこぼしたアスベルに唇を押し当てられ、舌を食む。冷えた口内にやけに唾液が熱い。身体に馴染む体重に、ぎゅうと目を閉じて身じろいだ。煽るように指先で耳をなぞられる。
「アイスもだけど」
なけなしの理性で身体を引き剥がすと、吐息がかかりつややかな唇が緩んだ。
「ヒューバートが俺に優しいのが、嬉しい」
ぐ、と喉が鳴る。
そうやって無邪気に誘うのはやめてほしい。拳を握ると、手のひらに硬い感触が食い込んだ。
「なら、ぼくがいればこれは必要ありませんか」
「それは別だ」
意趣返しのつもりで翳した当たり棒に、彼はとんでもないと首を振る。
アイスキャンディーも弟も欲しいらしい。欲張りだ。八つ当たり気味に思えば、彼は微笑みながら棒の先に口づけた。伏せた睫と、柔く歪んだ唇に目を奪われる。
「食べたらしよう」
甘い囁きが耳をくすぐり、堪らず片腕で顔を覆う。
「すみません。代わりに行ってきてください」
アスベルがおかしそうに笑うのが聞こえる。
「味、好きなの選んでいいか?」
「いいです。何でもいいです」
「やった」
がむしゃらに頷くと、するりと指の間から当たり棒が抜き取られる。爪にキスされて彼の体温が離れた。寂しいのとほっとするのとで息を吐いたところに、臍の辺りを撫でられてびくりと震える。兄さん、と非難する。
「ごめん。行ってくる」
扉が閉まり、アスベルの気配が遠ざかる。はあ、と大きな溜息を吐いて腕を投げ出した。兄の奔放さには敵わない。普通、立場的に恥ずかしがるのはあちらの方ではないだろうか。あんなふうに挑発されて、到底優しくしてやれる自信はないのだが。
「知りませんよ、本当」
呟き、また一つ溜息を落とすのだった。
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