王子王妃



初めから変だと思っていたのだ。
劇が終わってからの兄はどこか落ち着かない様子で唇を押さえ、華美な舞台衣装を着替えようともしない。ぼうっと遠くを見つめて突っ立っている姿は、明らかにおかしかった。
「大丈夫ですか?」
もしや体調でも悪いのかと覗き込むと、アスベルは気まずそうに視線を逸らす。
「いや、何でもない」
兄にしては珍しい反応に、益々不信感が募る。劇が始まる前の彼は至って普通だったから、何かあったとすれば最中か終わった直後のことだろう。可能な限り記憶を探ろうとしてみるが、生憎と自分自身のことに精一杯で、兄の姿はあまり見ていなかった。
(あんな役さえ割り当てられたりしなければ!)
しかし後悔しても遅いので、どうにか彼の表情から原因を読み取ろうと顔を近づける。そして眉を顰めた。
「もしかして熱でもあるんですか」
健康的だがどちらかと言えば白いアスベルの肌が、ほんのりと赤く染まっている。手を伸ばして触れようとすると、一瞬だけびくりと震えた。拒絶するような素振りに驚くが、構わず手のひらで包み込む。おずおずとアスベルがこちらを向く。
それで視線は合ったはずなのに、やはり彼の目は違うところを見つめていた。心ここにあらずとはこのことだろう。
これは見た目に分かりにくいだけで、本格的に体調にきているのかもしれない。
「兄さん、早く着替えて休みましょう」
彼を服のあるところまで引っ張っていこうとすると、逆に腕を掴まれて身体がぐらつく。そのまま壁際へ追いやられたかと思ったら、目の前に彼の顔があった。
「にい…」
むに、と柔らかいものが唇に押しつけられ、一口に啄ばまれる。思いのほか深く重なった体温に後ずさると、すぐに背中が壁に当たった。
「んっ、ふ、うう」
口内を探るというよりも、単に唇の感触を味わっているようだった。延々と繰り返されるキスに、息が荒くなってくる。まるで犬のようだ。薄目を開けて乱雑に彼の髪をかき回すと、安っぽいレプリカの王冠が外れて、床で乾いた音を立てる。
唇の間では唾液の他に、王妃役ということで施された薄い口紅が溶けてぬるぬると油になっていた。白粉や香水の匂いが混ざって気持ち悪い。けれどかえって興奮しているのも事実だった。そういう趣味はないはずなのに、と頭の隅で思いながら、普段と違う感覚に身を震わせる。兄もいつも以上に執拗だった。何度も唇を食まれているうちに、意識がぼんやりとしてくる。
ゆるゆると服の上から胸元を撫でられ、心地よさに目を細める。しかしその指が意図的に突起を押し潰した瞬間、痺れるような感覚で我に返った。
こんな場所で行為に及ぶなんて、冗談ではない。首を振って強引に兄の顔を離させる。
「に、兄さん、これはちょっと」
胸をいじる腕に手を添えると、アスベルはそのままの距離で口を開いた。
「何でだ」
「分かるでしょう!絶対誰か来ますって」
兄の湿っぽい息が耳にかかって、慌てて小さく叫ぶ。早く解放してくれないと一人で部屋まで戻るのも難しくなりそうだった。
だがそんな心境も知らず、アスベルはそれなら大丈夫、と何の気もなしに恐ろしいことを告げた。
「さっき入り口のところに教官がいたから」
「は?」
「だから多分、ここには誰も来ない」
頭の中が真っ白になる。
(教官がいた…?)
いたから、彼が気を遣って人払いをしてくれているはずだと。
それはありがたいが、そういう問題ではない。いたということは見られたということだ。実の兄と舌を絡めてキスしているところを、赤の他人に。
「やっ、嫌です。兄さん、嫌」
意識した途端、首から耳まで羞恥で熱くなる。
兄との関係は長く、マリクと隣室になったときにも何度か身体を重ねていることもあって、さすがに彼にばれていないとは思っていない。けれど互いにそれについて口にしたことはなかったし、彼も余計な詮索はしてこなかったので、関係を知られているという認識が薄かったのだ。
見られている。今この瞬間、自分が兄と身体を交えようとしていることを、彼は知っている。居た堪れなくて死んでしまいそうだ。
アスベルの身体を押し返そうとするが、いつの間にか腰をがっしりと掴まれてしまっていて逃げられなかった。不慣れな高いヒールや、足首まで纏わりつくスカートも、こちらの動きを鈍くする。
「本当にやめてください。お願いですから」
「嫌なのか?こっちは立ってるけど?」
「あっ」
下半身をなぞられ、目に涙が浮く。
兄の言う通り、嫌だ嫌だと言いながらしっかり反応している自分が恨めしい。もうこんな状態では、どちらにしてもここでしていかなければ外へは出られない。
再び近づいてきた兄と唇が合わさり、舌を吸われる。同時に指先で胸を、膝で下半身を擦られると、びりびりとした刺激が背筋を上っていった。
「ヒューバート、後ろ向いて」
耳元で兄が囁く。そんな声で言われたら、勝手に身体が従ってしまう。
熱い息でこくりと頷き、壁に寄りかかる。頬に触れる壁は何だか異様に冷たくて、火照った肌に気持ちよかった。のろのろと瞼を持ち上げ、そして、そこにあったものに目を見開く。
「なっ…」
反射的に視界を閉ざすが、あまりに衝撃の強い光景は鮮やかに瞼の裏に焼きついてしまっていた。浅ましく頬を上気させて、目に涙を溜めた自分の姿。最悪だ。
「何で、鏡…」
物置のような舞台裏の壁に唯一引っかけられた鏡に、自分は凭れかかっていたのだった。
身を捩ると腰に兄の高ぶりが当たって息が詰まる。その隙に、スカートの裾を持ち上げた兄の手が太腿を辿ってきた。既に色々と滲んだ下着をずらされる。外へ解放された先端がさらりとした生地に触れる。水分が吸収される感覚に焦って、下を見た。
「服が」
これから軍服に着替えたら返却しなければならないのに、もし変な染みを作ってしまったら何と言い訳をしたらいいのか。
アスベルに押さえつけられてしまっているために、鏡との隙間はほとんどない。それでももぞもぞとしていると、どこか不機嫌な様子の彼が一度身体を浮かして乱暴にスカートをたくし上げた。
「持ってろ」
腹まで露わになった肌に、耳が熱くなるのが分かる。けれど有無を言わさない兄の口調と、服を汚してはいけないとの思いでスカートを握り締める。それを確認した兄は、また体重をかけてこちらの身体を押しつけた。ひたりと下半身が鏡面について震える。無機質な冷たさが刺激になって、溢れ出た先走りが鏡を伝い垂れていく。
アスベルの手のひらと鏡面で挟むように扱かれて、痛いのか、熱いのか、それとも冷たいのか、訳が分からなくなってくる。ただ、背中に密着している体温だけが確かだった。
「ふ、あ…」
呼吸で目の前の鏡が白く曇る。あともう少しでというところで兄の手が離れてしまい、熱で眩んだ視界で振り返る。
アスベルは近くの机から小瓶を取っていた。中に入っているのは、身体用のクリームだ。劇が始まる前に、あの作家が、俳優は肌が命とか何とか言って全員に塗るように指示していたものだ。
「勝手に使っていいんですか」
「使わないと痛くないか?」
「それ以前にしないという選択肢は…」
もし本当にやめられたら困るのは自分なのだが、あまりにアスベルが平然としているのでつい尋ねてしまう。
彼は指に白いクリームを纏わりつかせながら、一言口にした。
「ない」
べろりとスカートの後ろも捲られ、中にこもっていた熱気が逃げる。寒さに首を竦めていると、クリームが肌に触れて変な声が出た。それと同時に思わず引いた腰をアスベルに抱え込まれる。ヒールで高くなった身長の分だけ強引に足を開かされて、自然と後ろへ突き出すような姿勢になった。指がゆっくりと押し込まれる。
何度されてもこの異物感には慣れない。はあはあと息を吐き出して、気色悪い感覚を誤魔化そうとする。いっそここで萎えてしまえばいいのに、腰を押さえていた手が下りてきて中心を緩々と握るから、嫌でも身体が反応してしまう。
胸を塞がれるような吐き気が、じわじわと内側から別のものへ塗り替えられていく。この時間がたまらなくやるせなかった。
「兄さん…」
瞬きをすると涙が零れる。
指が抜かれて代わりに兄のものが入ってくる頃には、もう限界だった。
「あ、んんっ」
後ろから勢いよく貫かれ、膝が崩れそうになる。普段なら耐えられるのに、不安定なヒールではそれもできず目の前に鏡に縋りつく。
(…ひどい顔だ)
滲んだ視界が余計に歪んだ気がした。ぐしゃぐしゃに乱れた黒いドレスに、悪趣味な装飾品。
何をしているんだ、と唇を噛もうとしても、鼻にかかった喘ぎ声が邪魔で口を閉じられない。自分と対照的な衣装に身を包んだ兄は、顔を真っ赤にして眉を寄せていた。鏡越しに視線が合うと、いつもの顔で笑って耳に歯を立ててくる。
「やっ、だ、兄さん」
硬い歯の感触や吐息に、ぞわりと背筋が粟立つ。
そうして小刻みに揺さぶられると頭がおかしくなりそうで、必死で兄を呼んでは返される余裕のない声に神経まで狂っていくようだった。好きで好きでたまらない。早くこの苦しさから解放されたい一心で、兄へ腰を擦りつける。
「も、だめです。にいさん、奥…」
後ろで息をのむ音が聞こえた。腰を支える指に力がこもったかと思ったら、望んでいた熱が打ちつけられる。耳を覆いたくなるような甲高い声が喉から漏れる。爪先から旋毛まで駆け抜けるものに目を閉じて震え、間もなく吐き出された兄の体液に緩い溜息をこぼした。





「床、拭いてください。あと鏡も」
ぐったりと地べたに座った状態で、椅子に上半身を凭れる。まだあのきつい軍服を着る気にはなれなくて、ドレスの格好で足を投げ出していた。
アスベルは何も言わず、黙々とその一角を片づけている。腫れぼったい目を擦りながら見つめていると、やがて作業を終えたのかこちらへ近づいてきた。片膝をつき、自分と目線を合わせてから、椅子の上で握っていた眼鏡を奪っていく。
何するんですかと声に出す前に、そっと眼鏡の蔓を顔に差し込まれた。
ぱたぱたと瞬きをすると、鮮明になった視界の中で兄が微笑む。その顔に王子の衣装が妙に似合っていて、そんなつもりはなかったのに口元が緩んでしまう。兄の手が伸びてきて頬を包まれる。唇を食んで離れていく表情は、優しくて好きだ。
「やっぱりお前とだと安心するな」
「…弟だからですか?」
思わず気だるい自嘲が漏れる。
「ぼくは兄さんとは反対なんですけどね」
そうなのか、と不思議そうにする兄は、自分が兄に抱いているような胸の痛みを微塵も感じてはいないのだろう。
頬に添えられたままの手を取り、滑らかな甲に唇を落とす。自分はこんなにも苦しく、悲しい気持ちになるというのに、アスベルはきょとんと目を瞬かせるばかりだった。

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