弟の優しさが、どこからくるのか知りたかった。今の自分が弱っているからなのか、兄だからなのか。それならもし自分が完璧な人間で、彼とも血の繋がりがなければ、こうして顔を合わせることもなかったのだろうか。それを思うと悲しくなる。同時に、昼間のことを思い出した。
「なあ、ヒューバート……」
「はい」
「お前本当に彼女とは何ともないのか」
絡めた指が逃げようとするので、その前にきつく腕を掴んだ。ヒューバートが悔しそうに眉を寄せる。だが彼の機嫌になど構っていられないほどこちらも切迫していた。
自分が兄だからという理由で彼に甘やかされているのだとしたら、彼女は一体どうなのだ。
「教えてくれ。ヒューバート」
痛みに顔を顰めた彼が首を振る。
「ですから! 何度聞かれても、ぼくは同じ答えしか返せません。いい加減しつこいんですよ」
「じゃあどうしてあんな顔で笑うんだよ!」
「は?」
あれほど自然な笑顔を他人に向ける弟は初めてだった。特別なのは自分だけだと思っていたのに。大切なたった一人の弟なのに。いずれは彼も家庭を持って自分から離れていってしまうのだ。
だからといって自分達の繋がりが切れてしまうわけではないと分かっていても、必要以上に膨れ上がった感情は、そう簡単には収まらない。目に涙が滲んだ。
呆気に取られていたヒューバートが、苦々しくこめかみを押さえる。
「はあ、そういえば酔っているんでしたね。ぼくとしたことがつい……」
拳を振り解こうともがいていた腕の力が抜け、逆に手のひらで包まれる。
「兄さん。もう寝た方がいいです。水を持ってきますから手を離してください」
「嫌だ」
「兄さん……」
困り果てる弟を睨みつける。
彼の、赤子に言い聞かせるような声音に反抗心を煽られた。人を完全に酔っ払いだと思っているのだ。きっと自分の言葉もうわ言程度にしか聞いていないのだろう。
無性に腹が立って、思い切り彼の腕を引っ張る。
うわ、とバランスを崩したヒューバートは、ベッドに乗りながら顔の両脇に腕をついた。覆い被さってくるような体勢で、逆光の中見つめ合う。掴んだ手は放さない。
「あの子は、お前のことが好きなんだぞ」
唇でぼそりと呟く。自分のものとは思えないほど暗く乾いた声だった。
彼は一瞬身構えたが、すぐに全身から感情を削ぎ落とす。
「……だったら何だと言うんです」
「嫌だ」
反射的に力を入れる。
「お前は、俺の弟だ」
声が宙に消え、空気が張り詰める。じり、と顔の横で布の擦れる音がした。
ヒューバートの拳が、間接を白くしてシーツを握り締めていた。
「俺のって……。何ですか。駄々をこねないでください。子どもでもあるまいし」
いつものあの嫌味っぽい笑みを浮かべようとしているのだろう。不恰好に引きつった唇を、静かに見上げる。
「子どもでいい。お前が側にいてくれるなら」
「ふざけないでください」
「俺は本気だ」
「嫌だと言っているでしょう」
「聞いてくれ、ヒューバート」
「やめてください! もう沢山です……」
拒絶するように顔を背ける。ぐしゃぐしゃに歪んだ瞳が悲しかった。そっと手を伸ばす。頬に触れると、小さく彼の身体が跳ねた。その反応に酔いが醒める心地だった。
自分勝手な感情で彼を傷つけてしまったことに、今ようやく気がついた。
「ごめん、ヒューバート」
手のひらでゆっくりと頬を包む。彼が唇を噛んで逃げ回るのも構わず続けていると、そのうちに細く震える息が吐き出された。
「もう、いいです。分かりましたから手を離してください。お願いします」
ぐ、と手の中の腕が動いて、自分が未だに彼を拘束したままだったことを知った。拳を開く。彼がふらふらと上体を起こした。ベッドにへたり込み、手の感触を確かめるように指を開閉させる。ひょっとすると痕になってしまったかもしれない。追って起き上がろうとすると、彼はびくりとベッドから降りた。避けられた。呆然として身体の動きが止まる。
彼はこちらを視界に入れたまま後退し、水を取ってくると言って部屋の奥に消えた。青い軍服が見えなくなる。
「ヒューバート」
声をかけても、今度は戻って来てくれなかった。
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