03.しるしを付ける ※ED後
小さな背凭れを引き、そっと壊さないように腰掛ける。
昔は床に足が着くか着かないくらいだったのに、今では低すぎて変に足が余ってしまう。不恰好な自分に笑みを漏らす。勉強机は昔のまま、埃だけが綺麗に掃除されていた。きっと母がしてくれているのだろう。誰も何も言わないが、そう思う。
(ヒューバート、気をつけて行くのですよ。どうか。どうか…)
最後に見たのは泣き顔だった。
崩れ落ちそうなほどにぼろぼろと涙を流す母に、得体の知れない不安を感じたのをよく覚えている。母はどんなときでも穏やかに微笑み、真っ直ぐに背を伸ばしている人だった。それがあんなふうに泣くことがあるなんて。思わず父の手を掴むとぎゅうと強く握り返されて、とても痛かった。
養子に出されたときは、捨てられたのだと思った。長男ではない自分は、やはり両親にとって必要のない存在だったのだろう。
それなのに、ストラタの軍人として戻って来た自分へ、母は嬉しそうに手を伸ばした。自分を捨てたくせに、まるで何もなかったかのように再会を喜ぶ母に苛立った。許せなかった。だから撥ね退けた。母は傷ついた顔をして、また七年前と同じように泣き出した。
(何で…)
自分だって、泣きたかった。
母が心から望んで自分を手放したのではないことくらい、態度を見れば分かることだった。それでも今更あの頃のようには戻れない。戻ったら、今まで積み上げてきたものが壊れてしまいそうで怖かった。自分はオズウェルとして死に物狂いで生きてきたのだ。それを否定することはしたくない。
そうやって頑なになる自分に、兄だけは変らない姿で接してきた。いくら突き放しても罵倒しても、こちらへ向かって手を伸ばしてくる。馬鹿じゃないのかと思った。自分が彼にどんな仕打ちをしたか、忘れたわけではないだろうに。
けれどその手に触れられているうちに、少しずつ何かが溶けていくのを感じた。
自分を弟と呼ぶ兄の声はあの頃と同じで、温かくて心地いい。兄さん、と呼び返すと、彼は頬を蕩けさせて笑った。こんな自分でも兄にとってはまだ弟なのだ。それなら母にとってもそうなのだろうか。手を伸ばせば、自分を受け入れてくれるのだろうか。
(…息子が母親の顔を見に来たらいけませんか)
(い、いいえ。そうね。何もいけないことなんてないわね。私たちは、親子なんですものね)
ふわりと母が笑う。その表情を見たのは、本当に久しぶりのことだった。
「ヒューバート、フレデリックがお茶を淹れてくれたから」
がちゃりと部屋のドアを開けた兄が、ぎょっとして目を丸くする。そういえばずっと子ども用の椅子に腰掛けたままだった。兄が驚くのも当然だろうが、それにしたって間抜けな顔だ。
「そんな顔をすると兄さんのファンが泣きますよ」
「何だよそれ」
「そのままの意味です」
くすくすと声を揺らして立ち上がる。中央のテーブルにつくと、アスベルがトレイを下ろした。二つのカップに、赤いジャム入りのクッキーが添えられている。しっとりとした甘さのそれは、兄弟揃っての好物だった。いつも午後になるとフレデリックが持ってきてくれるのが楽しみでそわそわしていた。
「昔はよくぼくの分まで取って食べていましたね」
「あ、あのときは腹が減ってて…。悪かったよ。食べるか?」
そう言って差し出してくるのを断り、カップを傾ける。深い紅茶の香りを吸い込んでいると、兄が決まり悪そうに頬をかき、さくりとクッキーを齧った。それから、あ、と思い出したように顔を上げる。
「どうかしましたか」
「この間、久しぶりに部屋を掃除しようと思って」
「その割りに全然片付いていないようですが」
「うるさいな。じゃなくて、懐かしいもの見つけたんだよ」
テーブルを離れ、自身の勉強机へ向かうアスベルの後を追う。相変わらず雑然としたその脇の壁に、黒い線の跡が残っているのが見えた。
「これは…」
指先でなぞる。線の横には自分達のイニシャルが添えられていた。上が兄で、下が自分。昔兄に引っ張られるままに、自分達の身長を記録したものだった。何本か引かれた線はどれも腰辺りの位置で、微かに胸が痛む。
「まさかまだ残ってるとは思わなくてさ…。というか、見つけるまで忘れてたんだけどな」
振り返ると、兄が優しくこちらを見つめていた。
七年前は見上げるばかりだった瞳がほとんど目の前にある。掠めるように唇が重なり、髪を撫でられた。大きくなったな、と微笑む声がくすぐったい。
「子ども扱いしないでください」
口を尖らせても、彼は楽しそうにするだけだった。きっと自分が本気で嫌がっているわけではないのを、分かっているのだろう。
「そう言われてもなあ。俺の方が年上だし」
力強い指が慈しむように触れる。振り払えずにいると、その手が頭のすぐ上ですいすいと前後に動いた。
ん、と眉を寄せる自分に、無邪気な口振りで兄が言う。
「ほら、俺の方が背も高い」
「な…!」
ぱしんと彼の腕を落とし、後ろへ下がる。
「そ、それは、今はそうかもしれませんが、まだ成長期なんです!伸びます!」
「お前が伸びるなら俺もだな」
「それくらいすぐに追い抜いてみせます!」
現にあの頃より身長差は縮んでいるのだ。このまま順調に成長してくれれば、兄より大きくなることだって不可能ではない。
(ない、はずだ。多分…)
俯く自分に、兄はにこにこと口を開く。
「夕食はミルク料理にしてもらうか?今なら頼めばまだ間に…」
「結構です!」
きっぱりと吐き捨ててから、重い溜息を吐いた。
これが嫌味なら冷静でいられるのに、兄の場合は完全にただの好意から言っているので性質が悪い。眼鏡を直し、見ると彼は心成しか落ち込んだ様子で小首を傾げた。これだから、とまた溜息を落とす。
「それよりぼくはオムライスがいいです。最近食べていないので」
「ああ、じゃあ早速厨房に行かないとな!」
途端顔を輝かせるアスベルに苦笑する。
これではどちらが兄か分からない。シェリアが肩を竦めていたのを思い出す。
彼女は自分達が昔と立場が逆になったと言っていたが、兄に振り回されているのは何年経っても変わらなかった。大変な人を兄に持ってしまったと思うけれど、一番厄介なのはそれを嬉しいと感じてしまう自分なのだろう。
全く本当に、敵わない。
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