暇だった。その日の授業が終わってしまえば、他にこれといってやることもない。
ばらばらとノートを捲くり、ピオニーは机に上半身を倒れ込ませる。
あまりにも暇なのでたまには予習でもやってみようかと思ったのだが、どうせ屋敷に戻れば嫌でも勉強漬けにされるのだ。ここにいるときくらいは何も考えずに遊んでいたかった。
それなのにネビリムは奥の書斎に引っ込んでしまったし、ネフリーは新しいクレヨンに夢中でなかなか相手をしてくれない。
残る二人は選択肢にも上らなかった。一体どこから見つけてきたのか、彼らはやたらと文字の細かい本を広げて議論を交わし続けている。
自分は決して馬鹿な方ではないが、それでも彼らの言葉を理解することはできない。
次元が違うのだ。仮に死ぬ気で勉強して彼らと同じ知識を見につけたとしても、やはり会話は成り立たないだろう。
自分と彼らとでは、そもそも立っている場所が違う。
ピオニーが見る限り、ジェイドとサフィールは揃って同じ場所に立っていた。ジェイドがサフィールに寄ったのでも、その逆でもない。恐らく元々そうだったのだ。出会う前の彼らを知らなくても分かる。彼らからは同じ匂いがした。
「なあネフリー、あいつら仲いいのな」
「なかいいのー」
ネフリーは顔も上げなかった。ピオニーは目尻を緩ませ、頬杖をつく。ぼんやりと二人の方へ目線をやった。
（しかし顔近すぎだよな…）
あとほんの少しでも動いたらぶつかってしまいそうだ。
どちらも縄張り意識は人一倍高いというのに、本に熱中しているためか不自然な距離に気づく様子もない。
そんなに面白いのだろうかと首を傾げ、そうなのだろうなと納得する。普段の感情の読めない無表情と違って、今の二人はひどく生き生きとしていた。
ピオニーは仲間外れにされた気分で口を尖らせる。
きっと自分には、一生彼らと同じ風景を見ることはできないのだろう。別に無理に知りたいとは思わなかったが、寂しくは感じた。まるで自分だけが輪の外にいるようだ。
ピオニーはじっと黙り込む。
しばらくそうしていると、不意にジェイドの手が反対側のページへ伸ばされた。
擦れ擦れの位置でサフィールが顔を動かす。
息を止めたピオニーの視線の先で、二人は何ごともなかったかのように会話を続けていた。どっと溜めていた空気を吐き出す。事故が起こらずに済んでよかった。あの二人はしっかりしているようで、変なところで危なっかしいから見ていられない。
ピオニーは堪らず声を上げた。
「なあ、お前ら」
「何？邪魔しないでよ」
間髪入れずにサフィールが睨んでくる。
ひどい顔だ。ジェイドに向かっては決して見せない、言い換えればピオニー専用の顔だった。
へらりと笑ったピオニーに、サフィールは嫌悪感丸出しの表情を返す。苛立ったのか、自然と声も大きくなった。
「ジェイドは今僕と話してるんだからね！」
「うるさいよ、サフィール」
隣のジェイドが耳に手を当てる。
「あっごめん」
ジェイドは小さく息を吐く。しかし彼にしてみれば至近距離で大声を出されたことよりも、話の腰を折られてしまったことの方が不快だったのだろう。冷めた目をピオニーに向ける。
「何か用？」
「ああ、いや…」
咄嗟に言葉が出ずに口ごもる。
ねめつけるような視線が痛い。お前らちょっと顔近すぎないか、と軽い感じでいこうとしていたのだが、もうそんなことを言える雰囲気ではなくなってしまった。
「…何読んでるのかと思って」
苦し紛れに返すと、ジェイドはつまらなそうに目を伏せた。
「多分言っても分からない」
「ああ、そうだろうな」
素直に答えただけなのに、何が気に入らなかったのかジェイドは眉を顰めた。
「なら邪魔しないでくれる？」
その突き放した態度にピオニーの方もむっとする。
「何だよお前ら。いつまでも本ばっか読んでないでたまには外で遊ぼうぜ」
「断る」
即答だった。ジェイドは続ける。
「お一人でどうぞ。僕たちを巻き込まないでください」
殿下、と一文字ずつ区切るように言われる。
どうやら怒らせてしまったらしい。普段ジェイドはピオニーのことを名前で呼ぶ。彼が殿下と口にするのは、ピオニーを煩わしく感じているときが大体だった。
「悪いが、俺は一人遊びは趣味じゃないんだ」
「だったらネフリーと遊んでればいいだろ」
ジェイドは目で彼女を示す。
「あそぶ？」
ネフリーの可愛らしい声が聞こえる。彼女はやはり画用紙に向かったままだった。
「これ一緒に遊ぶって言わないだろ！」
ピオニーが思わず抗議すると、ジェイドは大きな溜息を吐いた。ばたんと本を閉じ立ち上がる。
「サフィール、家に行こう」
あまりに唐突な提案に、サフィールも驚いたようだった。
「え？う、うん」
ジェイドは一番重い本を彼に押しつけると、ぽかんとするピオニーを一瞥する。
「ここじゃうるさくて敵わない」
うんざりしたと言わんばかりの視線に、ピオニーも立ち上がった。ジェイドが帰るということは、ネフリーもこの場からいなくなってしまう。ネビリムは仕事をしているから構ってはもらえない。
つまり自分一人が静かな教室に取り残されるということになる。そんなのはごめんだった。
「おいジェイド、待てよ」
「嫌だ」
彼はさっさと扉へ向かう。サフィールも本を纏め終え、その後に続いた。慌てて手を伸ばすピオニーの横を、ネフリーの小さな頭が通り抜けていく。
「じゃあね、バイバイ」
ネフリーが無邪気に手を振った。幼い仕草が胸を刺す。
何とかしなければ、本当にこのまま行ってしまう。しかし彼らを引き止める方法が分からない。どうすれば一緒にいてもらえるのだろうか。
待ってくれ、とピオニーが口を開きかけたそのとき、後ろで扉が開く音がした。
「あら、皆もう帰るの？」
「あー！せんせい！」
ネフリーが嬉しそうに跳ね上がる。彼女が駆け出した先には、すらりとした女性の姿があった。
ネビリムはネフリーの頭を撫でながら、ピオニーに向かって微笑む。ピオニーは首を傾げた。普段の彼女は一度書斎に入ってしまうと、塾を閉める時間までは出てこないのだ。
「もう仕事は終わったんですか？」
ジェイドが訝しげに尋ねる。ネビリムはにっこりと笑った。
「ええ、今日はね。いつもより早く終わっちゃったから暇なの。よかったら皆で雪合戦しない？」
「するー！雪合戦やりたい。ね、お兄ちゃん」
ネビリムの足に抱きつき、ネフリーがはしゃぐ。ジェイドは表情に困惑を滲ませた。ネビリムへ瞳を動かす。
「いいでしょう？ジェイドもサフィールも、少しは外で身体を動かした方がいいわ」
小首を傾げる彼女に、ジェイドは渋々頷いた。
決まり、とネビリムが手を叩く。
「全員外の広場に集合ね。私は鍵を閉めなくちゃいけないから、先に行ってて」
「はーい！」
ネフリーが両手を挙げ、一目散に外へ飛んでいく。
ジェイドも溜息を吐くと、サフィールに本を置くように指示してさっさと出て行ってしまった。
「待ってよ、ジェイド」
サフィールも小走りに扉を潜る。
一気に教室の中が静かになった。いまいち流れについていけなかったピオニーの肩に、ぽんと手が乗せられる。見るといつの間にかネビリムが近寄ってきていた。
「先生」
「行きましょう、ピオニー」
ネビリムは悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
その瞬間ピオニーは彼女が仕事を放り出して来てくれたのだということに気づいた。恐らく彼女は奥の部屋でこちらの声を聞いていたのだろう。それでピオニーを助けてくれたのだ。
ピオニーは胸が温まるのを感じた。こぼれる笑みもそのままに、力強く頷く。
「はい！」
外ではちらちらと雪が降っていた。
広場まで走っていく途中に、三人の後姿を見つける。遅れてついていくサフィールを追い払うジェイドに、それを可愛らしい仕草で責めるネフリー。
ピオニーは足の裏で雪を蹴った。ぐんぐんと彼らとの距離が縮まっていく。やがて手が届きそうになったとき、ピオニーは思い切り目の前の背中に突っ込んだ。
「うわっ」
ぐらりとジェイドが揺れる。横から、ぎゃあと悲鳴が上がった。
「ピオニー！ジェイドに何てことするんだよ！この、離れろ！」
「ははは、断る」
「ずるーい、あたしもおんぶ」
サフィールからは肩を、ネフリーからは服の裾を引っ張られる。
ジェイドは抵抗する気も失せたのか、ひたすら歩を進めていた。
ピオニーは大声で笑う。うるさい、とジェイドに頭を叩かれてまた笑った。何だかひどく馬鹿馬鹿しくて、楽しくて、たまらなくおかしい。心の底からそう感じたのは、久しぶりのことだった。
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