水の中の生活



厚い水の壁の向こうで、穏やかな光が姿を現し始めるのを感じていた。
素肌の上半身を朝の空気が包み込む。少し冷えた匂いを取り入れながら、ピオニーは大きく四肢を伸ばしていた。背中の下にいつもの肌触りのいいシーツはひかれていない。淡い青紫色の、ピオニーも気に入っているそれは、今はベッドの左下の方で小さく丸まっていた。
ぐしゃぐしゃの塊から流れ出る髪を眺める。
広いベッドなのだから身体を伸ばして寝ればいいのに、彼は何故か胎児のようにして眠る。綺麗なアーチを描く肩は昔から馴染みのあるものだったが、それが白い肌を剥き出しにしているのを見たのは、ほんの数年前が最初だった。
もう何年もこうしているような気がするのに、思い返してみれば案外短い付き合いだ。
ピオニーは小さく息を吐く。それからシーツに包まった彼の輪郭を目でなぞり、眉を顰めた。
相変わらず薄い身体だ。研究所にこもりきりだった頃と比べれば大分健康的にはなったものの、それでも軍人としては頼りなかった。これでよく、あの殺し合いを生き抜いてこられたものだ。
そろりと彼の頭に手を伸ばす。柔らかく絡みつく髪を梳いていると、やがて項があらわになった。
げ、とピオニーは顔を引きつらせる。
項のへこんだ部分に残る赤い痕に、またやってしまったと額を覆った。極端に情事の名残を嫌う彼は、肌の鬱血を見つけると途端に機嫌が悪くなるのだ。だからいつも言っているでしょう、という刺々しい声がよみがえる。
だがそんなに痕をつけられるのが嫌なら、あんな姿で誘わなければいいのだ。
彼は自分の容姿を理解しているから性質が悪い。月明かりに浮かび上がる肢体は、こちらの理性を飛ばさせるには十分すぎるものだった。
「全く、情けないにも程がある」
どっと溜息を吐くと、ジェイドが目を覚ましたのかもぞもぞと動き始めた。
手の中から長い髪が抜け出し、項を覆い隠す。普段と何も変わらない後姿に、ピオニーは思わず黙り込んだ。こうして見るとまるで痕なんて初めから存在しないかのようだ。
複雑な心境をごまかすように、ピオニーは思考を飛ばした。痕は自分では見えにくい位置にあるので、もしかしたらジェイドも気づかないうちに消えてしまうかもしれない。それならわざわざ告げることもないだろう。
そう考え、ピオニーは知らぬ振りをすることに決めた。腕を最初の位置に戻し、呼吸の速度を落とす。そうすると本当に眠くなってくるから不思議だった。きっとまだ身体が疲れているのだろう。
布ずれの音が大きくなる。ベッドが柔らかく軋んだ。
上半身を起こしたらしいジェイドの、弱々しい視線が辺りを見回す。窓の外、そこからぐるりと一周してピオニーへ。穴が開くのではないかというほど見つめてくるので、少し居心地が悪かった。恐らく寝た振りはばれているに違いない。一体ジェイドは何を思って視線を送ってくるのだろう。温度のない、作り物のような瞳がピオニーの頭に浮かぶ。
やがてシーツがするすると音を立てた。立ち上がるのかと思ったら、ジェイドはピオニーの腕のすぐ近くに身体を寄せてくる。ひやりとした指が腕を這う。震えなかったのは上出来だった。そのまま肘から下を取られ、つうと指先で筋を撫でられる。ジェイドはうつ伏せになって両肘で身体を支えているらしかった。ピオニーの手はちょうど彼の顔の前にある。息のかかる距離。戸惑うことなくジェイドはそこへ口づけてきた。指先からその付け根、手の甲から至る所を彼の唇が移動する。それがあまり自然に行われるものだから、ピオニーは動揺する前に気が抜けてしまった。乾いた吐息が、今度は手首から下へと辿っていくのを感じながらその真意を探ろうとする。
そうして彼の唇が肘まで到達しようとしたとき、ピオニーは音もなく目を開いた。眼球だけを動かすと、褐色の腕にまとわりつくジェイドの顔が見える。舌を覗かせる動きはどこまでも愛撫に近い、けれどもそこに熱はなかった。
「…ジェイド」
つ、と色素の薄い睫が上向く。真っ赤な虹彩。
うっかり息を呑んでしまったせいで、ピオニーは無表情な瞳と見つめ合う羽目になってしまった。ジェイドのつるりとした網膜に金色が映り込んでいる。透けるような虹彩の中で、それはひどく不純な色に思えた。
黙り込むピオニーの前で小さく息を吐いたジェイドは、吸いつくように一度腕に口づける。
「あなたならそのまま寝た振りをしていてくれると思ったんですけどね」
それから頬に褐色の手の甲を当てた。ピオニーは指の背でジェイドの頬を撫でる。
「悪かったな、期待に添えなくて。それで、どうしたんだ?」
ジェイドが情事の後にこうして接触してくるのは珍しいことだった。
「いえ何でもありませんよ。ただ」
腕を掴んだまま、ジェイドは半回転してピオニーの脇の下辺りに収まった。細い髪が腹を触ってくすぐったい。
「おかしなものですね、今更。どうしてこんなことになってしまったのかと思いまして」
ジェイドは腕を絡ませながら頻りに指先をいじってくる。人差し指の爪を、くいと強く押された。
「まさかよりにもよって、あなたとこのような関係になるとは思いもしませんでした」
「なんだ、身に余る光栄…か?」
「嘆いているんですよ」
「酷いな」
反射的に返した言葉は見事に無視された。
「いつから私はあなたの側にいたんですか?」
「ケテルブルクの、あの日からだろう」
違うでしょう、とジェイドは顎を上げて視線だけをこちらに向けてくる。
「少なくともあの頃は、私はあなたなんて見ていませんでした」
「だろうな」
ずっとジェイドを見ていたピオニーだからこそ、分かる。あの雪の時代、ジェイドの中にあったのは貪欲なまでの好奇心と僅かな感情だけ。それ以外などありえなかった。白色を映す瞳の純粋さを、ピオニーは今でも鮮明に思い出すことができる。
あのときは心が震えるようだった。幼い頃から血の海の中を生きてきたピオニーにとって、自分に全く関心を寄せてこない人間は何よりの救いだった。好意がない、代わりに悪意もない。危害を加えられる心配がない。怯えなくていい。
それがどれだけピオニーに安らぎを与えたか、ジェイドはきっと知らない。
「…何故こんな関係になったのか」
それだって簡単なことだ。ジェイドがピオニーを見なかったから。だから惹かれた。
最初は側で見ているだけでよかったのだ。ジェイドがいてサフィールがいてネフリーがいて先生がいる。至極穏やかな日々だった。幸せだった。それで満足していればよかったのに。
微妙な均衡が揺れ始めたのはその頃からだった。微温湯のように心地良い、いとおしい子ども時代は、ある日音を立てて崩壊した。
呆気なかった。心のどこかでそんなことありえないと思っていた自分が愚かしい。ピオニーは自分の手をすり抜けていく彼を引き止める術を持たず、雪の街からは僅か一年の間に三人の影が消えた。小さなネフリーと手をつないで、幼馴染の背中を見送った。
ネフリーは泣かなかった。きっ、と大きな瞳を細めて唇を引き結んでいた。
手段は選んでいられなかった。生物レプリカという最悪のものに手を出したジェイドを何が何でも止めなければならないと思った、それがこの結果だ。馬鹿らしい。正直こんな形で彼を縛りつけるのは嫌だった。それでも彼と共に過ごす日々は楽しいもので、そう感じていることにピオニーはまた暗い気持ちを抱える。驚くほど人の、特に自分に近い位置にいる人間の感情に鈍いジェイドは気づくこともないだろう。それにピオニーだって自分から言うつもりはない。気づかず終わってしまうなら、それが一番いい。
「お前には一生分からんさ」
ぼんやりとピオニーの肌に指を滑らせていたジェイドは、一瞬何ごとか言おうとして口を噤んだ。それから再度口を開く。
「そうですか。まあ、そうなんでしょうね」
「お前にしては随分曖昧だな」
ジェイドは淡く微笑む。
「別にあなたの心の内を聞いたところで、どうなるわけでもありませんから」
「はは、違いない」
乾いた笑いを吐くと、ピオニーはジェイドの側へ身体を反転させた。髪を下敷きにされたジェイドは僅かに眉を顰める。
「ジェイド」
「…何ですか」
物凄く嫌そうな顔で溜息混じりに言う。
太腿で足を撫で上げる動きは、空いていた方の手で阻止された。ピオニーはずいと顔を近づけジェイドの目を覗き込む。
「もう一度」
「はい残念ですね。昨日陛下がちゃんとノルマをこなされていれば、もう少しゆっくりできたのですが」
よく言う。こなしていたって、いつも日が昇りきる前に出て行ってしまうくせに。
ピオニーが渋い顔をしたからだろう、ジェイドは楽しそうに笑う。
「さて、それでは失礼します」
やけにすっきりした表情で、ジェイドは服を身につけ始めた。
外を見れば、もう水の壁も大分明るい色をしていた。今日も問題なく一日が始まろうとしている。頬杖で茫然としていると、ジェイドに声をかけられた。最後に恭しく一礼をして彼は部屋を出て行く。
扉の向こうに消えた栗色をいつまでも見つめながら、結局は場所が変わっただけで中身は同じなんだとピオニーは思う。自分はいつも彼の後姿を見ているばかり。そして彼は振り返らない。
縛ることはできても、引き止めることなどできはしない。

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