こつこつこつ、と机を叩く音が響き始める。
ジェイドは紙に走らせていたペンを下ろし、またか、とこめかみを押さえた。先ほどから何度注意しても、しばらく経つと鳴り始める音。無駄に規則的で神経質なそれに、どうしても集中力を奪われてしまう。
普段ならそれくらいの雑音など気にもかからないというのに、やけに耳について落ち着かない。
「やかましいですよ」
とつ、と音がくぐもり、空気が張り詰める。
数秒置いて、重い溜息が吐き出された。
「…すみません」
ディストは机に頬杖をついたまま、ぼうっと視線を伏せた。心ここにあらずといった様子にジェイドの方も溜息を吐く。このやり取りもこれで何度目になるのだろうか。
「そんなことではいつまで経っても実験室に入れませんよ」
「うう…」
小さな唸り声が、机に高く積み上げられた本の向こうに消える。頬杖を外して顔を机に突っ伏したのだ。
ディストはいい年をして駄々っ子のようにぐずる。いい加減腹が立ってきたジェイドはひくりと頬を引きつらせた。思わず詠唱を始めそうになるが、ここで譜術を発動すれば大量の書類を巻き込んでしまう。ただでさえ作業が進んでいないのに、これ以上遅らせるようなことをしてどうするのだと首を振る。
しかし黙らせることは必要だ。音に調子を乱されてしまい、自分の仕事もいつもの半分も終わっていなかった。
ジェイドは手近にあったクリップをディスト目がけて放り投げた。クリップと言っても、数十枚の紙を束ねられるものなのでそれなりに重さがある。天井に向かって綺麗な放物線を描いたそれは頂点を越えると速度を速め、ゴツンと銀色の頭に着地した。
「いたっ」
「文句ばかり言っていないで、さっさと終わらせてしまいなさい」
頭を押さえながら、むくりとディストが起き上がる。
「言われて終わるくらいならとっくに終わっていますよ。それにこんな紙切れで何が分かるというのですか。あいつらが私の書いたものを理解できるとは到底思えませんがね」
だるそうな声と共に瞼が伏せられる。
「第一、実物を見もせずに分かった気になるなど愚かしい」
ジェイドは無意識に書きかけの書類の縁を撫でた。そして我に返り、呆れた仕草を作って見せる。
「あなたの意見ももっともですけど、実物を作る前にそれを書かないと予算が下りませんからねえ。仮にも国の金を使っているんですから」
「それは分かってますよ」
ディストはじっと手元の書類を眺めていたが、何が気に入らなかったのかきつく眉を寄せる。
ぐしゃぐしゃに丸められた紙くずが、くずかごから盛り上がった紙の山に当たって落ちた。深紫色の絨毯に白が転がるのを見ながら、ジェイドはぼんやりと目を細める。
そこまで本気で悩まなくとも、彼なら口うるさい国の人間を黙らせることくらいわけはないだろうに。適当に済ませてしまえばいいものを、妙なところで律儀なのだ。馬鹿とも言える。
そうしているうちに、今度はペン先がかりかりと鳴り始めた。
「あー…」
「やかましい」
ヒュンと飛んだ二つ目のクリップも見事命中した。反動で頭が沈み、浮き上がる。
「い、痛いじゃないですか!」
引っくり返る声。赤くなった額とずれた眼鏡が間抜けで、ジェイドは言おうとしていた文句も忘れて頬を緩ませた。
「それくらい避けたらどうですか」
「避けられるわけないでしょう!ジェイド基準で考えないでください」
クリップを握った手が、だん、と机を叩く。
「おやおや、それはすみませんでした」
ディストは何かを言いかけて口を開き、ぐっと赤い顔で黙り込んだ。そのまま視線を逸らして机に向かう。それを見て、ジェイドは薄く笑んだまま息を漏らした。これで少しは大人しく作業を進めてくれるだろうか。
だが、こちらの思い通りにならないのが彼だった。
「駄目だ」
額を抱え、ぐったりと肩を落とす。しばらくの間に、くずかごの周りは床も見えない状態になってしまっていた。
そろそろ息抜きが必要だろうか。実践タイプの彼にとって、この類の作業はジェイドが想像する以上に厳しいものがあるのかもしれない。幼い頃を思い出してみても、本よりも譜業人形の方が彼のイメージとしては強かった。
ディストの指がしきりに机を引っかく。そういえば、この譜業馬鹿はもう五日も音機関に触れていない。
「はあ…」
しかし彼に音機関を与えると、息抜き以上の時間をかけて熱中されてしまう。一度スイッチの入った彼を止めるのは骨が折れるのだ。
「ジェイドー」
「却下」
「…まだ何も言ってませんけど」
前髪の隙間から、赤紫がじっとりとした視線を寄越してくる。ジェイドは肩を竦めた。
「どうせ代わりに書けだの、音機関をいじらせろだのと言うつもりでしょう」
う、とディストは口を噤み、気まずそうに目を逸らす。
「当たりですか。まあ、私が書いたところですぐにばれますし。音機関は…そうですね、一時間で戻れるなら許しましょう」
「一時間…」
「少ないですか?これでもかなり譲歩したつもりなんですけどねえ」
意地悪い笑みを浮かべて見せるが、口元に手をやり俯きがちに考え込み始めたディストの視界に、その笑みは入っていないようだった。ジェイドは表情を消し、腕を組む。
何をそこまでと思うほど真剣な表情に見入っていると、骨張った指の向こうで唇が動いた。
「一時間半」
「一時間」
「二時間…痛いっ」
ジェイドはばらけた書類の上にインク瓶を置き、さっと机の上を確認する。もう何も投げるものがなくなってしまった。
がしゃ、とクリップを自身の机の端に放りながら、ディストが上半身を倒れ込ませる。
「随分前に頼んでおいたパーツだって届いているのですよ。あれさえあれば製作途中の音機関が全て完成するのに」
「完成させただけでは満足しないでしょう」
でき上がった音機関を眺め、撫で、気が済むまでごてごてと悪趣味な装飾を施さなければ治まらない。
そう告げると一層譜業が恋しくでもなったのか、ディストはいやに悩ましげな溜息を吐き出した。
びくりと心臓が縮む。反射的に動いてしまった指先を握り込み、ジェイドは唇を噛んだ。
さすがに顔が赤くなるようなことはないが、聞き覚えのあるそれに、無意識とはいえ反応してしまった自分が腹立たしい。まさか勘づかれはしなかっただろうかとディストへ視線をやると、積み上げられた本の間から見える頭は、ジェイドとは反対を向いていた。
「最後まで手を加えなければ私の音機関とは言えませんよ」
柔らかな銀髪が、薄い頬や項をさらりと覆い隠している。喋ったときに口にかかったのか、指先が鬱陶しそうに髪を耳にかき上げた。綺麗に切り揃えられた爪がクリップをいじる。
「…ああ、早く触りたい」
ぱち、とジェイドは目を丸くする。
それから固まっている自分に気づき、直後湧き上がる笑みを隠すために口元を押さえる。ディストはこんな書類さえなければ、とぶつぶつ不満を垂れるばかりで、ジェイドの様子には気づかないようだった。
「くっ…そうですか、そうですね」
堪えきれずに喉が鳴ると、何ごとかという顔でディストが振り返る。
ジェイドは歪んでいた口の端を緩々と持ち上げた。見せつけるようにグローブの先で唇をなぞると、ディストが僅かに目を見張る。
彼に付き合わされるようにして、ほとんど進まなかった仕事。普段なら彼がどれだけうるさくしようが、簡単に無視することができるのに、それができなかった。その理由がようやく分かった。
音機関に触れていない彼と同じく、それ以上の期間触れていないものがジェイドにもある。
「ジェイド…?」
訝しげに名前を呼ばれ、ゆったりと微笑み足を組みかえる。
息抜きが必要なのはこちらも同じだったのだ。
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