「ルークの奴、遅いな」
金髪の保護者がそんなことを言い出したのは、そろそろ日が傾こうとしていた頃のことだった。
ジェイドは本から顔も上げずに、他人事のように答える。
「大方陛下に解放してもらえないんでしょう。あの人は遊び相手を見つけると容赦ありませんから」
ガイは力なく苦笑した。
当然だろう。グランコクマで過ごした一月の間、偉大なる皇帝陛下のお守りは他の誰でもないガイの役目だったのだから。
ジェイドは目を細める。あのときのピオニーは本当に生き生きしていたし、自分も面倒なちょっかいを出されずに仕事に専念することができた。ガイには本当に感謝している。一度口に出して言ったら、彼はやめてくれと肩を落としてしまったのだが。
慣れない貴族院での付き合いと名誉ある任務、ブウサギの散歩とに疲れきっていたらしいが、彼もピオニーの手回しに気づかなかったわけではないだろう。日常を装った見せかけの会話もそれはそれで楽しかった。
ガイほど上手く適応できるとは思えないが、ピオニーの遊び相手としてはルークもかなりの素質があるとジェイドは見ている。どことなくルークはサフィールに似ていた。それはピオニーも感じているようで、彼のルークを見る目はどこか優しい。
そのピオニーお気に入りのルークが、宮殿に呼ばれていったまま帰ってこない。
「なあ旦那、ちょっと見てきてやってくれないか」
「嫌ですよ、何故私が。大体ルークの保護者はあなたでしょう」
即答すると、窓の辺りに立ったガイは溜息を吐き、額に手をやった。
「そうは言うけどな、俺が行ったら余計こじれるだろう?」
確かに。
ルークに加えガイという玩具まで与えてしまっては、あの人肌に飢えた皇帝は何をしでかすか分からない。普段抱えている欲求不満が大きい分、それを解消できるとなればきっととんでもないことになるだろう。
そして厄介なことに、その後始末は全てジェイドに回ってくるのだった。ならどう考えても今出て行った方が遥かに事が楽に済む。
「仕方ありませんね」
読んでいた本に栞を挟む。
「悪いな」
「いえ、いいんですよ。不本意ですが、あの方の保護者は私ということになっているらしいですから」
「それはまた…」
言葉を濁したガイに笑みを向けると、彼は身体を固くした。失礼な、とジェイドは思う。そんなに怖い顔をしたつもりはなかった。
グランコクマの片隅で、ジェイドはピオニーへの評価を改めていた。
あの男のことだから本当に何かしでかしてしまったのではないかと思ったのだが、どうやらそうでもなかったようだ。
真っ赤な髪の後姿。だが、とジェイドは僅かに首を傾げる。こんなところで彼は一体何をしているのだろうか。ルークは中腰で、一心に何かを見つめている。何かと言っても彼の前には見慣れた花しかないのだが、それも今更そんなに熱心に眺めるものでもないだろう。なにもグランコクマへ来たのは初めてではない。彼も何度もあの花を目にしているだろうに。
ジェイドはルークの背後へ近寄り、そっと耳元へ顔を寄せる。
「ルーク」
「あ、ジェイド」
ぽつんとルークは呟く。もう少し驚くと思っていたので、この反応の薄さは残念だった。彼もそろそろ免疫がついてきたのかもしれない、などと思いながらジェイドは腰に手を当てる。
「あ、じゃありません。何をしているんですか、こんなところで。ガイが心配していますよ」
「ガイが?えっ、今何時なんだ?」
「何時もなにも、日の傾き具合で見て分かりませんか」
ルークはそのとき初めて辺りを見回したらしい。茜色に染まりかけた水辺に大きな翡翠の目を丸くしている。この様子だともう随分前に宮殿は出ていたのだろう。
それからずっとここで、ああして花を見ていたのか。一つのことに心を奪われてしまうのは子どもらしくて微笑ましいが、少しは振り回されるこちらの身にもなってもらいたい。
「それで、あなたはここで何をしていたんですか」
「え?ああ、この花…」
ルークは思い出したように後ろを振り返る。
花だ。瑞々しい色を湛えた細かな花弁、それらが重なり集まって一つの花になっている。小さく浮いた水滴が涼しげだ。濃い葉の色が、インクで染めたような紫を一層引き立てていた。ゆったりとした葉の束から丸い形がいくつも浮き出ている。
「これ、何ていう花なんだ?」
ルークは指を差しながら尋ねる。
「あじさいですよ。これがどうかしましたか」
先を促すように微笑みかけると、ルークは後ろを向いたまま話し始めた。
「いや、ペールがさ」
「ペール?」
聞き慣れない名だった。
「ほら、うちの庭師の。ジェイドも屋敷で会っただろ?」
そう言われ、ジェイドの頭の中に一人の顔が浮かぶ。それはすぐに情報と結びついた。
(ペールギュント。そうか左の騎士の…)
ジェイドが頷いたのを見て、ルークの目はまた花に吸い寄せられる。
「そのペールがさ、グランコクマには綺麗な花があるって言ってたのを思い出して。この花で合ってるよな?」
「グランコクマ…と仰っていたのならそうでしょう。バラも有名ですが、それはここだけに限ったものではありませんから」
水に囲まれたこの都はあじさいが育つには最適の環境だった。
道端、店先など半日陰の場所ではこの花を見かけないことの方が少ないくらいだ。白を基調としたグランコクマの建築物には、鮮やかな色がよく映える。
「だからこの街の人々は皆好んで育てているんですよ」
ジェイドの説明にしきりに感心していたルークは、隣の区画に目をやった。
「それにしてもいろんな種類があるんだなー」
向こうでは淡い紅色が花開いている。その向こうは白、反対側は桃に近い色。
「いえ全て同じ花ですよ。土に含まれる、微妙な音素の差で色が変わるんです」
「あ、それ聞いたことあるかも」
「詳しいんですね」
リンゴの買い方も知らなかったというルークが、そんなことを知っているとは思わなかった。
ジェイドの声の揺れにルークは苦笑する。
「俺の話し相手なんてガイかペールくらいしかいなかったからな。ペールは庭師だからやたら植物に詳しくて、いっつもそんな話ばっかり…」
不意に途切れた言葉に、ジェイドは首を傾ける。ルークはぼうっとどこか遠くを見つめていた。
「ああ、そっか」
何がそうかなのか。聞く前にルークが口を動かした。
「あいつがこの花のこと喋るとき、妙に懐かしむ感じだったから引っかかってたんだけど…そうだよな、そういやあいつら元々マルクトの人間だったんだよな…」
「それは…」
思わずジェイドも言葉に詰まる。
彼らはマルクトの人間で、騎士であったペールはこのグランコクマに訪れることも多かっただろう。
沈みゆくホドが脳裏を過ぎる。
たった二人の生き残り。敵の屋敷に潜り込もうと言ったのは恐らく子どもの方だ。
使用人として敵の息子の世話をしながら、彼は何度首を絞める夢を見ただろう、何度短剣を向ける夢を見ただろう。
だがその子どもは今こうしてここに生きている。多分それが全てなのだ。だからこれだけはジェイドにも確実に言える。
「あなたが思うほど、ガイもペールもあなたを恨んではいないと思いますよ」
赤く染まるあじさい。夕日が色を深くする。
ルークは泣きそうに瞳を歪ませた。
「はは…完全に否定してはくれないんだな」
半端な慰めは嫌うくせに、ルークはそう言う。それほどガイの存在はルークに深く根づいているのだろう。
「ガイがあなたを襲ったのは事実ですから」
「…だよな」
「ですが、彼があなたを大切に思っているのも事実です」
呆然と、ルークはジェイドの名を呼ぶ。
ジェイドは優しく微笑んだ。視線で自身の後ろを示す。
「私の言葉が信じられませんか?ルーク、それならどうして彼はここにいるんでしょうね」
先程から確実に近づいてきている気配。もう見えるところまで来ているだろう。
ルークの目が徐々に見開かれていく。しばらくしてジェイドのすぐ後ろで足音が止まった。
「何やってるんだよルーク、あんまり遅いから心配したぞ」
「ガイ…」
彼を見上げたまま固まっていたルークは、はっと肩を震わせると視線を斜め下に落とした。
「ごめん」
その様子にガイは何あったのかとジェイドに目配せしてくる。ジェイドは小さく肩を竦めつついつもの笑みを浮かべた。答える気がないと悟ったのか、ガイは眉を顰めた。
「旦那も。見つけたのなら早く戻ってきてくれよ」
「いやあすみませんねー、すっかり忘れてました」
「頼むぜ、ほんと」
ガイはそう言うと、俯いたルークの頭を軽く叩いた。
「ほら行くぞ、ルーク」
「う、ああ…」
よく分からない返事をして歩き出そうとしたルークの肩を、ジェイドは不意に掴む。驚いた顔をした彼が声を発する前に素早く耳打ちした。
「安心なさい。わざわざ嫌いな人間を探しに来るほど、ガイは暇でも性格が捻じ曲がってもいません」
そうして顔を離したジェイドに向かって、ルークは眉を下げくしゃりと顔を歪ませた。
帰り道、ガイが唐突に声を上げた。
「そうだルーク、お前陛下に何か変なことされなかったか」
「変なこと?」
「ああいや、別に何もなければいいんだ。忘れてくれ」
ほっとしたような顔で手を振るガイに、ルークはそういえばと視線を上げる。
「何かやたらと引っついてきて大変だったな。ほら、俺あんまそういうの慣れてないから」
「えっ…だ、大丈夫かお前、それだけか?」
「ああ」
首を傾げるルークにガイは大きな溜息を吐く。そうして、ぶるりと背筋を震わせた。
「ほう、そうですか」
ガイが顔を青くして、焦ったように言葉を重ねる。
「そんなに殺気立つなよ。ルークも何もなかったって言ってることだし」
「引っついてきて大変だったんでしょう?後できつく言っておかなければなりませんね」
あの馬鹿皇帝。口の中で呟いた声は聞こえてしまっただろうか。ガイが引きつった笑みでこちらを見ている。ジェイドは彼に笑みを返すと拳を握り締めた。
ほんの少しでも見直した自分が馬鹿だった。ジェイドの、ピオニーへの評価は再び底辺にまで落ち込んだ。
|