別に他意があったわけじゃない。ただ思いがけずいい酒が手に入ったから、パーティ唯一の成人を誘っただけだ。
それなのにどうしてこうなるんだ、とガイは痛む頭を押さえた。
飲み始めたのは少し前のことだった。日が暮れ、同室のお子さまがすっかり眠ったのを確認してから、ガイはジェイドの部屋へ押しかけた。突然の訪問に彼は不快感をあらわにしたが、ガイが酒のラベルを見せると笑みを浮かべて扉を開けた。現金な男だと思いながら、二人で軽口を叩き酒を飲み合う。
ここまでは普段通りだった。おかしいことは何もなかったはずだ。
ガイは頭を振り、向かいに座る男を盗み見る。
頬杖をついて遠くを眺める瞳は、明らかに溶けて輪郭をなくしていた。肌も薄っすらと色づいているし、濡れた唇を拭おうとしない様子からも彼が大分酔っていることが分かる。
ほう、とガイは息を吐く。いつもの彼なら、例え酔っていたとしても周りに悟らせるようなことはしない。それ以前に彼は自分が飲める量を知っているから、滅多にこんな状態になることはなかった。一体今日はどうしたのだろうか。昼間特に変わったところはなかったが、彼は表情を表に出さないから実際のところは分からなかった。
からからと無意味に氷を鳴らしていると、不意に赤い目がこちらを向いた。とろりと微笑まれ、心臓が跳ねる。
「どうしました?もう潰れてしまいましたか」
思わず黙り込むガイに、ジェイドは小さく肩を竦めた。そして視線を外したかと思ったら、唐突に自身の詰襟に手をかける。
ぶっとガイは噴き出した。
「な、何してるんだ旦那」
慌ててグラスを置くが、ジェイドは訳が分からないのか不思議そうに首を捻った。
「少し暑いので服を緩めようと思っただけですが」
「あ…」
そうか、と呟きながらガイは出しかけた手を引っ込める。大袈裟な反応をしてしまった自分が恥ずかしくて指先を擦り合わせた。
ジェイドは淡々と上着を寛げていく。ガイは何となく顔を背け、グラスの縁を親指で撫でた。
男同士で意識することなどないのだが、彼は常にきっちりと軍服を着込んでいるので妙な感じがしてしまう。見慣れないと言うのだろうか。
「この酒、どこで手に入れたんですか」
胸元まであらわにしたジェイドが、つつと瓶のラベルをなぞる。
ガイはぼんやりと彼を見返した。いつもは見えない細い首が真っ先に目に飛び込んでくる。丸く突き出た喉仏は薄い皮膚を押し上げていて、いやに軟らかそうだ。透けるような赤色もいい。きっと酒の混ざった甘い香りがするのだろう。ガイは無意識のうちに歯を噛み合わせる。
ジェイドが肩を揺らして笑った。
「随分酔っているようですが、大丈夫ですか?」
ガイは手の甲を頬に当てた。確かに熱いような気がするが、それほど危機感は覚えない。
「俺には旦那の方がやばそうに見えるんだがな」
おや、とジェイドが言った。
「そう見えますか?」
「ああ、思いっきりな」
ガイが断言すると、彼は楽しそうに喉を震わせる。髪を耳にかけ、両手でグラスを包んだ。からりと氷が転がる。
彼が口を閉ざしたので自然と会話が途切れた。
ガイは彼の赤く染まった耳を見つめる。先ほどかけられた髪が中途半端にはらはらと垂れていた。それがどうにも落ち着かず、つい彼に向かって手を伸ばしてしまう。
ジェイドが目線を流す。妖しげな光にどきりとしたが、動きは止まらなかった。
指先で髪を掬い、耳にかけ直す。
彼が瞼を伏せる。睫の長さに感動しながらガイは手を離そうとしたが、いきなり現れた彼の手に引き止められた。
熱い指が骨を撫でる。そういえばジェイドも自分も、今日はグローブをつけていなかった。今更気づいて胸がざわつく。ひょっとしてこれはとてもまずいのではないだろうか、と頭の隅で思った。
ジェイドはガイを捕らえたまま身体の向きを変えた。さらさらと、髪が黒の服を彩る。
「やはり私よりあなたの方が酒には弱いようですね」
笑みがやけにいやらしく見える。彼が言うように、自分はすっかり酔ってしまっているのだろうか。
ジェイドが軽く爪の先に口づけ、ガイを放した。ガイはおぼろげに残る感覚をもう片方の手で包み、彼を見下ろす。彼はゆったりと頬杖をついた。
「もう一度聞きますが、ガイ、この酒はどこで手に入れたんですか」
ずれた眼鏡の間から彼の目が覗く。譜陣を施してあるいう瞳は、人工の冴えた赤をしている。それがまるで自然のもののように蕩けている様子は、ひどく魅惑的だった。
「表の露店だよ」
勝手に言葉が導き出されるのを他人事のように感じる。
ジェイドは満足げに頷いた後、ふと真面目な顔になってそうですかと呟いた。しばらく無言で酒瓶を眺める。
ガイは首を傾げた。ジェイドのこの顔は、主に仕事中に見せるものだ。何か問題でもあったのだろうか。口を開きかけたとき、彼が振り返った。
「どうやら故意ではないようですね」
手に持った酒瓶が振られ、残り少ない中身が音を立てる。
ガイは何のことか分からず眉を顰めた。ジェイドはわざとらしく溜息を吐く。呆れたとでも言っているかのようだった。酒瓶を置き、長い足を組み替える。手を広げて見せる仕草は、彼が普段ルークに対して小言を言っているときのそれだ。幼い子どもに聞かせるように、彼は話し始める。
「まずこれは偽物ですね」
「はあ…」
そうか偽物か、と繰り返し、ハッと我に返る。
「は?」
ジェイドは腕を組み、背凭れに身体を預けた。気だるげに口を動かす。
「よく似せて作ってありますが、中身は全くの別ものです。随分多くの種類の草が入っていますねえ。ぎりぎり法の範囲内ですが、あまり野放しにしておけるものでもありません」
「マジかよ…」
「はい。よかったですね、私のところへ来て。知らない人間に飲ませていたら今頃どうなっていたか」
目を細めるジェイドに、ガイは頭を抱える。
「分かってたなら何で最初に言ってくれなかったんだよ」
急に頭痛がしてきた。そんなものを飲んでしまって身体は大丈夫なのだろうか。ジェイドが平気な顔でグラスを開けていたから心配することはないのだろうが、ふわふわとした浮遊感が気にかかる。
「まあ、さほど危険なものではありませんから。安心してください。明日になれば抜けていますよ」
「おいおい…。いいのかよ、そんなことで」
「少量で酔えるという、ただそれだけのものですよ。これを使ってよからぬことを企む輩が多いのは問題ですが」
整った指が瓶の膨らみを撫でる。濃い茶色の酒瓶に、彼の白い指はよく映えた。
「それはそうと、困りますよ。こんなものを簡単に掴まされては」
ずい、とジェイドが顔を覗き込んでくる。
縮まった距離に面食らい、ガイは視線を泳がせた。目のやり場に迷ったというのもある。
「飲み始めても気づく様子がないので、わざと持ち込んできたのかと思いましたよ」
「あのな…俺がそんなことすると思うか?」
ちらりと目をやると、彼はおかしそうに口の端を上げた。
「さあ分かりませんよ。ひょっとすると何も知らないふりをして私を潰して、意識のないところをどうこうするつもりだったのかもしれませんし」
ジェイドはそう言うと、髪をかき上げながら身体を離した。ガイはほっとして息を吐き出す。
「それこそ絶対ありえないって」
「そうですかあ?」
ジェイドが小さく微笑んで、溶けかけの氷を指で回す。遊んでいるばかりでグラスを取る様子がなかったので、ガイはこれでお開きかと自分の酒を流しに捨てに行った。蛇口を捻って水を飲む。身体中に染み渡る温度が、すっと酔いを醒ます気がした。まだ頭ははっきりしないが、この分だと明日は普通に起きられそうだ。彼が量を調節して注いでくれていたおかげだろう。
しかし水のグラスを片手に部屋へ戻ると、当のジェイドが机に突っ伏していた。
話を聞いた後だったので一瞬演技かと思ったが、どうやら本当に酔っているらしい。とりあえず水を飲ませようと肩に手をかける。すると彼は机に頭を乗せたまま緩々とこちらを見上げた。
「本当に、他意はなかったんですか」
ガイはごくりと喉を鳴らす。ほんとうに、とジェイドはもう一度語尾を上げた。
彼はいつの間にか眼鏡を外していた。まずいと思って視線を移動させる。だが肩の上を流れる髪や、開いた襟の奥に見える喉仏も同じようにまずかった。
じわりと上がり始めた熱を振り切るように、ガイは殊更強く言い放つ。
「なかった」
きっぱりと言い切ったことで少し余裕ができ、ガイは彼を起こして水を飲ませることに成功した。
グラスにつけられた唇を見ながら考える。
他意など、自分に限ってあるはずがないのだ。女性恐怖症という障害はあるが、自分は女性が大好きだ。こんな十も年上の男を酔わせて喜ぶ趣味はないし、まして男相手に変な気を起こすとも考えられない。そういう類の人間を否定するつもりはないが少なくとも自分は違う。ありえない。
第一今目の前にいるのは、あのジェイドなのだ。世界中の嫌な大人を代表したかのようなこの男に欲情するだなんて、想像しただけで恐ろしい。
ガイはぶるぶると首を振り、違うありえないと唱え続ける。
そうしている間に水を飲み終わったジェイドが、遠くを見ながら何かを呟いた。ガイはつい聞き返してしまう。
「何か言ったか?」
ふ、と赤い瞳がガイを映す。
思わず固まってしまったこちらを笑うように目を細め、彼は唇に指をやった。薄く開いたそこはしっとりと濡れていて、触れたら気持ちよさそうだ。
ジェイドが微かに微笑み、立ち上がる。
「残念です、と言ったんです。あなたにそのつもりがなくて」
「それは…」
それはどういう意味なんだ、とガイは聞こうとして聞けなかった。
彼の腕が首に巻きつき、すぐに口を塞がれてしまったからだ。
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