仮病



何が追いかけっこだ、とジェイドは眉間に思い切り皺を寄せる。
口の中でむにゃむにゃ言いながら、枕を抱きしめ幸せそうに眠る幼馴染。
妹によれば、つい先日までこの男は広場で見事な雪像になっていたらしい。それが今は効きすぎた暖房のせいもあってか、健康的とは言えないが一応人らしい肌色を取り戻しているのだから、驚くべき生命力だ。
思えばこの男は昔からそうだった。蹴っても置き去りにしても雪に埋めても湖に落としても、次の日には嘘のようにけろりとしていた。
そうして見せる馬鹿っぽい笑顔を思い出し、ジェイドは頭を振る。今はそんなことを考えている場合ではない。
ジェイドは固くブーツの底を鳴らして軍人の顔を取り戻すと、腹に力を入れる。
「ディスト」
張りのある声が部屋に落ちる。反応はない。
ジェイドは苛立ち、顔を顰めた。そちらがそのつもりなら、こちらもわざわざ形式に拘る必要もないだろう。
そう判断し、声に巻きつけていたオブラートを取り去る。
「起きなさい。悪趣味ですね」
感情を露にした刺々しい声に、数秒後、ディストの大きく上下していた胸の動きが止まった。
「あなたほどではありませんよ」
すう、と音もなく瞼が開き、硝子玉のような赤紫が姿を現す。
それはちょっとこちらへ視線を寄越すと再び真正面を向いた。寝起きとは思えないほど、間違いなく焦点は定まっている。
ジェイドは舌打ちをした。
「全く狸寝入りとは小賢しい」
返答はなかった。ジェイドは重い溜息を吐くと、手近なイスに腰掛け足を組む。
「あなたに聞きたいことがあります。分かりますね」
分からないはずがない。
もしとぼけるつもりなら殴り倒してやろうと思っていたが、彼は緩やかに瞬きをするばかりで身動き一つしようとしなかった。相変わらずの薄い身体も相まり、まるで人形を相手にしているような錯覚に陥りかける。
この男が黙り込むのは珍しいことだった。
サフィールはいつだってやかましいという印象が強い。それは彼が常にわあわあとジェイドに引っ付いていたからなのだが、その他に、彼が集中しているとき大抵ジェイド自身も同じ状態になっていたという理由もあった。本を読んだり、考え事をしたり、そうなるとほとんど互いの存在は目に入らなかった。
だから数少ない機会の中、唯一ジェイドがサフィールの静かな横顔を見ることができたのは、ただ彼が音機関に向かっているときだけだった。
しかし、ならばそうでない今、彼は何を見つめているのだろうか。
「雪崩が…」
ルージュのひかれた唇が消え入りそうな声を発する。漂いかけていた意識は彼の元へ集まった。
「…度々起こっています、地震の影響でしょう。それと奥地には強力な魔物が住み着いているようです」
「ほう、随分あっさりと喋りましたね」
茶化すように言えば、ディストはそっと瞳を伏せた。
「私には私の目的があるのです。それさえ果たせれば」
「後は構わない、と。あなたの言う目的に、私達が行おうとしていることは関わりを持たないわけですね」
ディストは無言でジェイドを見た。その顔は僅かに強張っている。
「…面倒な人ですね」
私に何をさせたいんですか、とジェイドは心の内で吐き捨てる。
彼が隠し事をしているのは明らかなのだが、その内容を推測するには情報があまりにも少なすぎた。締め上げて無理やり吐かせることも考えるが、目的の達成を妨げることについては、彼は何があろうと口を開かないだろう。
これ以上の収穫は望めない。本当に面倒だ。
「まあいいでしょう。生憎とあなたに構っている暇はありませんのでね」
そう言ってやると、ディストはほっとしたような残念がるような複雑な表情を浮かべた。
馬鹿な奴だ、とジェイドは椅子から立ち上がる。見逃すにしても、まさかこのまま野放しにしておくわけがないだろうに。
ジェイドはベッドの横に立つと、不思議そうに眉を寄せたディストへ向かい腕をかかげる。
「それではおやすみなさい」
一瞬閃光に照らされたディストは慌てて身体を起こし、今までの緩慢な動作からは考えられないほど素早く後退した。べったりと背を壁につけながら、震える手でジェイドを指差す。
「や、いや、ジェイド?ちょっと何ですか、その槍は!」
「おや、見て分かりませんか?」
ジェイドは取り出した槍の切っ先をディストの喉に押し当てる。
大きく仰け反りながら、ディストは己の皮膚を突き破りそうに食い込んでいるそれを見て、強く目を瞑った。
「わ、わ、分かりません!」
切っ先を更に食い込ませる。
「物分かりが悪いようですね。身体で理解してもらいましょうか」
「ひっ…」
引きつった声と共に大きく目が見開かれる。
ジェイドは満足げに微笑んで、風を切る勢いで腕を後ろへ引く。キラリと凶悪に光った刃にディストの悲鳴が上がった。




部屋を出てしばらくした頃、斜め後ろを歩いていたルークが顔を上げた。
「あ、あのさ…ジェイド、お前さっきディストに何し…ああ、いやごめん、何でもない」
「そうですか?」
ふふ、と微笑む。それから聞いてくださって構いませんよと戯れに首を傾けると、ルークは顔を顰めて首を振った。
「嘘つけ。聞いたらおしおきだーって顔に書いてある。それに」
一旦言葉を切り神妙な顔つきになる。
「知らぬが仏、ってガイが言ってた」
「…口は災いの元って知ってますか、とガイに伝えておいてください」
自分で言いに行かないのは、そのガイの姿がどこにも見当たらないからだった。ついでにアニスも先程から姿を消している。
一体どうしたというのだろうか。いくらこのホテルが広いからとは言え、あの二人が迷ってしまうとは考え難かった。第一自分達は分岐のない廊下を真っ直ぐ昇降機に向かってきたのだ。迷う方がおかしい。
「あれ、そういやガイいねーぞ」
ようやくルークも気付いたらしい。その声で振り返ったティアとナタリアに向けて、ジェイドは大げさに肩を竦めて見せた。
「全く困りましたねぇ。こんなところで迷子になるとは、子どもじゃあるまいし。探してきます」
「あ、俺も」
「二人は先に行っていてください」
前を行く二人に意見する間を与えずに、ジェイドは来た道を引き返し始めた。
ガイとアニスはすぐに見つかった。
けれどジェイドはすぐに二人に近づこうとはせず、見えない位置から彼らの様子を窺う。廊下の向こうから、少女の自信に満ち溢れた声が聞こえてきたからだった。
「大佐とディストって、実はめちゃくちゃ仲いいんじゃないかとアニスちゃんは思うね」
その瞬間横に立っていたルークが顔を青くして、恐る恐るこちらを見上げる。
ジェイドはそんなルークの腕を引くと廊下の内側の壁に寄った。そうして静かに、とジェスチャーをする。
「お、おいジェイド、立ち聞きかよ」
「まあまあ、いいじゃありませんか、面白そうですし。それにあなたこそそんな小さな声で。聞く気満々ですよねぇ」
「う…」
ガイとアニスはお喋りを楽しむように、のろのろと廊下を歩いていた。鉢合わせするまでにはまだ時間がありそうだ。
話し声が次第に大きくなる。
「そういえばあの二人って幼馴染なんだろ?」
「そうそう。ディストが言うには親友らしいんだけどぉ」
「はは、それはどうだか分からないよな」
「でもぉ」
アニスがガイの笑い声を制した。
「大佐がそれなりにディストのこと気に入ってるのは確かだよ」
いやに自信満々だ。何の根拠があって、というのはガイも思ったことらしい。
「そうなのか?」
不思議そうな声が上がる。アニスは少しの沈黙の後、小声で囁いた。
「だって、大佐がホントにディストのこと嫌いなら、きっとあいつもう生きてないよ」
「…ああ、確かに」
「でっしょー?だからさ、照れ隠しなんだって」
アニスがきゃらきゃらと笑う。
「かなり過激な照れ隠しだけどな。そうか、惚れた相手に対する逆ギレか…」
「うんうん、バイオレンスラブだね」
「だよな。ジェイドの旦那も結構可愛い…」
そこでガイは前を向いたまま固まった。アニスはその様子に一瞬眉を寄せたが、すぐに状況を理解したようだった。驚異的なスピードで口の端を持ち上げ指を組むと、可愛らしく身体ごと首を傾ける。
「あれぇ?大佐がわざわざ探しに来てくれるだなんて、一体どういう風の吹き回しですかぁ?」
ジェイドも薄ら寒い笑顔でそれに応じる。
「いえアニス、特に意味はありませんよ。ただ子どもが迷子になってしまっては大変だと思いましてね。ロビーに呼び出しを頼むにしてもこちらの方が恥ずかしいですから」
小さく舌打ちするアニスを見て、ジェイドは思わず笑みを和らげる。
彼女はこういうところが未熟だった。突付けば簡単に仮面を外してしまう。その幼さに免じて、このおっさん、という低い呟きは聞かないでやることにした。
「それにしても二人とも、随分と楽しそうでしたねぇ」
アニスはわざとらしく身体をくねらせる。
「そうですかぁ?」
「ええ、とても。一体何の話をしていたんですか」
「やだな大佐ったら、それは乙女の秘密ですよぉ」
恥ずかしい、とアニスは頬に手をやった。
そう言われてしまっては、これ以上追求することができない。ジェイドは彼女の横で突っ立っている男へと標的を変える。
「そうですね、知らぬが仏と言いますし。…ですよねぇ、ガイ」
「えっ、いやそれは」
思い切り慌てるガイにジェイドは微笑む。
「実にいい言葉ですね。ところであなたは、口は災いの元という言葉は知っていますか?」
「ル、ルーク!」
「ごめん、ガイ!」
助けを求めるように向けられた視線に、ルークは両手を合わせて謝罪する。
逃げ道のなくなったガイは仕方なく覚悟を決めたらしく、いつもの乾いた苦笑いを浮かべた。




ティアとナタリアは既にホテルのロビーにいた。
真面目な彼女達から叱られているガイとアニスを見ながら、ジェイドは思考に沈む。
(だって、大佐がホントにディストのこと嫌いなら、きっとあいつもう生きてないよ)
彼女の言う通りだった。
早々に始末しておかなければならない相手だというのに、ジェイドは未だにそれを実行できずにいる。何度も機会はあった。それなのに、だ。現に今だって痛めつけるだけに留まっている。
本当ならあのまま喉に深く刃を埋めるべきだった。それができなかったのは――。
「カーティス大佐」
声に顔を上げれば、呼びつけておいた兵がジェイドの姿を見つけて駆け寄ってくるところだった。
冷たい甲冑は煌びやかなロビーには酷く不釣合いだ。ジェイドは、客の不安を煽らぬようにと一言。続けて軍人の顔で任務を命じる。
兵は敬礼をして昇降機に乗り込んでいった。ランプが上の階を目指して点灯し、やがて止まった。
間もなくディストは首都に連行される。
向こうでどのような判決が下るかは分からないが、恐らくこの状況下で死刑になることはないだろうと思う。
馬鹿な話だ。こうして舞台から振り落とせば、ジェイドはしばらくの間彼の今後について考えなくて済む。問題の先延ばしだと理解はしている。
しかしディストを生かしておくことでジェイドにも利点はあった。彼の目的に組み込まれ、利用される形になっているのは腹立たしいが、行動が予測できる分細々とした情報は引き出しやすい。
ただ、これでどこまで持つだろうか。
このささやかな利害関係が崩れてしまうことなんて目に見えている。そのときは、そのときこそジェイドは彼を殺すのだろう。
「…そこに至るまで何もできないとは」
だから面倒なのだ、とジェイドは奥歯を噛んだ。
だがその面倒がなくなったとき、もうあの男はいない。

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