そろそろ腕が疲れてきた。汗で紙袋が湿ってしまわないよう身体から離しているのでやたらと腕に力がかかる。涼しげな音を立てるボトルを割り当てられたのが、せめてもの救いだった。これで土臭い野菜など運ばされようものなら、食事の一食や二食抜いても構わないとさえ思っていた。
それくらいにこの暑さは酷い。酷すぎる。宿はまだなのだろうか。
ケセドニアにはマルクト、キムラスカ両国の側それぞれに宿があった。合わせて露店も国境を間に種類を異にしており、全て見て回ろうとすると必然的に同じ道を二度通ることになる。行きは楽しいが、帰る頃には疲労に加え荷物も増えている。口を閉ざして黙々と歩き続ける様はこの街の空気とは正反対のものなのだろう。時折すれ違う商人達が何ごとかと振り返ってくるのを、アニスは鬱陶しく思っていた。
普段なら適当に媚びでも売るか、もしくは睨みつけるかするのだが、今はそんな余裕もない。いつも真っ直ぐに背筋を伸ばしているティアまでも心成しぐったりとしているのだ。元気なのは赤毛の七歳児と、それと。
アニスは高い位置にある男の顔を盗み見る。
太陽が眩しい。くらくらと意識も飛びそうな気温の中で、ジェイドはきっちり軍服の襟を閉めその上から更に長い髪を垂らして。
(うわあっ駄目、ムリ。暑い暑い)
アニスは振り払うように首を振る。背中にじんわりと汗が滲んできて気持ちが悪かった。アニスの何倍も重く厚い軍服を着込んでいるジェイドはもっと酷い状態になっているだろうに、態度はどこまでも普段通りだった。
本当に同じ人間なのだろうか。いっそ、実は音機関なんですなどと言ってくれた方がよっぽど納得がいく。ジェイドなら有り得ない話ではない。
それかもう少し現実的に考えるなら、温度を感じにくいというのもありだろう。あの馬鹿みたいに寒い街で育ったのなら、肌だってきっと人より強いに違いない。
実際そうなのかどうか今度聞いてみようか。機嫌がよければ本当のことを教えてくれるかもしれない。
アニスは、はぁと息を吐いた。口の中が乾いて粘ついている。
早く水が飲みたい。だが宿はまだずっと先だ。露天に並ぶ、汗をかいた瓶が憎らしい。
自分のポケットマネーにもっと余裕があったなら今すぐにでも潤すことができるのに。
(ああ、神さま、ユリアさま。お願い、いっぱい貢いでるんだからちょっとぐらい幸運ちょうだい)
「おっ、何だあれ」
「え?」
赤毛が片腕に器用に袋を抱え、ひょこひょこと走っていく。道端に何か見つけたらしい。
まさか、とアニスは期待に胸を躍らせる。
「小物入れ?」
くたびれた藍色の袋を、ルークは掲げる。そのときアニスは希望の音を聞いた。
「ルーク、それ財布だよっ」
「あ、ホントだ」
ぼんやりと袋の口を開けるルークへ小走りに駆け寄る。音の感触からすると、中の上くらいだろうか。何にせよアニスのポケットマネーより多いことだけは確実だ。
ルークの腕を引いて覗き込むと、予想通りぎっしりと詰まったガルドがアニスを迎えた。
「…小銭入れか。どうする?これ」
これが小銭。ルークにとってはそうでも、アニスにとっては喉から手が出るほど欲しい額だ。
「ねえねえ、貰っちゃおうよー」
財布に手をかけようとすると、横から厳しい声が飛んでくる。
「駄目よアニス!落とした人もきっと困ってるわ。届けないと」
「えー…小銭なんでしょ?わざわざ取りに来るとは思えないけどぉ」
「アニス」
ティアが本気になり始めたので、アニスは返事一つで引き下がる。
ガルドは惜しかったが、ティアに目をつけられると後が大変だ。真面目なのは構わないが、言っていることが正論すぎてときどき息が詰まる。
「さあ、ルーク。行きましょ」
「俺も行くのかよ、面倒くさいなあ…。ここに置いとけばまた取りに来るんじゃねーの」
「誰かが持っていってしまうかもしれないじゃない。あなたが拾ったんだからちゃんと責任持って」
「それはそうなんだけどさ…」
渋るルークの気持ちも分かる。領事館へ行くには、今来た道を引き返さなければならなかった。
一向に動こうとしないルークに焦れたのか、ティアは傍観に徹していた男を振り返る。
「大佐も何とか言ってください」
「ふむ、困りましたね」
ちっともそんなふうに見えないジェイドは、肌に金髪をはりつかせ小首を傾げた。先程は下から見上げていたから分からなかったが、意外と彼も汗をかいていて暑そうだった。そう思うと、動きもどこかだるそうに映る。この男も面倒がっているのだ。
「そうですね…私個人の意見としては、どちらでもいいというのが本音なんですが…」
突き刺さる鋭い視線。
「まあ、ここはティアの言う通り届け出ておきましょうか」
「えーマジかよー…」
ルークがほとんど息だけで喋る。かわいそうに。
「じゃあ大佐達は先に宿に戻っていてください。…ルーク、いつまでそうしてるつもり?」
「わーったよ。行くよ、行きます」
ぶつぶつと文句を言いながらルークはティアに引っ張られていく。アニスはその後姿を眺めていた。
(私のお金…)
あれだけあれば、ケーキだってアクセサリーだって、新しい洋服だって買えたはず。
ダアトの友達と雑誌を回し読みしても、アニスの心は重くなるばかりだった。普通の女の子が楽しんでいる普通のことを、アニスはずっと我慢してきた。お金さえあれば、少なくともこんな苦しい思いはしなくて済む。ルークもティアも皆、本当の貧乏人の暮らしを知らないからあんなことができるのだ。良心は生活を潤してはくれないというのに。
「アニース、顔に出てますよ」
「へ?や、やだぁ」
咄嗟に俯き、表情を隠す。ジェイドの笑い声が聞こえた。癇に障る声だ。アニスは奥歯を噛み締め、顔を顰めた。
「お金に執着するのは悪いことではありませんがね、ほどほどにしないと。がめつい女は嫌われますよー」
アニスは完璧な笑みを作り上向く。
「そうですかぁ?玉の輿を狙うなら逆にアピールしちゃった方が楽だと思いますけど」
「それは人によりけりですね」
「ほぇー勉強になりました。なら使い分けるためにも、もっと目を鍛えないとですねー」
「一体何年かかりますかね。あなたは筋がいいからそれほどかからないとは思いますが」
一応褒められているのだろうか。だが結婚するなら、なるべく早い方がいい。さっさと借金を返してこの状況から抜け出さなければ。
最も大切な人を騙して平気でいられるほど、アニスは良心を捨ててしまったわけではなかった。
「何ならアニス、手っ取り早く私と結婚してみますか」
ジェイドは微笑む。
また顔に出ていたのか。アニスは悔しさに顔を歪めそうになるが、あと少しのところで押し止める。ここで表情を崩したらこちらの負けだ。端から負けていることにはあえて気づかない振りをする。
「上流貴族には劣りますがそこそこ財力はありますよ。あなたも私も似たような性質ですし、気も使わなくて済むので楽だと思います。私はほとんど家に帰らないので実質屋敷はあなたのものになりますね」
一瞬、本気でぐらりときた。ジェイドは相変わらず微笑んでいる。ただ、瞳だけが鋭い。恐らく真剣に提案しているのだろう。だとしたら、ここで頷けばアニスはあの男の脅迫から解放される。両親さえこちらに、例えばカーティスの屋敷にいてくれれば。
「いいよ」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
眼鏡の奥の瞳がわずかに細められる。それを見て確信した。このまま何も言わずにいればジェイドはすぐにでも、本当にアニスにカーティスの名を与えるのだろう。両親も速やかにマルクトへ入れられ、借金も全て返済される。自分はジェイドと結婚して――。
ハッとする。
そうだ、そうしたらもう戻れない。イオンとは二度と会えない。
マルクトとダアト、そういうことではなく、他の男と契りを結ぶというのがどういうことなのか。今まさに目の前に突きつけられるまで、アニスが見ないふりをしてきた矛盾。
この男は、知っていて平気でそれを言うのだ。そういう男だった。
身体の芯から震えが走る。あの綺麗な少年と交わした綺麗な言葉の数々は、いつの間にかアニスの宝物になっていた。
がちがちに固まった表情を、アニスは無理やりに横へ引き伸ばしていく。
「なーんてね。嘘ですよぉ、大佐もくだらない冗談は止めてくださーい」
あはは、と笑うとジェイドは奇妙な顔で押し黙った。
いつものように適当にはぐらかしてくれたらいいのに、どうしてこんなときばっかり真面目な反応を返してくるのだろう。頼むから、何でもいいから何か喋ってほしい。自分からは、無理だ。
アニスの視線を受けてジェイドがふと瞼を伏せる。ゆっくりと手が伸びて眼鏡をいじった。
「おやおや、ふられてしまいました。一世一代の大告白だったんですがね」
手が離れたときには普段の馬鹿馬鹿しい笑みが戻っていた。アニスはほっとして少し視線を逸らす。
「…大佐の一世一代は何回あるんですかぁ」
「さあ?忘れてしまいました」
「ひっどーい」
アニスはぷくりと頬を膨らませながら、顔を翳らせた。
きっとジェイドはもう二度と、このことに関して口は開かない。差し伸べられた手は今自分が振り払ってしまったのだから。
「あー、あっつい。早く宿に帰りましょう。アニスちゃん喉渇いちゃいました」
くるりと回って見せると腕の中のボトルが甲高い音を立てた。
「そうですね。この暑さは身体に応えます」
「大佐は全然平気そうですけどねー。あっそうだ、もしかして大佐って肌強いんですか?ケテルブルクってすっごく寒いじゃないですかぁ」
ジェイドは少し考えるふうに顎に手をやった。アニスはそれを見上げる。
大丈夫、もうこれはいつもと同じやり取りだ。自分もちゃんと笑えているはずで、ジェイドはそれに付き合ってくれている。
彼はにんまりと口角をあげると、内緒ですよと前置きをして声を潜めた。
「ケテルブルクの住人はマイナス三十度を越しても平気なんです。特別な遺伝子が含まれていますので」
「へー」
「おや、信じていませんね」
当然だ。
ジェイドは楽しそうに笑う。心の内など微塵も感じさせないその笑みを、アニスは羨ましく思った。
結局のところ、あの男の脅迫から逃れるには誰かに頼るしかない。あそこで首を縦に振るのが最良な選択なのだと分かっていたけれど、呆れるくらい小さな恋心一つのためにそれができなかった。嘘でも何でも、たった一言好きだと言ってしまえばそれで助かるのに。
(ばかみたい)
アニスは呟く。教団に入ったとき何もかも捨ててしまえたと思っていたのは、とんでもない勘違いだったようだ。むしろ教団に入ったせいで両親と並んで譲れないものができてしまった。
何があっても守りたい、守らなければならない人。
隣を歩く男にもそういう対象はいるはずで、しかし彼はそれを見事に守りきっている。
「大佐って実は、めちゃくちゃ出来のいい音機関とかなんじゃないんですかぁ」
そう言うと彼は静かに髪を揺らした。肌が汗ばんでいる。
「ええ、そうなんです。皆には黙っていてくださいね」
手段を選ばないこの男は、嘘を吐いても騙しても裏切っても、その人を守るためなら何でも犠牲にしてしまうのだろう。恋心だって平気で踏みにじる。アニスにはまだそれができなかった。
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