手をつないで



何やら今日はやけに人の視線を感じる。
ジェイドは眉を顰めながら軍本部の廊下を歩いていた。
自分が目立つ存在であるという自覚はあるが、それでもここまで視線を集めることはないだろう。中には隣に立つ者同士で、ひそひそと何か囁く者までいる。さすがにそれには気分が悪くなるが、今日は久々に取れた休日。自ら面倒ごとに首を突っ込むこともないだろうと、ジェイドはそれらを一切無視し、執務室のドアを開けた。
「カーティス大佐!」
中にいた女性士官がジェイドに気づいて立ち上がった。その表情は強張っている。
「何だ、君まで。外の様子もおかしかったが、何かあったのか」
「いえ、それが」
言いにくそうに視線を逸らす。普段から何ごともはっきりと口に出す人間のその動作は、ひどく不自然だった。
「構わない。話しなさい」
「実は、陛下のブウサギがまた脱走したと騒ぎになっていまして……」
「またか」
ジェイドは苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをする。
ピオニーの愛玩動物であるブウサギは頻繁に脱走を繰り返していた。その度に宮殿内の兵の配置が乱れてしまうから、管理はしっかりするよう言ってあるというのに。これは休日の一部を削らなければならないか、と重い溜息を零す。
「それで、今回はどれが逃げ出した」
ジェイドが視線を向けると、士官は僅かに目を泳がせる。ジェイドは訝しく思いながらも先を促した。彼女は息を吸い、覚悟を決めたように一度頷く。
たかがブウサギの名前を告げるのにこれだけ時間がかかるとは。嫌な予感がした。そして、こういうときの予感は大抵当たる。
士官はジェイドを見上げる。素っ気なく塗られた薄い口紅が、一番聞きたくなかった名前を形作った。
「ジェイド様と、サフィール様です」





「ジェイド。お前どうしたんだ、今日休みじゃなかったか?」
「ええ、ちょっと忘れものを思い出しましてね」
可愛いルークと戯れていたピオニーはジェイドを見上げて、珍しいなと笑った。彼の腹の中が、今どんな状態になっているかも気づかずに。
ジェイドもにっこりと笑い返す。
「それより陛下」
猫撫で声。一歩踏み出すと同時に、ぴしっと空気に亀裂が入った。ピオニーの顔が真っ青になる。どうやら一瞬で全てを悟ったらしい彼は、ジェイドを見上げながら尻であとずさる。怯えるようなその仕草に、ジェイドは更に笑みを深くする。
「おやぁ、どうして逃げるんです? もしかして何かやましいことでもあるのですか」
こつ、こつ、とわざとらしく靴底を鳴らしながら開いた距離を詰めていく。ピオニーは顔を引きつらせ、凄まじい速さで立ち上がり奥にいたブウサギの後ろに回り込んだ。上等な首輪を巻かれた、ネフリーの後ろに。そこからパンと両手を額の前で合わせ、きつく目を閉じる。
「すまん! 俺が悪かった」
ぶう、とネフリーが暢気な鳴き声を上げる。濡れた黒目がジェイドを見つめた。妹の名のついたこのブウサギにジェイドは弱い。わざわざそこを狙ってくるピオニーには腹が立ったが、今更日常化した行為を咎めるのも面倒だった。溜息を吐き、両手をポケットに突っ込む。
「陛下、本当にお願いですからブウサギの管理くらいきちんとしてください。できないなら飼わないでください。これで何度目だと思ってるんですか」
抑揚のない声に、ピオニーはことりと頭を下げる。
「すまん」
「まあいいでしょう。今後二度とこのようなことがないようにしてくださいよ」
「分かってる。……ん? お前今日はやけにあっさりと引き下がるな」
ピオニーは合わせた手をずらしながらジェイドを見、ひっと息をのんだ。
「な、何でそんなに怒ってるんだ」
「ご自分の胸に手を当てて、考えてみたらいかがです?」
慌てて言われた通りの行動をするピオニーに、ジェイドは急下降していた機嫌がそのまま氷点を越そうとするのを感じる。それを深呼吸で押し留め、なるべく穏やかに聞こえるように言葉を吐き出した。
「ブウサギが脱走した。百歩譲ってここまでは許しましょう。見つけ次第ステーキにして、夕食に出して差し上げます」
「待て! ちっとも許してないじゃないか」
「問題はその逃げ出した二匹の名前を、あなたが連呼して回ったということです」
う、とピオニーが黙り込む。どうやら自覚はあるらしい。
「おかげで私は宮殿中の人間から変な目で見られてしまいました。当然ですよねえ。仮にもサフィールは、脱獄歴を持つ囚人なんですから。逃げた、などと言っては洒落になりませんよ」
六神将ディストとして捕らえられてはいても、サフィールという名前は既に広く知れ渡ってしまっている。止めろと言うのに、ピオニーが彼の本名を呼び続けた結果だった。
ピオニーは視線を逸らしながら頬をかく。
「まあ、それは俺も反省している」
「あなたはどうしてそう、ブウサギのことになると周りが見えなくなるんです」
どっと肩を落とす。ピオニーを相手にしていると、ある意味仕事をする以上に疲れが溜まってしまう。ペースが狂うのだ。こめかみがきりきり痛み、また溜息を吐いた。
そんなジェイドを余所に、ピオニーはネフリーの背を撫でながら優しく目を細める。
「こいつらとはずっと一緒に暮らしてるからなあ」
「それで、いつからいないんですか」
髪を耳にかけながら尋ねると、ピオニーは記憶を探るように視線を上にやった。
「ああ、二三時間前からだな。俺が部屋を空けてる間にいなくなったんだ。間違いない」
「ガイはどうしたんです」
ブウサギの世話は未だに彼の仕事だった。
「それがあいつ、普段の時間よりもここへ来るのが遅れたらしくてな。それを知らないメイドが、ガイラルディアが中にいると思い込んでドアを開けちまったんだ。その隙に俺の、俺の可愛いジェイドとサフィールが……」
「気色悪いので止めてください」
ぴしゃりと遮る。声を震わせてネフリーに突っ伏していたピオニーは、情けない顔で呟いた。
「仕方ないだろう。可愛いものは可愛いんだ。可愛いと言って何が悪い」
「あなたのブウサギ狂いは分かりましたから、早くあの二匹を見つけてください。これ以上周りの人間に、妙な印象を持たれてしまっては困ります」
ディストがかつてジェイドと共に研究を進めていたということも、彼の本名と同じくらい知られてしまっていた。執務室へ向かう途中に浴びた視線が脳裏によみがえる。少し考えれば、皇帝の口から出たジェイドとサフィールの名前はブウサギのものなのだと分かるだろう。実際彼らもこの騒ぎがいつものあれだと分かったからこそ、暢気にジェイドを観察していたのだろうが。
ジェイドは眉を寄せた。本物のサフィールは、今も暗い牢の中で膝を抱えている。彼に脱獄する気はないようなのだが、まさかこちらのサフィールがそれをやってのけてしまうとは。
「あの二匹なら、ガイラルディアが誠意捜索中だぞ」
ピオニーの明るい声に、我に返る。
「ガイも大変ですね。自業自得ですが」
骨まで使用人が染み込んだあの青年は、今頃眉を八の字にして宮殿内を歩き回っているのだろう。少しだけ同情する。
「それにしても、まさかあの二匹が脱走するとはなあ」
両腕をネフリーの背でだらけさせ、ピオニーはしみじみとジェイドを見上げる。
「サフィールは賢いし、ジェイドは間が抜けてるから」
「喧嘩売ってます?」
「事実だ。怒るな。……まあ、だから脱走なんて考えるとは思わなかったんだが」
それはジェイドも思っていたことだった。今のところ脱走率が一番高いのはネフリー。その後にアスラン、ルークと続いている。
問題のジェイドとサフィールは、今までに一度しか脱走したことがない。あのときはメイドが長時間ドアを開けっ放しにしていたせいで、ルークを除く全てのブウサギが逃げ出してしまっていた。今回は気づいてすぐに閉めたようなのだが、そのほんの数秒の間に二匹はドアをすり抜けて行ってしまったらしい。いくらなんでも動きが速すぎる。もしかしたら、あの二匹はドアの近くで脱走する機会を窺っていたのかもしれなかった。
「まさに逃避行だな」
「刺しますよ」
「いや、ちょっと待て! 早まるな!」
床に尻をついて必死で手を振る皇帝を無表情に見つめ、ジェイドは軽く腕を振り下ろした。シュンと白い光が槍を包んで消える。 ピオニーは大げさに胸を撫で下ろし、ジェイドを見上げた。
「お、お前こそ洒落にならんぞ! 軍人が主君に槍向けるなんざ聞いたことがない」
「おや、それはよかったですねえ。それならあなたが第一号ですよ」
「よくねえよ!」
それから、ぱた、とピオニーの動きが止まった。じっとりとした視線がジェイドを見上げる。
「お前、いつかこの国乗っ取るつもりだろう」
「まさか」
ジェイドは首を竦め、踵を返す。
「帰るのか」
ピオニーがブウサギの中から声を上げる。ジェイドは首だけで振り返って微笑んだ。
「当然です。貴重な休日をこんなことで潰されては堪りませんからね」
「見つけたらちゃんと連れてこいよ」
「ええ勿論」
力強く頷く。
「私が責任を持って厨房まで連れて行きますので、どうぞご安心ください」
ふっと頬を緩めると、ピオニーは呆けた顔をする。そして次の瞬間には、それをぐしゃりと潰して呟いた。
「お前、最悪」





あまりにも宮殿内の視線が鬱陶しいので、ジェイドは帰り道にいつもは通らない中庭を突っ切って行くことにした。綺麗に手入れされた庭はそれは美しいものだけれど、ジェイドの機嫌を直すには足りない。むしろ気分と反比例したその光景に、ますます眉間の皺を深くしてしまう。
「あれ? ジェイドの旦那」
白い飾りフェンスの向こうから現れた青年は、ジェイドの姿を認めると首を傾げた。
「今日は休みのはずじゃあ」
「忘れものです」
ジェイドは先程と同じ台詞を繰り返し、この騒動の原因を作った張本人に近づいていく。ガイは本能で何かを察知したのか、さっと表情を凍りつかせた。ジェイドは口の端を上げ、僅かに首を傾けて見せる。
「ところでガイ、ブウサギは見つかりましたか?」
機嫌が悪いときの自分の笑みがどれほど凶悪に見えるのかジェイドは知っている。案の定ガイは冷や汗を垂らしながら目を泳がせ、力なく苦笑した。
「いや、それがまだなんだ。今回の相手はなかなか手強くてな」
「そうらしいですね」
「ああ、ジェイド一匹ならすぐ見つかるだろうと思ったんだが……」
ジェイドの眉がぴくりと反応する。ガイは失言に気づかないのか、先を続けた。
「どうやら二匹一緒に逃げてるらしい。サフィールは頭がいいからなあ」
「たかがブウサギでしょう」
冷たく言い放つと、ガイは困った顔で頭をかいた。
「そう言うなら旦那も手伝ってくれよ」
「嫌です」
「即答かよ!」
ジェイドは庭を見渡して目を細める。
「この時間ですから、どこかで昼寝でもしているんじゃないですか」
柔らかい日差しに、きらめく緑。甘い花の香も漂い、遠くからは規則的な水の音も聞こえてくる。騒がしい宮殿から切り離されたこの場所は、一眠りするには最適だろう。
ガイは小さく唸りながら首を捻った。
「俺もそう思って探してるんだけどな、見当たらないんだ」
「宮殿の外に出た、ということはなさそうですしねえ」
もしこの水の壁に囲まれた宮殿から、誰にも見つからず逃げ出すことができたとしたなら、それはそれで問題だ。
「本当にどこへ行ったんだか」
ガイは肩を落として長い溜息を吐き出す。
「首輪に何か居場所が分かるような音機関でもついてりゃいいんだが」
「おや、いいアイデアですね。今度陛下に言っておきましょう」
実際作るのはディストになるのだろう。こういった細々した雑用をさせるのに彼は最適の人材だった。
「そうしてもらえると助かる。俺の仕事もいくらか楽になるかな」
ぐったりと下を向いたままのガイに、ジェイドは誰にも分からない程度に笑んだ。
この青年はブウサギが脱走してから今まで、ずっとこうして頭を抱えていたのだろう。そう思うといくらか気分もよくなった。我ながら悪趣味だ。
「ま、見つからないなら見つからないで、陛下にブウサギを卒業していただくいいきっかけになるかもしれませんね」
「はは、それもそうだな」
ガイは他人ごとのように言う。ジェイドは顎に手をやり考えるポーズを取った。
「そうしたらあなたは、毎日陛下からの嫌がらせを受けることになると思いますが」
げ、とガイが口を歪めた。
「それは嫌だな」
想像したのだろう、心なし顔色が悪い。
家族同然に可愛がっているブウサギが行方不明になったとあれば、ピオニーの恨みも半端ではない。そのことはガイが一番よく分かっている。
「早いところ見つけないと俺の将来に関わるか。じゃあ旦那、また後で。それとよかったら、周り見ながら歩いてみてくれないか」
「まあ、それくらいならいいでしょう」
ガイは人懐こい笑みで悪いな、と返す。
「もうこの辺りは探し終えちまったから、また端から探してみることにするよ」
ジェイドはガイの背中を見送り、足を進める。不運な青年をいじって遊んだおかげで、気分は先ほどと比べるとかなりましになっていた。一応約束した通り、周りの気配も窺いながら歩く。ガイにも見つけられないとなると、もしかしたらここではなく、宮殿の中にいるのかもしれない。何にせよ早いうちに見つけてもらわなければ困るのはこちらだ。
結局、外へ出るまでにジェイドが二匹を見つけることはなかった。翌日ピオニーの私室を訪れると、部屋の主が満面の笑みで二匹を代わる代わるブラッシングしていた。
「どこにいたんですか」
あれほど人を煩わせておきながら、当のブウサギはのんびりと目を閉じ寝そべっている。頬が引きつるのを感じた。ピオニーはサフィールの背を一撫ですると満足げに頷く。
「中庭で寝てたらしいぞ。隅の方に花壇のフェンスがあるだろう、あの側だ」
それなら昨日別れたガイが向かって行った方角だった。
「ところで陛下、ガイがブウサギに発信機をつけたらどうかと言っていたんですが」
はっしんき、とピオニーが眉を寄せる。
「特殊な音素を放出して、対象の居場所を特定するためのものです」
簡単な説明を聞き終えると、ピオニーは顔を明るくして、ぽんと手を打った。採用決定だ。





「というわけですので、ディスト、あなたにはブウサギの首輪につける発信機を作ってもらいたいんです」
暗く、狭い地下牢にジェイドの声が反響する。返事はない。ディストは鉄格子の向こうで簡素なベッドに腰かけて、遠くを見ていた。白く発光するような銀髪が頬にさらりとかかっている。横顔は青白く、化粧をしていない唇もほとんど色を失っていた。それなのに彼はシャツに黒い上着を羽織っただけで、寒さに震える様子もない。
ジェイドは腕を組み、ひんやりとした壁に背をもたれさせてそれを眺めていた。
「ディスト、聞いてますか」
ぴくりともしない、細い身体。牢に入っている間にまた痩せたのではないだろうか。黒い袖から覗く手首は枝のようだ。
「聞いてますよ」
蚊の鳴くような掠れ声が聞こえてきたので、ジェイドは視線をディストの顔へ合わせる。彼は相変わらずどこを見ているのか分からない瞳で、静かに膝に頬杖をついていた。
「お断りします……と言える立場ではないのでしょうね」
「あなたにしては物分かりがいいですね」
「もういい加減慣れました」
ほう、と息を吐く。冬でもないのに、寒い地下ではそれが白く広がって見える。音もなく伏せられたディストの睫に、ジェイドは気づかないうちに目を奪われていた。
「ですが、あの男も馬鹿ですよね」
淡々と吐き出された、軍人としては聞き逃せない暴言を、訂正させることもなく流してしまう。ディストはそのまま独り言のように唇を動かす。
「あんな家畜、早く捨ててしまえばいいのに」
「それについては同感ですね」
わざと大袈裟に肩を竦めると、赤紫の瞳が初めてジェイドの目に焦点を合わせた。
「その割には随分楽しそうですけど」
恨みがましく見つめてくるそれに、ジェイドはひっそりと満足して笑んだ。
「そう見えますか? 心外です。あの愛玩動物のせいで、私はこうしてあなたに会いに来なければならなくなったんですよ」
なっ、とディストが息をのむ。
「あなたはまた私を馬鹿にして! 大体、来るのが嫌なら誰か人に頼めばいいじゃありませんか!」
彼は顔を赤くして、ベッドから乗り出すように格好を崩した。ジェイドは乾いた笑いを上げる。
「残念ながら皇帝命令です」
ぐ、と言葉に詰まったディストは、一拍おいて肺に溜まった空気を吐き出した。無意識にか、指がシーツを握り締める。 ぐしゃぐしゃに乱れたそれを眺めながら、ジェイドは告げた。
「陛下に、あなたの様子を見てくるようにと言われました」
その途端、ディストの周囲の空気が急激に冷え込む。いつになっても変わることのないあからさまな拒否に、ジェイドはこめかみを押さえた。
ディストのピオニー嫌いは、昔に比べ更に悪化してしまっていた。この、ピオニーによって生かされているという状況が彼にそうさせているのだろう。気持ちは分からなくもないが、あまりひどい態度を取っていると兵の反感を招きかねない。そうなれば後始末は全てジェイドに回ってくるのだ。
「少しくらい隠しなさい。馬鹿の真似事はできるくせに、どうしてこんな簡単なことができないんですか」
普通逆だろう、とジェイドは緩く首を振る。嫌というほど聞いた癇に障る高笑いが、鼓膜の裏によみがえった。
するとディストは眉を寄せ、それとこれとは別ですと吐き捨てる。
「私はあの男が嫌いです。大っ嫌いです! それを偽るくらいなら死んだ方がマシです!」
膝を抱えて顎を埋める。これでは完全に拗ねた子どもだ。
「あなたがいいなら構いませんがね」
腰に手を当て、呆れながらディストを眺める。彼は眉間に皺を寄せ、獣の子のように唸っていた。どうせ頭の中に浮かんでしまったピオニーの顔を、インクで真っ黒に塗り潰してやろうと躍起になっているのだろう。
何でもいいが、このまま話が進まないのは面倒だった。溜息一つで話を本題に戻す。
「さて、発信機ですが。できますよね」
「当然です」
間髪入れずに返事が返ってくる。ジェイドは自然と口角が上がるのを感じた。さすが譜業については頼もしい。表情も雰囲気もすっかり、博士と呼ばれていた頃のものに切り替わっている。
ジェイドは壁から背を離し、鉄格子に近づいた。紙とペンを取り出して隙間から滑り込ませる。
「特別必要なものがあれば書いておいてください。用意します」
ディストはそれには答えず、じっと床を見つめた。長い前髪が表情を覆い隠す。距離が縮んだおかげで、ジェイドからは、よりはっきりと銀色の房が確認できた。柔らかく、真っ直ぐに落ちる髪。
不意に、それに触れたい衝動に襲われる。皮膚の上を滑る細い感触を思い出してグローブの内側が疼くのを、指を折り曲げてやり過ごす。
「いつも思いますが」
俯いたまま、ディストが静かに零した。
ジェイドは一瞬跳ねた心臓を抑えながら相槌を打つ。
「本当にいいのですか? こんな罪人に」
弱々しくベッドの縁に手をかけ、ディストはこちらを見上げてくる。その瞳が訝しがるというよりは不安がっていたので、ジェイドは思わず噴出してしまった。
「お前がそんなことを気にするとは」
「何がおかしいのですか! あなた達は私が脱獄するとは考えないのですか。こんなに簡単に仕事を寄越して。私がこれに嘘を書いたらどうするつもりです。材料さえあれば、大抵のものは作れるのですよ」
さらっと自信過剰気味な台詞が飛び出したが、事実なので咎めようがない。それよりも気になるのは。
「脱獄、するんですか」
唇に笑みを貼りつけ尋ね返す。
ひく、と胸元に添えられていた白い指がシャツを掴んだ。空気が震える。ディストは黙ってジェイドを見た。つるりとした赤紫色の虹彩は、濡れているようにも乾いているようにも見える。どちらかは判別できない。瞳を覗くには、この距離は遠い。
彼の顔にかかる、分厚いレンズが邪魔だった。こんなものは取り去ってしまった方が、もっとよく見えるだろう。だが手を伸ばすことはできなかった。
手を伸ばしたら、彼は恐らくジェイドを拒む。彼をここに入れたことで、恐らく正確にはあの日彼の望みを絶ってしまったことで、ジェイドも彼の拒否の対象に入れられてしまっていた。薄い、けれど決して破ることのできない壁を感じる。例えばこの鉄格子のような。
「……しませんよ」
一度瞼が下りたかと思ったら、ふいとディストは身体ごと顔を背けた。
柔らかい後ろ髪が、シャツの襟の上でふわりと揺れる。ジェイドはそれを見つめていた。





すぐに、これは夢だと思った。
何故なら雪が冷たくない。寒いということは分かるけれど実感がない。
周りを見渡すと、どこまでも雪が続いていた。ただの雪だ。真っ白い地面、空。木も何も生えていなかった。街もなければ人もいない。困ったことになった、と頭の隅で思う。まだ執務室の机の上には山ほど書類が残っているというのに。
とりあえずどこかへ行かなければ、と歩いてみようとして足がひどく重いことに気がついた。見るとふくらはぎの中ほどまで雪が積もっている。道理で重いはずだ。これでは一歩も動けない。ジェイドは半ば途方にくれてそれを見つめた。
ざく、と雪の中に手を突っ込む。足の周りの雪をかき出す。しばらくそうしていると、両手が手首まで真っ赤になってしまった。冷たくないのに、と恨み言のように呟く。感覚はないが、これ以上続けているとたとえ夢の中でも使いものにならなくなりそうだった。立っているのにも疲れたので、とすんとその場に座り込む。
空を見上げると雪が横に降っていた。膨大な数の白い点が、細く線を引きながら流れていく。まるで檻のようだ。
「ジェイド?」
びく、と肩が跳ね上がる。驚いて振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
「ジェイド、どうしたの。こんなところで。風邪引くよ?」
サフィールだった。それも幼い。
あの頃の、雪に溶けてしまいそうな格好のまま、彼はそこに立っていた。
彼こそこんなところで何をやっているのだろう。ここは子どもが一人で来るような場所ではないだろうに。そう思って再度辺りを見回すと、だだっ広い白の風景が、いつの間にか街中のそれに変わっていた。煙突つきの屋根、雪を被った街路樹。見覚えがある。ケテルブルクだ。
「あっ」
突然サフィールが口に手を当てる。脈絡がなく、無駄に喧しいのも昔と同じだった。眉を寄せるジェイドに向かって、彼は嬉しそうに笑う。
「もしかして、僕のこと待っててくれたの?」
「違う」
反射的に打ち返す。それから自分の声がいつもより数段高いことに気がついた。これは子どもの声だ。
サフィールはひどいよう、と眉尻を下げる。
「じゃあジェイドはここで何やってるの?」
「知らない」
「ふうん?」
サフィールは首を傾げつつ、ジェイドの隣に座り込む。追い払おうと手を出しかけたが、その前にサフィールはジェイドの顔を覗き込んできてしまった。
「ねえ、だったら僕と遊ぼう」
その額を叩いて押し返してやることもできたのだが、ジェイドはサフィールの顔を見て手を膝の上に下ろした。
にこにこと馬鹿みたいに笑う、鼻の頭が赤い。すごく寒そうだと思った。
気づいたら、妙なことを口走っていた。
「いいよ」
「ほんと!」
ぱあっと表情が輝く。
「ああ、いいよ」
面倒なので訂正はしなかった。わけもなく、それもいいかと思ったのは本当だった。
サフィールは幸せそうな顔をして、ジェイドの横でほっぺたをつねる。
「何してるの」
「だって、だってジェイドが僕と遊んでくれるなんて」
夢みたい。今にも飛び上がりそうな、甲高い声。直接耳に突き刺さるその音には苛々したが、彼があまりにも嬉しそうだったので、夢だよという言葉は言わないでおくことにした。もし言ったら、ショックで変な気でも起こしかねない勢いだった。
「じゃあジェイド、行こう」
目の前に白く小さな手が差し出される。
どこに、と返すとサフィールはもう片方の手の人差し指を顔の前で立てた。えへへと口元がはにかむ。
「ないしょ」





サフィールの手は冷たかった。それにいびつな硬さがある。いつも音機関をいじっているからなのだろうか。ふにゃふにゃした外見からは、もっと温かくて柔らかなものを想像していたから、意外だった。
何気なく握り返すと、サフィールは白い息をまとわりつかせて笑った。
「ジェイドの手、やわらかいね。……い、痛い!」
じんと痺れる左の手のひらを服で払う。
つい手が出てしまった。サフィールは勘がいいのか、何をするにもタイミングがよすぎてしまう。それが裏目に出ていることに早く気づいた方がいいと思う。
「こっちだよ」
サフィールは赤茶色のレンガ造りの家の角を曲がる。私塾からもそれぞれの家からも離れた、普段なら訪れない場所だった。曲がりくねった路地裏を、サフィールは小走りに進む。ジェイドも引かれるまま後をついていく。
「本当にどこに行くんだ」
「すぐ分かるよ。だからそれまでは内緒」
サフィールは楽しそうに首を竦める。これほどはしゃぐサフィールを見るのは久しぶりだった。ジェイドはサフィールの後姿を眺める。短く揃えられた後頭部は、ジェイドにはあまり馴染みのないものだった。そういえばこうして自分が彼の後ろを歩くのは初めてかもしれない、と思う。いつも彼の方が勝手に追いかけてくるから気にしたこともなかった。
さくさくと二人分の足跡が続いていく。
青いカーテンの家の角を左に曲がる。黄色の花壇を通り過ぎる。そこから三軒目の家を、また左へ。その次は。
(……窓際に赤い植木鉢がある家)
ジェイドは視界の端にそれを認めた。段々小さくなっていくそれを振り返る。
この道を通るのは初めてのはずだった。けれどその次も、その次も。頭に浮かんだ光景と目の前にある光景とが重なり合う。さっと胸を不安が過ぎった。
サフィールが声を弾ませる。
「もうすぐだよ!」
街外れに近づいているのだろう。家の数が減り、道が広くなっていた。あと少し進めばサフィールの目的地に着く。推測ではなく確信だった。
硬い手がかさついた皮膚をきゅっと押しつけてくる。ずっと触れていたけれど、サフィールの手は温かくはならなかった。自分の手が冷たいせいだろうとジェイドは思う。だからどうということもないのだが、ただ少し、勿体ないとだけ思った。
そうしてぼうっとしていたら、危うくサフィールの肩にぶつかりそうになった。歩く速度が落ちたのだ。小さな肩の向こう側に白い風景が広がっている。サフィールの息が風で緩やかに流れて、淡くそれを遮る。
「ここか?」
「うん!」
ただ白いばかりの、何でもない場所だった。街の一番端。白い背景に魔物よけの貧相な柵が浮き出ている。それだけだ。
サフィールはジェイドの手を握ったまま、くるりと振り返った。顔には変わらずしあわせそうな笑みがのっている。そのまま空いている右手が先を指差した。
「どう? ロニール雪山。ここから見るとすごくきれいなんだよ」
雪山、と唇で反芻しながら、ジェイドは視線を奥にやる。そう言われてみれば、確かに山の描く曲線の角度が他から見るよりもきれい、なのかもしれない。けれど本当にそれだけのもので、これが人に教えたい風景かといえばジェイドは首を捻る。何しろ彼から言われるまで、この風景が何を指すかも分からなかったのだ。一体これのどこにそれほど心を動かされるものがあるのだろう。サフィールの感性はやはりよく分からない。
顔を崩して微笑むサフィールは、ジェイドの反応を待っているらしい。赤く色づいた頬。ぱたぱたと振れる尾が見えるようだった。
ジェイドは彼に思ったままを伝えようと口を開きかけ、逡巡した。このまま言えば確実に彼は泣くだろう。真っ赤な顔からぼろぼろと零れる涙。どこかで見た気がする。そう感じたとき、するすると紐が解けるようにして記憶の波が押し寄せてきた。
気がするのではない。見たのだ。現実に彼はここで泣いていた。
あの日。ジェイドは気紛れにサフィールの手を取った。特に理由はない。強いて言うなら、ネビリムのことを好いている彼が、授業を抜けてまでどこへ行きたがるのか興味があった。冷たい手に引かれて街を抜け、この場所へ来て。やはり何の変哲もない景色に、ジェイドはいつもの調子で冷たい言葉を吐いた。サフィールは余程この景色を気に入っていたらしい。見る見るうちに目に涙が溜まっていくのを、ジェイドは無感動に眺めていた。
「ジェイド?」
サフィールの声が遠ざかる。
そして確かあの後、追いかけてきたネビリムに見つかって、ジェイドはサフィールを泣かせてしまったことを怒られた。ネフリーはネビリムの代わりに二人の脱走を叱った。ピオニーは逃避行だ、と笑った。
そのあまりに間の抜けた空気に、ジェイドは来るんじゃなかったと溜息を吐き、さっさと踵を返した。少し進んで後ろを振り返ると、サフィールはまだその場で泣き続けていた。わんわんと大きな声を上げて。
それがやがて掠れるほどに小さくなって、聞こえなくなっても鼓膜は震えたまま。泣き声は胸に張りついて離れなかった。
ぱちりと唐突に映像が切り替わる。
湿った空気、光の入らない地下。薄っすらと浮かぶ白い身体に、それを遮る鉄の柵。ジェイドはその前に立っていた。
そろりと鉄格子を掴む。サフィールが顔を上げ、ぼんやりと視線を寄越した。その瞳はジェイドを通り越して遥か遠く、ジェイドが置き去りにしてきたもの達を見つめているようだった。微かに首を傾け、彼は目の前のジェイドではないところに向かってほろりと頬を緩める。
胸がつぶれて、軋む音がした。
今になってはっきりと理解する。彼はたった一人で柵の向こうへ行ってしまった。
無意識のうちに指に力が入る。硬い感触に指先が冷えて痺れる。彼の手の温度を思い出した。
手を伸ばしても、あのときのサフィールなら拒まなかった。ジェイドがそうすれば、彼はむしろ喜んでどこへでもついてきただろう。サフィールはいつまでも自分の後ろをついてくる。自分も時折気紛れに手を引かれてやる。それが当たり前なのだと思っていた。
気づいたところで遅すぎるのだ、今更。失ってしまったものはもう戻らない。それを学べるくらいには長い時間が経っていた。
もう二人の距離は遠すぎる。サフィールもジェイドも、それぞれが違うところを見つめ続ける。決して交わることなどない。
冷たい手。触れられない。





鉄格子の向こうから病的に白い握り拳が突き出される。ジェイドがその下に自分の手を広げると、ぱらぱらと小さなボタンくらいの大きさの音機関が降ってきた。
「ご苦労様です」
グローブの上で、六つの音機関がきらりと銀色に光る。ジェイドはそれらをまとめて皮袋に流し込み、続けて差し出された画面つきの小型の音機関も受け取った。
細く白い指が横についたスイッチを入れると、ブンと音がして黒い画面が点灯する。拡大された地図の中で、六色の光が一箇所に固まって映っていた。
「それぞれが同じ色に対応してますから。そちらで勝手に決めてください」
長い爪がこつこつと画面を叩く。ええ、と頷きながら、ジェイドの視線はディストの旋毛で固定されていた。
「これでガイの胃に穴が開かずに済みそうですね」
「ガイ?」
ディストが顔を上げる。柵越しの至近距離で見つめ合う。ディストは首を傾げた後、思い出したように、ああと呟いた。
「ガイラルディアのことですか」
「ブウサギの世話も彼の仕事です。言ってませんでしたか?」
ディストは顔を顰めて横を向いた。
「贅沢ですね。あの男は伯爵に家畜の世話をさせるのですか」
「おや、あなたが階級に拘る人間だとは思いませんでした」
「ただの例えです」
そう言いつつも、ディストはそれなりにガイのことを気に入っている。偏執狂同士、互いに惹かれるものがあるのだろう。カチ、と音機関のスイッチを切る。
「ガイラルディアも忙しいでしょうに」
「いやいや、彼もそれなりに楽しんでいるようですよ」
音機関をしまいながら茶化すと、ディストの視線が突き刺さった。その強さに背筋が震える。
「あなたと同じに?」
顔には皮肉な笑みが浮かべられていた。腕を組む彼を横目に、ジェイドはポケットの中で、あるものを握る。ディストはそれには気づかず、吐き出すように続ける。
「あなた達は本当に楽しそうですよね。私をこんな場所へ放り込んでおいて」
一生恨みますから、と振り返りもしなかった薄い背中を思い出す。これほど鮮明に覚えているのに、もう遥か昔の出来事のように思えた。
ジェイドはゆったりと微笑み返し、鉄格子の中のディストの手首を素早く掴んだ。
「何ですか」
ジェイドの気に障ったと思ったのか、ディストは一瞬びくつくが、それでも瞳の鋭さは変わらなかった。ジェイドはそんな彼の目の前に拳を掲げ、手の中のものをぶら下げて見せる。じゃら、と鈍い金属音が響いた。
「出して差し上げましょうか」
それだけでディストには伝わった。
大きく見開かれた瞳に、錆びかけた金色の鍵の束が映り込む。
「あ、あ」
「どうしましたか。嬉しすぎて言葉も出ませんか」
掴まれていない方の手が、震えながら鍵を指差す。あわあわと口が開く。
「ディスト?」
それで我に返ったらしい彼はバッと腕を引こうとしたが、ジェイドは離さなかった。彼はそのままあとずさる。
「ば、馬鹿を言わないでください! そんなものを持ち出して、あ、あなた一体どういうつもりですか!」
「だから、出して差し上げましょうか、と」
「そういうことではありません!」
金切り声がきいきいと叫び散らす。
「あなたも罪に問われるのですよ!」
「ええ知ってますよ」
「そうではなくて!」
「あなたと逃げてみるのも、いいかもしれないと思ったんです」
その瞬間、ディストの目がジェイドの瞳の上で焦点を結ぶのを感じた。彷徨っていた意識も一点に絞られたのだろう。先ほどの強い視線とは違うが、それに近いものがジェイドに注がれる。
「……まさかあなた、本気なのですか」
「私は冗談は嫌いです」
ディストは眉を寄せて視線を流した。
「檻の中は窮屈でしょう。暗くて、狭くて、かび臭くて」
これで育ちのいい彼は、昔からそういった場所を嫌っていた。
「だから出して差し上げますよ、ディスト」
じゃら、と鍵を鳴らす。重い金属音が再び響いて、すぐに消えた。ディストは掴まれた手から離れるように顔を奥へ逸らす。銀髪の隙間から、今にも折れそうな首が覗いた。肩が小さく震えている。
ジェイドはそれを見下ろしながら、自分はまた彼を傷つけているのだろうと思った。だが思ったところでどうしようもない。自分はこういう接し方以外を知らないのだ。
彼は過去ばかりを求めるが、自分こそ昔から何一つ変わってはいない。
「……あなたはいつだってそうだ」
ディストの後姿から、絞り出すような声が漏れる。
「いつだって、そうやって気紛れに私に手を伸ばして」
泣くかと思ったが、声は乾いて掠れていた。あの頃よく聞いた涙声を、不意に懐かしいと思ってしまうのはいけないことなのだろう。彼を泣かせていたのはいつも自分だった。
ディストは肩に顔を埋めて、深く俯く。
「結局、一人でいなくなっちゃうくせに」
ジェイドは何も答えられず、落ちる銀髪を見つめ続けた。
彼との沈黙を埋める方法もジェイドは知らない。誰にでも通用する安い誤魔化しの文句も、彼相手には意味をなさなかった。言葉で騙されるほど賢くはなく、暴力に屈するほど弱くもない。彼はあまりに純粋すぎた。
「それで? 答えは」
薄ら笑いで促すと、長い長い息が吐き出された。思わず胸をかきむしりたくなる。答えなど最初から分かっているのだ。
「もう、いいです」
先日聞いた通りの声音。何かを諦めたような、ひどく疲れきった動作でディストは振り返った。静かに口角が上がる。
「離してください」
するりと手の間から細い手首が抜けていく。ディストは微かに赤くなったそこに触れ、痛いと小さく呟いた。沈黙が下りる。
ディストはジェイドに背を向けたまま、その場から動かなかった。幼い頃と同じ、ジェイドよりも一回り小さな肩。その向こうには冷たい壁が広がっている。ジェイドは知らないうちに空気を掴んでいた。
「……そうですか。分かりました」
ディストは無言だった。もう何も言う気がないらしい。
「それならこれは元の場所へ戻しておきましょうか」
くぐもった金属音がポケットの中に封じ込まれる。
ディストに告げるつもりはないが、これを持ち出すのには結構な手間がかかっていた。人に知られれば噂が立ってしまう。戻すときも、もし見つかれば厄介なことになるだろう。
「見つからないようにしてくださいよ」
顔を上げると、ディストが瞳だけでジェイドを振り返っていた。ジェイドは自然と口の端を緩める。
「そんなへまはしませんよ。あなたじゃあるまいし」
ディストはむっと顔を歪めたが、普段の甲高い反論は聞かれなかった。それを少し残念に思う。
そうっと手を伸ばすと、当然のように背中が遠ざかった。靴底が床を叩く。指先に軽く銀髪が触れたが、グローブ越しではその細さも分からない。ディストはジェイドの手が届かない距離まで離れ、そこで膝を抱えた。
「もう行ったらどうですか」
声の質が僅かに、だがはっきりと変わっているのを感じる。
ジェイドは手を引いたが、妙な感傷からその手をなかなか下ろせずにいた。銀色の睫が上向き、責めるような視線を注いでくる。ジェイドは一度だけ鉄格子を撫でると、ポケットへ両手を滑り込ませた。
「また来ます」
ディストは頷かず視線を逸らす。
完全に拒まれた。予想していたことだというのに、頭のどこかではもしかしたら彼は自分を受け入れるのではないかと、そう考えていたことに苦笑する。
(馬鹿馬鹿しい)
ジェイドは背を向けた。その後ろからは何もついてこない。ただあのときのサフィールの泣き声が、胸の奥底から響いてくるだけだ。

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