分厚い硝子張りの窓を眺める。
ちらちらと流れる雪は綺麗だけれど、アニスの気分は少しも上向かなかった。
「つまんなーい」
思い切り頬を膨らませてみたところで、期待するようなツッコミも聞こえてこない。
今ホテルに残っているのはアニス一人だけだった。
折角ケテルブルクに来たのだから、ガイ辺りを引っかけてカジノに連れて行ってもらおうと思っていたのに、彼はナタリアと共に出かけてしまった。それならティアと買いものにと思えば、今度はルークに邪魔される。
面白くなかった。いっそどちらかについて行ってからかい倒してやろうかとも考えたが、虚しいだけなのでやめた。人の恋路を邪魔して楽しむ趣味は、アニスにはない。
一人余るはずのジェイドは、ネフリーのところへ行くと言ってホテルに着く前に別れてしまっていた。
それなのでアニスは仕方なくロビーで暇を潰している。
どこかへ出かけようとは思わなかった。何せこの街はカップルで溢れかえっているのだ。胸焼けのするような空気の中を一人で歩くなど、頼まれてもお断りだった。
誰かが声をかけてくれればいいのだが、その望みも薄かった。アニスは自分が周りからどう見られるかを知っている。お嬢ちゃん、だ。冗談ではない。どうして皆して人を子ども扱いしてくるのだろう。
アニスはじっと窓を睨みつける。
私は子どもじゃない。絶対に違うと、何度も頭の中で繰り返す。
アニスはずっとドアの音が嫌いだった。がた、と誰かが訪ねてくる気配がすると心臓が止まりそうになってしまう。扉を開けて、そこにいるのはあの男達なのではないか。その恐怖は今になっても拭いきれなかった。
何度も何度も金を受け取りにやって来た男達は、いつも一方的に喚き散らして帰っていった。手を上げない辺りまだ紳士的だったのかもしれないが、それでも幼い自分にとっては命の危険を感じるほど恐ろしかった。
そうっと壁の陰から送る視線の先で、両親はひたすら頭を下げ続けていた。彼らにはそうすることしかできなかったのだ。
自分が何とかしなければ、と思った。パパとママのためにも、私が早く大人にならなければ、借金を返さなければ。そうやって今までがむしゃらに生きてきたのだ。
だから本当は金持ちなんて大嫌いだ。見ただけで虫唾が走る。努力を知らない天才も、きたないものを見ようとしない善人も、皆嫌いだ。
(でも一番嫌いなのは…)
きつく握り締めていた拳を解いて、指先で窓をなぞった。
つっと滑り落ちる水滴が、薄暗い窓に映る自分の頬を伝っていく。
「あー!やだやだ」
声を上げて、指を下に振り切る。
自分が嫌いで、だったら何だというのだ。好きだろうが嫌いだろうがこれが自分だ。仕方ない。
アニスは濡れた指先をスカートで拭いながら、窓を見つめた。
「ほんっとサイテーだわ」
「おや、何が最低なんですか?」
「ふぎゃあ」
びくりと肩を震わせる。振り向くと、すぐ後ろでジェイドが嫌な笑みを浮かべていた。
「な、何なんですかいきなり。びっくりするじゃないですかあ」
アニスは足を引いて距離を取りながら、さっと彼を観察した。髪も軍服もほとんど濡れていないところを見ると、恐らくホテルに入ってしばらくは経っているのだろう。それなら今の一部始終は見られていたと思った方がいい。
油断も隙もない男だ。思わず舌打ちをしそうになる。
ジェイドは感情の読めない薄笑いを浮かべていた。
「いやあすみませんね、まさかアニスが私程度の気配に気づかないとは思いませんでした」
「えへへ、ちょっとぼーっとしてて」
頭をこつん、と叩くようにして笑う。自分でも寒気のする仕草だ。
「そんなことより聞いてくださいよ大佐。ルークもティアもガイもナタリアも、みーんなどっか行っちゃったんですよう。ひどいと思いません?」
こて、と頭を傾ける。ジェイドは眼鏡越しにこちらを見下ろし、合わせるように小さく首を傾げた。
「ならあなたもついて行けばよかったじゃありませんか。いい暇潰しになったでしょうに」
さらっと言ってのける男に、つい眉を顰めてしまう。
「どこまで図太いんだこのおっさん」
「何か?」
「何でもありませーん」
にっこりと微笑まれるが、どう見ても少しも目が笑っていない。
アニスは危険を感じて顔を背けた。ふと先ほどの窓が視界に入ってくる。
そこには、くっきりと黒い指の跡が残っていた。
一生の不覚だ、とアニスはざくざく雪を踏みしめる。
慣れない雪道はかなり歩きにくいのだが、前の男に声をかけて速度を落としてもらうのも癪だった。ジェイドはさすがこの街の生まれらしく、普段と変わらない様子で歩を進めていく。アニスは隠れて溜息を吐いた。
あの後不意に落ちた沈黙に耐えきれず、アニスはジェイドを散歩に誘った。
誘ったと言っても、勿論断られるのを前提で口にしたことだ。いつもの戯れと同じで、そこに意味などない。
だからジェイドが頷き返してきたときには耳を疑ってしまった。
彼は人との境界線を越えたがらない。いつもぎりぎりまで近寄ってきて威圧するくせに、こちらが手を伸ばせばひらりと身を翻してしまう。アニスは大体のところで、自分と彼は同じ類の人間だと思っていた。自分が線を越えない代わりに、相手にも越えさせない。それは初めて顔を合わせたときから、互いに了解したものだと思っていた。
今更何の気まぐれを起こしたのだろう。
アニスはちらりと長身の男を盗み見る。無表情な背中からは、やはり何も窺い知ることはできなかった。
「何か温かいものでも飲みますか」
ベンチに腰かけたアニスを見下ろして、売店を指差す。アニスは目を丸くした。
「ほえ、大佐がやさしいー不気味ー」
わざと大きな声を出すと、ジェイドも冗談めかして頷いてきた。
「そうですか。ではアニスの分は唐辛子のスープにしましょうか。あの店のオリジナルで、鮮やかな赤色をしているんですよ。飲んだら一口で身体が温まります」
「もう大佐ったら、アニスちゃんそんな辛いの飲めませんよう!ココアにしてください」
「はいはい」
ジェイドは軽く笑って売店へ向かっていった。
その背中を見送り、彼の意識が自分から逸れるのを確認してから、どっと肩の力を抜く。
「疲れた…」
二人してホテルを出てきたがいいが、元々予想もしていなかったことなので、行きたいところもなければ話すこともない。ひたすら無言で歩き続けるのは精神的にきた。
アニスは足元の雪を蹴り飛ばす。
広場では子ども達が楽しそうに遊んでいた。七歳から十歳くらいだろうか。中にはアニスと同じくらいの子どももいるが、皆悩みなど知らないという顔できゃあきゃあと笑い声を上げている。
雪を駆ける色とりどりのブーツを目で追いながら、アニスはぽつりと呟いた。
「馬鹿じゃないの」
こんなに寒いのにわざわざ冷たい思いをして雪の玉を投げ合うだなんて考えられない。
よく見ると夢中で雪を掴む子どもの指先は濡れ、頬も膝も真っ赤に染まってしまっている。
ぶる、とアニスは肩を抱く。彼らの様子を見ていたら、こちらまで寒くなってきてしまった。小さく鼻を啜る。
すると近くで甘い香りがした。
「あ、大佐!ちゃんとココアにしてくれたんですね。ありがとうございます」
ほんのりと白い湯気の立つカップを受け取り、いそいそと縁に唇をつける。ふう、と息を吹きかけると、香りと一緒に柔らかく湯気が流れていった。
ジェイドもアニスの隣に腰かけてカップを傾ける。中身は恐らくミルク入りのコーヒーだろう。アニスがカップを下ろすと、冷えた空気に乗って独特の匂いが漂ってくる。
まさに大人の男というイメージのジェイドだったが、その味覚は案外幼いらしかった。本人は糖分がどうのと言っているが、好き勝手にパフェを作る姿を見ていると、どうも事実半分誤魔化し半分という気がするのだ。
アニスはそっとココアを啜る。舌の上で転がしてから飲んだのに、焼けるように喉が痛くなった。
「慌てて飲むと熱いですよ」
ジェイドがからかうように笑う。
むう、と唸って、アニスは膝の上でカップを握り締めた。
「そんなにがっついてません!それにココアは熱々のうちにちょっとずつ飲むのがおいしいんです」
「そうでしたか。それは失礼」
人を馬鹿にするような態度に腹が立って、アニスはジェイドから視線を外す。彼は困った子どもだとでも言いたげに肩を竦めた。アニスはむっと唇を尖らせる。
ジェイドのこういうところが嫌いだった。他人に興味がないから気を遣うことを知らない。デリカシーがないのだ。容姿や地位に問題がないのに結婚できないのは、その性格のせいだとアニスは思っている。
ココアを口に運びながら、アニスは足をぶらぶらさせた。
目は絶対にジェイドを視界に入れないように遠くへ向ける。
しかし傍から見れば、それは広場の子ども達を一心に見つめているように受け取られたかもしれない。
「あなたも混ざってきたらどうですか」
「はあ?」
唐突に耳に入った声に、思わず素っ頓狂な反応をしてしまう。
この男は何を言っているのだろうか、と顔を上げかけて我に返った。慌てて言葉を取り繕う。
「またまた、アニスちゃんはそんな子どもじゃないですよう」
カップを揺らさないようにしながら、ぶんぶんと片手を振る。
普通ならここで軽い返しがあるはずなのだが、ジェイドの口は重く閉ざされたままだった。いやに静かな瞳がアニスを見下ろす。
ぎくりと肩が強張った。
視界の下の方で、恐ろしくゆっくりと唇が動く。
「自分がどう思っていようと、十二なんていう年齢は周りから見れば子どもなんですよ」
どうしようもなくね、と虚ろに呟き、ジェイドは広場へ視線を移す。
アニスはどっと息を吐いて胸を押さえた。心臓がとくとく音を立てている。
今の一瞬、ジェイドの持つ頑なな空気が揺らいだような気がした。まるで見てはいけないものを見てしまったかのような、妙な気分の悪さだった。落ち着きなく視線を泳がせる。
長い沈黙に不安が募るが、それもジェイドの次の台詞で綺麗に消え去ってしまった。
「私も、幼い頃はここでよく遊んだものです」
「大佐が?」
アニスは目を丸くする。
不思議な感じだった。この男に子どもの頃があったということ自体信じられないのに、どうしてまともな遊びを想像できるだろうか。頭の中を剛速球を投げるジェイドの姿や、平然と玉に石を仕込むジェイドの姿が駆け巡る。
「言っておきますが、ごく普通のルールでしたからね」
「そうなんですか?」
間髪いれずに返すと、ジェイドが咳払いをした。
「まあいいでしょう。とにかく一番手軽だったのが雪合戦でしたから…というか陛下が好きでやりたがったんですよ」
ああ、とアニスは納得する。
「確かに好きそうですもんね」
「ただ厄介なのがチーム分けで、ネフリーとサフィールを組ませると相手にならない。陛下とサフィールを組ませると仲間割れする。サフィールと私が組むと私の精神衛生上よくない、ということで毎回大騒ぎでした」
「それ思いっきり邪魔者じゃないですか、ディストのやつ…」
押しつけ合われる様子が目に浮かぶようで、敵ながら可哀想になってくる。あの薄幸そうな顔は、ひょっとして悲惨な子ども時代が原因なのではないだろうか。
「正直なところ邪魔だったんですけどね。あれはどこで聞きつけてくるのか、必ず私達の後を追ってきましたから」
「うわ…立派なストーカーですね」
「心底迷惑でした」
きっぱりと言い切るジェイドに、ますますディストのことが思われる。本当にディストはこんな男のどこがよくて後をついていくのだろうか。前々から彼はこの男のことを『かつての友』と表現していたが、当の本人に全くその気はない。せいぜい腐れ縁といったところだろう。
しかし意識はどうあれ、ジェイドとディストがそれなりに幼馴染らしきことをやっていたのは事実のようだ。言葉こそ辛辣だが、その端々からは穏やかな感情が窺える。何より彼がサフィール、とこぼすときは僅かに声が優しくなるのだった。
素直じゃないなあとアニスは思う。ジェイドとディストのどちらとも長く接しているが、その自分から言わせてもらえば、互いにくだらない言い争いをしているときが一番楽しそうなのだ。
「迷惑なのに遊んであげてるんだから、大佐も優しいですよね」
にやにやと見上げると、ジェイドが途轍もなく恐ろしい顔をしていた。
「はう!ごめんなさいごめんなさい、悪気はなかったんですー」
勿論嘘だ。アニスは両手で降参のポーズをしながら、内心でほくそえむ。
この男をからかえる機会などそうあるものではない。普段仮面で隠された感情を引きずり出せたというだけで大収穫だった。
ジェイドはしばらくアニスを観察していたが、やがて溜息を吐いた。
「まさかあなたにまで…」
言いさした残りを飲み込むようにしてコーヒーを含む。
その様子にアニスは勝った、と強く思った。何しろ彼から言葉を奪うのは初めての経験だったのだ。
うきうきとココアに口をつける。話している間に丁度いい温度に冷めていて、それがまたアニスの気分を上向かせた。
勢いのまま最後まで飲み干すと、カップを膝へ下ろす。けれどすぐにじっとしていられなくなって、両方の爪先で雪を踏んだ。ジェイドが目線を上げる。アニスは微笑んだ。内緒話をするようにこっそりと打ち明ける。
「大佐が羨ましいです」
手の中でカップをいじる。
「別に大佐みたいになりたいわけじゃないですけど、隣の花はって言うんですか?」
ジェイドが適当に相槌を打つ。
アニスはくるりと広場を向いた。子ども達は相変わらず楽しそうにはしゃぎ回っている。
「私、羨ましがりなんです」
薄く息を吐き出すと、白い靄が目の前に上った。
小さい頃からずっと自分は不幸だと思っていた。家には借金ばかりだし、親は人に騙されてばかりで、恥ずかしい思いをするのはいつも自分だった。どうしてここまでして頑張らなければならないのだろう。そう、一人で唇を噛んでいた。
けれど今は違う。
気づいたのだ。自分には帰る家があるし、温かな両親もいる。これで十分すぎるほどしあわせなのだ。
金持ちも善人も見えないところでつらい思いをしていると、彼らに出会って知った。きっとこの天才もそうなのだろう。アニスはジェイドに笑いかける。
「帰りましょう。皆ホテルに戻ってる頃ですよ」
ジェイドはじっと黙っていたが、アニスが勝手に歩き始めるのを見てベンチから立ち上がった。
コーヒーを流し込む彼の横でちらりと広場を見やる。ほんの少しだけ、彼らに混じって遊ぶ自分の姿を想像して苦笑した。
きゃあきゃあと声を上げて走る。跳ねる。追いかけ合う。それはとても楽しそうだけど、やっぱり駄目だなとアニスは思った。
「…私には似合わないよ」
ほとんど呼吸のような声だったが、耳聡い彼には聞こえていたのだろう。じりじりと頭の方に視線を感じる。心配されているのか呆れられているのか、それとも別の感情なのか。いくら考えたところでアニスなどに図り知ることはできない。
思い切って振り返ると、ジェイドは微かに驚いた顔をした。
彼がどんなつもりでアニスの誘いにのったのかは分からないが、そのおかげで気分が明るくなったのは事実だった。
「今日は付き合ってくれてありがとうございました」
たあいさ、と甘ったるい声で首を竦める。
ジェイドの反応を見ないまま、早足で広場を抜けた。雪はいつの間にか止んでいる。
「アニス、あまり急ぐと転びますよ」
後ろから聞こえる声に、はあいと素直に返す。
けれど逸る気持ちは治まらなかった。早くホテルに戻って皆に会いたい。特別なことなど何もないが、ただ皆と一緒にいて、話して、笑い合いたい。
それから、とアニスは指を折る。きゅっと握り締めて、祈るように口元に当てた。
それから皆に大好きだよと言って抱きつけたら、自分のことも少しは好きになれるかもしれない。
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