島と船



雑音がびりびりと拡声器を震わせ、船出を伝える声が聞こえた。
浮遊感を持って足場が大きく揺れる。甲高い鳴き声が耳を刺す。港の鳥が一斉に飛び散るのと同時に、船は陸を手放した。
サフィールは風になびく髪を押さえながら、徐々に離れていくホド島を眺める。
夕日に染まった島は、まるで血を被ったかのように真っ赤だった。空も、海も、何もかもが赤い。
研究所の白い壁も同じ色に染まっているのだろうか。サフィールは覚えのある方角に向かって目を凝らしたが、そこには木々が生い茂っているばかりだった。
当然だ。こんな場所から研究所が見えるわけもない。
薄く息を吐き、瞼を伏せる。
馬鹿みたいだ、と思った。今更何を未練がましいことをしているのだろう。自分ごときがどんな感情を抱いていたところで、近い未来あの島は跡形もなく消えてなくなる。
これは既に決まっていることなのだ。泣いても、喚いても、誰を責めても覆ることはない。
サフィールはジェイドの様子を窺う。
船に乗り込んだときから、彼は黙ってホドを見つめ続けていた。
顔には何の表情も浮かんでいない。ただサフィールから覗き見える瞳だけがゆらゆらと揺れている。
あれほどの決定を下しておいて、随分と自信のない目だ。
サフィールは俯き、ぐさりと手のひらに爪を突き立てる。
自分には何故ジェイドが迷っているのか理解ができなかった。
研究がやりたいならやればいい。元々どれだけの犠牲を払っても、この技術は完成させなければならない。そう思って行動してきたのだ。結果を出すためなら、命だって使い捨てにした。
あれが間違っているだなんて、気づいていなかったのはジェイドだけだ。
今まで実験体のことなど気にする様子もなかったというのに、彼は突然変わってしまった。
原因は分かっている。全てあの男が悪いのだ。
いかにも無害そうな笑みを浮かべて、狡猾にジェイドの中に入り込む。あの男がジェイドから研究を手放させるために何をしたのか、考えれば考えるほど腹が立って、その度に涙がこぼれそうになった。
サフィールは奥歯を噛み締め、肺に冷たい空気を流し込む。湿り気を帯びた息はすぐに風に飛ばされていった。何度か繰り返すと、気分が落ち着いていくのを感じる。
感情の抑え方は、最近になってようやく覚えたことだった。
これからはぐずぐずと泣いてばかりもいられない。自分にはやるべきことがあるのだ。
きっ、ときつくホドを睨みつける。
あの島にはまだ多くのフォミクリーのデータが残されていた。表向きは移送が間に合わなかったということになっているが、実際は全てジェイドが仕組んだことだった。彼の思惑通り、音機関も実験データも島一つを道連れにして沈んでいく。
だが、全部が全部その通りにはいかない。
「…ねえ、ジェイド」
握り締めていた拳を開き、サフィールはゆるりとジェイドを振り返った。
彼が髪を耳にかけながら目線をこちらに寄越す。綺麗な赤だ。鮮やかで深い。夕日などよりも彼の瞳の方が余程美しい色をしている。
そう思ったら、自然と口の端が持ち上がった。
「夕日が綺麗ですね」
唐突で不可解な言動に、ジェイドは眉を寄せる。意図を測ろうとしたらしいが、いつまでもくすくすと息をこぼしているサフィールを見て、再び視線を前に戻してしまった。
どうせいつもの戯言だと思ったのだろう。それでいい。彼がそう思ってくれている間は、自分も安心して嘘が吐ける。
潮の香りを大きく吸い込み、サフィールはジェイドを見上げた。
柔らかくはためく髪にも、白い肌にも、突き刺すような橙が染み込んでいる。まるで毒だ。早く静かな雪の中へ連れて帰ってしまいたい。
ばたばたと喧しい波音の間を縫って声を上げる。
「何だか私、久しぶりに外に出た気がします」
一際強い風が吹く。ジェイドはサフィールの視線を避けるようにして眼鏡をいじった。
「お前はずっと研究所の中にいましたからね」
「ええ、明るい光は嫌いです」
ジェイドは何も言わなかった。返答に困っているのかもしれないと思うと、少し面白かった。
後ろで手を組み、ぐっと胸を反らせて空を仰ぐ。
「こうして船に乗るのも、初めてホドへ行ったとき以来かもしれませんね」
隣で、びくりとジェイドの肩が跳ねるのを感じた。
サフィールはそれを視界の端に収めてから、何も知らない顔をして微笑みかける。
「懐かしいですね」
我に返ったジェイドが曖昧に返事をして指を握る。サフィールは薄い笑みのまま、そのぎこちない動きを観察していた。
今のジェイドは自分自身のことに精一杯だ。周りを見る余裕もなければ、一つのものに対する注意力もない。
だから気づかないのだ。あの島と共に処分されるはずだった重要なデータのいくつかは、サフィールの手の中にある。まさに今この船で、外へ運び出されようとしている。
深夜こっそりと複製作業をするときはいつ見つかるかと冷や冷やしたものだが、結局何ごともなく成功してしまった。
いくら責任者に近い立場にいるとはいえ、機密を持ち出して無事に済むとは思っていない。もう後戻りはできないし、するつもりもなかった。
ホド島が崩落するとき、サフィールはありったけのフォミクリーのデータを持って亡命する。
(今気づいたら止められるかもしれないのに…)
計画がばれては困るのだが、その反面、心のどこかでジェイドに気づいてほしいと思っている自分もいた。
研究の放棄が発表されていないこの段階なら、彼さえ見逃してくれれば罪に問われることもない。
でも、とサフィールは顔を翳らせる。
そうしてここに残ったところで、彼はあの男の元へ行ってしまうのだ。どのみち自分はジェイドの側にはいられない。分かっている。だからこそ決心したというのに、本当に未練がましくて嫌になる。
ふらりと水平線を一瞥すると、島の頭が海の向こう側へ消えようとしているところだった。
いつの間にそんなに離れていたのだろう。ふと見れば空の端も黒い。音もなく夜が迫ってきていた。
サフィールは、そっとジェイドの腕を掴む。
「中に入りましょう。じきに日が沈みますよ」
辺りに人影はなかった。
こんな寒いところにいつまでも突っ立っているだなんて、余程の感傷のある人間しかしない。他の所員は帝都に行けばまた研究が始められると思っているのだ。何も知らないのは可哀想だと思うが、その方が幸せなのかもしれなかった。少なくとも彼らには、こうして気が狂いそうなほど悩む必要はないのだから。
ジェイドはじっと海の向こうを眺め続けている。
サフィールは掴んでいた服を離し、恐る恐る彼の手を握った。冷たい温度を馴染ませるように指を絡める。それでも彼は動こうとはしなかった。
何を見ているのですか、と唇で囁く。眉を寄せ、サフィールはゆっくりと彼の腕に寄りかかった。
人に見つかる可能性もあったが、それも覚悟の上だった。ジェイドが嫌だと思うのなら振り払ってくれればいいし、構わないと思うのならこのままでいたかった。
子どものように息を吐き出し、頬をすり寄せる。
これが最後だ。
もうジェイドに触れるのも、ジェイドの隣に立つのも、この船を降りたら終わりにする。だから今だけは、少しでも長く彼の存在を感じていたかった。
「ジェイド…」
「何ですか」
甘えるような声を出しても、ジェイドは怒らない。
そのあからさまな優しさが怖かった。そんなものいらないから、ずっと側にいてほしかった。
「ううん、何でもない」
ぎゅうと彼の服を掴み、顔を埋める。
何でもないことなんてない。言いたいことは山ほどあった。口から溢れ出しそうになるのを抑えるのに必死なくらいなのに、そのどれ一つとして彼に伝えることはできない。苦しくてたまらなかった。
サフィールはそろそろとジェイドを見上げる。
(ねえジェイド、聞いてよ。僕達もうすぐさよならなんだよ)
胸の中で呟く。彼は遠くを見つめたまま、こちらに視線をくれる気配もなかった。
喉が熱くなって、その場に崩れ落ちそうになる。
できることなら泣いて叫んで、無理やりにでもジェイドの目を奪ってしまいたかった。

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