あの花の下



3.
それで、本当にやるつもりなのだろうか。
やんわりと肩を地面に押さえつけられながら、ジェイドは思う。
圧し掛かってくる相手に戸惑う様子はなく、それが自分から正常な判断を奪っているのが分かった。
黙って押し倒されている場合ではない。今すぐにでもふざけるなと言って跳ね除けなければならない。いや、それでは駄目だ。今更動いたところで遅すぎるのだ。本当なら彼の纏う空気が変わった時点で、何かしらの対応をしていなければならなかった。
ジェイドは目を細め、きらきらと光る銀髪の隙間から空を見上げた。
午後の日差しはまどろみそうなほどに暖かい。薔薇の香りが甘く漂う。
庭を覆いつくすように広がる淡い花は、男の趣味で植えられたものだった。
初めは裏庭の隅でひっそりと佇んでいただけだったのに、ジェイドが気づいたときには既に他の花の居場所を奪うまでに枝を伸ばしてしまっていた。
幾重にも絡まり合った茨が柵のように庭を走り、高い壁を作っている。立ち上がれば頭くらいは見えるが、座り込んでしまえばこちらからも外からもその姿は確認できない。そんな場所で、自分は男ともつれていた。
ディストの方は、どうやら完全にやる気になっているようだった。
すっと薄暗くなった視界に目を閉じ、舌を受け入れる。距離が近くなったせいで彼のつけている香水まで匂ってきて酔いそうになった。く、と喉の辺りが詰まる。
身体を押し返そうとしてシャツを掴むと、すぐにその手を地面に縫いつけられた。湿った土の感覚に、そういえば水を撒いたばかりだったと思い出す。背中がひやりと冷たい。唇を舐め離れていく舌を黙って睨み返した。
赤紫色の瞳の奥が鈍く光っている。
ディストは普段の淡白な様子ともふざけた様子とも違い、ただ静かに欲情していた。ジェイドは鋭く息をのむ。何が切欠でスイッチが入ってしまったのかは知らないが、こうなってしまった彼はジェイドにも手がつけられなかった。
とは言え、気絶させるなりすることは簡単だ。いくら不利な体勢に追い込まれていたとしても、軍人の自分が家に引きこもってばかりいるひ弱な男に素手で負けるわけがない。だがそれには一つ問題があった。
ジェイドはじっとディストを見返す。心成し荒い呼吸を繰り返しながら、彼は真っ直ぐにジェイドを見つめていた。その目に迷いはない。おどおどとこちらの意思を推し量ることもなく、自身の勝手な欲求をありのままにぶつけてくる。
ぞくりと背筋が震えるのが分かった。
ジェイドは唇を緩ませ、地面に繋がれた指先で彼の手の甲に触れる。途端ディストが確認するように強く握り返し、首筋に顔を埋めてきた。しっとりと濡れた温度に肩が強張る。乱暴に剥ぎ取られていく服を一瞬心配するも、どうせ既に土塗れなのだから使いものにはならないかと頭の隅で思った。
空いている右手を薄い肩に回し、ジェイドは空を見た。
蕩けるような空だ。鳥が一羽、茨の柵の上を飛んでいった。




2.
ジェイドはバスタブにもたれかかったまま、ぐったりと息を吐く。
とにかく身体がだるくて仕方がなかった。久しぶりに取れた休みだったせいか、今日はやけにしつこかったように思う。人の名前を何度も呼び続ける熱っぽい声が、まだ耳に残っている。
至るところにつけられた痕には怒る気も失せていた。どうせ軍服を着れば分からないのだから、さほど問題ではない。後で存分に報復してやればいいだろう。今は対象が目の前にいても、文句を言うのも億劫だった。
ディストが狭いバスタブの中で体勢を変える。足を蹴られたので睨みつけると、彼は申し訳なさそうにもぞもぞと動いた。
ジェイドは眉間の皺を深くし、大げさに溜息を吐き出した。
もう何でもいいから早く出て行ってくれないだろうか。そのまま意識を失いそうになった自分をここまで引きずってきたことには感謝するが、当然のように湯に入ってきたのには腹が立つ。何が楽しくて大の大人が仲良く風呂に入らなければならないというのか。
ずるずると腰を沈めバスタブの縁に耳をつけると、薔薇の香りが近くなった。向かいに座っている馬鹿が湯にばら撒いた入浴剤だ。重く漂う匂いを吸い込みながら、ジェイドは瞼を伏せた。
腰がじくじくと痛む。肌もまだ神経が過敏になっていて気持ちが悪いし、落ち着かない。
一体何故自分がこんな目に合わなければならないのだろうか。
そもそも何故、自分は毎度彼に身体を預けてしまうのだろう。
ぱしゃんと湯が跳ねる音がして、ジェイドは瞳だけそちらに向けた。
いつの間にか近づいてきていた白い指が頬に触れ、張りついていた髪を横へ流していく。されるがままになっていると指は肌を伝って下り、首の付け根の辺りで止まった。ざら、と長い爪に撫でられる。
「赤、似合いますね」
何のことかと首を傾げたが、すぐに最中につけられた痕の存在を思い出した。
「つけるな、といつも言っているはずですが」
久々に出した声は掠れていた。喉を鳴らすのと同時に、はっとしたディストがすみませんと呟く。思わず殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
「でも、分かるでしょう?」
弁解するように、彼は必死に言葉を重ねる。
添えられた手に首を圧迫されてジェイドは眉を顰めた。
「…好きなんです」
消え入りそうな声が浴室に響くのを、無感動に聞いた。
ディストは涙こそ浮かべてはいないものの、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
ひょっとすると彼なりに罪悪感でも覚えているのかもしれない。それなら少しは自制したらいいのにとジェイドは身体の傷を一瞥した。
初めは壊れものでも扱うかのように触れてくるくせに、一度踏み外すと歯止めが利かなくなるらしい。鬱血切り傷引っかき傷と、白い肌には目立つ痕がところ構わず残された。いつかエスカレートして刃物を持ち出してきたとしても、自分は少しも驚かないだろう。
本当にどうしてこんな男にとジェイドは心底不思議に思う。
彼に抱かれ、彼の温度を許す度に幼い頃の自分達の関係を思い返し、どこで間違ってしまったのかと考える。けれどいくら頭を悩ませても答えは出なかった。何故なら彼の独占欲は、昔から少しも変わっていないのだ。
変わったと言うのなら、それはむしろ自分の方なのだろう。
「好き、ね」
びくりと不安げに肩を揺らしたディストが馬鹿馬鹿しくて、つい笑みをこぼしそうになってしまう。
そのはずだったのに、顔の筋肉が引きつって妙に深刻な表情にしかならなかった。




1.
「ジェイド、起きてください。いつまで寝ているんですか」
肩を揺さぶられ、ジェイドは目を擦った。シーツに差し込む光が明るい。もう朝になったのか。
だらだらと寝返りと打つと、窓際に立つサフィールの姿が目に入った。
「朝食はどうしますか?簡単なものでよければ用意しますが」
白いシャツを身にまとったサフィールは、こちらに背を向けたまま何か作業をしていた。
不審に思って目を凝らす。窓辺にあるのはカーテンくらいのものだが、それを纏めているわけでもない。
「…何をしているんですか」
声をかけると、サフィールはぱっと顔を輝かせて振り返った。
「見てください!綺麗でしょう」
彼の手の先にあったのは見覚えのない花瓶と、そこに生けられた二、三本の薔薇の花だった。
一体いつの間に持ち込んだのだ。そう記憶を探ると、確かに彼は昨夜普段の鞄とは別に大きめの紙袋を持っていた。大事そうにしていたから研究資料だと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
それは別にいいとして、彼の行動にはどう反応したものか。
言いたいことは山ほどある。しかし寝起きだからか上手く頭が回らなかった。苛々と髪をかき上げる。
しばらくしてジェイドは考えることをやめ、得意げに微笑むサフィールに視線を移した。
「ここは私の部屋なんですが」
とりあえず刺を含ませてみたが、彼は全く気にしない様子で花の向きをいじり続けていた。
「知っていますよ。これはジェイドのところに飾ろうと思って買ってきたんです」
鼻歌でも歌いだしそうな様子に、きりきりと頭が痛むのを感じた。
お前は年頃の娘か。気色悪い。そう吐き捨ててやりたかったが、口に出せばきっと馬鹿にしているんですかとか何とか騒ぎ出すに決まっている。朝から喧しい声に煩わされるのも嫌だったので、この場は溜息一つで収めておくことにした。
「そんな暇があるならさっさと設計図を仕上げてください。後がつかえているんですよ」
折角研究所にあれだけの人数を揃えても、元になる設計図がなければ作業も進まない。この男は自分の立場を分かっているのだろうか。
「それなら心配いりません。頼まれていたものでしたらもう少しで終わりますよ。あとは書き起こすだけですから」
「…そうですか」
ジェイドは呟き、ベッドに耳を埋めながらサフィールの手元を眺めた。
赤い花に触れる彼は音機関と向かい合っているときと同じくらい楽しそうだった。いつか薔薇園でも作らせたら、さぞ立派なものができあがることだろう。興味のあることに対しては、彼は恐ろしいほど誠実だ。
だがジェイドは違う。
「私は花の世話なんてしませんよ」
役に立たないものに無駄な時間は割かない。サフィールもそれを分かっているはずなのに、何か期待でもしているのだろうか。
ジェイドは小さく欠伸をして目を閉じる。
少し眠り足りなかった。部屋を出るまでにはまだ余裕がある。もう少しだけ、と思考を閉じていくとすぐに目の前が真っ暗になった。次第に重くなる身体に、ぽつりとサフィールの声が響く。
「手をかけてほしいとは思いません。置いていてくれるだけでいいんです。枯れたら、そのときはあなたの手で捨ててくださいね」
のろのろと瞼を押し上げる。
サフィールは綺麗に微笑んでいた。光が目に刺さる。カーテンがやわらかく揺れる。白い背中だ。
ジェイドは再び視界を閉ざした。
瞼の裏には、毒々しい赤を愛でる指が焼きついていた。

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