本当にうんざりした。どいつもこいつも何を好きこのんでこんな化け物の真似をしたがるのだろう。
人に生まれたなら、人でいればいい。わざわざ身体に手を加えたりしなくとも十分しあわせに生きていけるのだから。むしろそのままでいた方が余程有意義な一生を送れるに違いない。
まだ年若いこの青年は、国というものに夢を見ているのだ。
ジェイドは軍人を否定するつもりはない。軍人として功績を残すことに全く意味がないとも思わない。
ただ、青年はそれがどういうことなのかが理解できていなかった。どれだけ名を上げようが讃えられようが勲章を賜ろうが、結局は皆同じ。人殺しだ。仮に赤い瞳を手に入れられたとして、その先には血の海しか待っていないというのに。
あああああと喉が擦り切れるほどの悲鳴を上げながら、青年は地面に額をつけるようにして蹲っている。耳を塞ぎたくなる絶叫。ジェイドは手を動かす代わりに眉間に皺を寄せた。
軍本部に寄るためグランコクマに来てみれば、やれ爆発に巻き込まれるだの人が光ってるだので、市内は逃げ惑う人々でひどい騒ぎになっていた。一体何が起こったのか、そう思って駆けつけたジェイド達の目に映ったのが、このカシムの姿だった。
音素の乱れのせいか、空気が淀んでいる。息ができない。気分が悪い。胸の中をどろどろと何かが渦巻く。眼球が膿むように痛む。
広場のど真ん中で蹲る彼は今、この何万倍もの痛みを味わっているのだろう。
自業自得だ。と、きつく拳を握り締める。だから素養のない人間には無理だと言ったのに、ろくに音素も扱えないくせにこんな危険なことに手を出して。それもこんな人の多い場所で。
苦しむ青年を前にして、止めようと思うよりまずそんなことを考えてしまうのは、恐らくこの状況に覚えがあるからだろうと思う。
幼い頃の記憶がふつりと浮かんでは沈んでいく。
「…どうせやるなら、せめて他人に迷惑がかからないところでやればいいのに」
「大佐!あなた何を仰いますの!」
「そうです!いくらなんでも…いえ、今はそんなことを言っている場合ではありません。早く彼を何とかしないと!」
切羽詰まった様子で、二人はジェイドを責め立てる。
すぐ近くいるナタリアを無視して逆方向に視線をやると、ティアは既に赤い珠のはめこまれた杖を手にしていた。さすが軍人だ。感心しつつも、ジェイドは無表情に青年へと意識を戻した。
秒毎に着々と進む音素の乖離によって、青年の姿は光に埋もれようとしている。顔を覆う前髪と指の隙間から、ギラギラと真っ赤に染まった瞳が垣間見えた。びっしりと複雑な文様が刻まれた虹彩へ、大量の音素が流れ込んでいる。どうやら譜眼自体は成功したようだった。だが、それを扱う人間の方に問題があったのでは意味がない。
そうこうしているうちに、声に血の音が混ざり始め、目を焼く白色が一層強くなった。もう限界が迫っている。
「カシムはどうでもいいんですが、まあ、民間人が犠牲になるのはいただけませんよねえ」
さすがにこれ以上は放っておけないだろう。足を一歩踏み出すと、すかさずルークも足を出してきた。
「何です、手伝ってくださるんですか?」
相手にするつもりはなかったのだが、一瞥したときやけに真剣な顔をしていたので、思わず立ち止まってしまった。
左側にルークの気配を感じながら、ジェイドは青年の譜眼が暴走するまでの時間を弾き出す。阻止するには余裕があるが、それでも時間でいえば十分ともたないだろう。
脳内でこれからの全ての行動を、ざっとシュミレートする。その中にはルークの次の言葉も含まれていた。
「どうすればいいんだ?」
予想通りの台詞に、ジェイドは淡々と返す。
「始末すればいいんですよ。一番簡単で手っ取り早い方法です。被害も最小限で済みますからね」
その途端、ルークの顔が引きつったまま固まった。ティアを除いた周りの子ども達の気配も一緒にざわつく。
「そ、それはなりません!カシムも民も助けるのです!」
気丈な声だが、やはり言葉の端が震えている。
「あなた達、何故黙っているのです!」
青白い顔で蜂蜜色の髪をばらけさせ、後ろを振り返るナタリア。
アニスもガイも、さっと視線を逸らす。純粋で真っ直ぐな少女はそれにショックを受けたようで、口元に指を当て顔を一層青くさせた。端ではティアが杖を構え、凛と立っている。ルークは拳を握り締めて俯いてしまった。
広場にはもう自分達しかない。気が狂いそうな叫び声だけが上がっていた。
ジェイドは緩々と息を吐き出すと再び足を踏み出す。これならもう誰も何も言わないだろう、そう思っていた。
「…だめだ」
「ルーク」
ナタリアがほっとしたように眉尻を下げる。ジェイドは困ったように、ナタリアと同じ仕草をした。
「邪魔しないでくれませんか。時間がないんです」
「でも殺すのは駄目だ」
「駄目…と言われましても」
槍を出すために浮かせた掌が、中途半端なところをさまよう。ルークの声は固い。適当なことを言えば余計に機嫌を損ねてしまうのは明らかだった。旋毛を見つめながらどう宥めようかと考えていると突然、ぎっと強く睨みつけられる。
その翡翠色の奥の方。濃く揺れた色に、ふいに海色が重なった。
気づいた瞬間、射抜かれる。
「駄目だ!他にもあるだろ、方法が!俺には分からないけど、でも、簡単じゃない方法ならあるんだろ!」
どくん、と心臓が大きく脈動した。鋭く息をのむ。
ルークは、と思いかけて首を振る。違う、ルークではない。これほどの強い色がこの子どものものであるとは思えなかった。しかし、ふっくらとした頬に柔らかな赤毛。どう見てもルークでしかありえない。だというのに自分は一体今何を考えて。
また瞳が揺れる。今度ははっきりとした海色をしていた。
「殺さなくていいなら殺したくない!」
鼓膜を貫く悲痛な叫びが、ぶるりと響いて消えた。
血の臭いを撒き散らしながら、ジェイドは一人執務室を目指し軍本部の廊下を歩いていた。
あの後、ことの成り行きを見守っていたティアに譜歌で青年の音素の暴走を止めてもらい、その間に譜眼の処置を強引に削り取った。結果カシムは失明。傷はティアが癒したものの、削り取ってしまったものまでは回復しない。死ななかったのは本当に偶然だった。譜陣の刻まれた眼球はそれほど危険なものなのだ。
下手をすれば、あの広場ごと消し炭になっていた可能性もあった。もしそれが現実のものとなっていたら、きっとこの中にいる人物はおもしろいほどあっさりと自分を見限るのだろう。
執務室のドアの前でジェイドは一度立ち止まる。
控えていた兵が事情を説明しようとするのを制し、ゆっくりと息を吐いた。このタイミングでの来客となれば、聞かずとも誰かは分かる。
案の定、ドアを開けるなり低い声が響いてきた。
「よおジェイド。聞いたぞ」
ピオニーはいつもの乱雑としたスペースではなく、ソファに腰かけていた。凍りついたような、指一本動かせない空気が部屋を支配している。無意識に一瞬だけ息を止める。
こちらに背を向けながら殺気にも似た気迫を放つ彼は、悠然と身体を捻り振り返った。
「やってくれたらしいじゃねぇか。…お前の弟子」
口元は猫のように歪んでいた。ソファの背に両腕をかけて顎を乗せ、しかし、射抜く瞳は厳しくジェイドを糾弾している。かけられた言葉も、文字にすれば軽々しさはあるが、その中に込められた怒りは尋常ではなかった。並大抵の者では、この場に立っていることも耐えられないだろう。事実ジェイドですら、僅かといえど気圧されているのだから。
ジェイドは血の染み込んだグローブごと指先を握り込むと、ピオニーを見つめたまま瞼を伏せた。そして薄く息を吸う。
「申し訳ありません。私の責任です」
髪が肩から滑り落ち、視界を暗くした。
恐らく今回のことで、ジェイドが罪に問われることはないだろう。むしろジェイドがあの場にいたことによって、譜眼の暴走は止められたと言ってもいい。
だが、ピオニーはジェイドを責める。あの騒ぎは、ジェイドであれば事前に防げたはずだったのだ。前にカシムに声をかけられた、あのとき。走り去ってしまった彼を追いかけてでも譜眼について正確に説明していれば、彼もあんな無謀なことには手を出さなかったかもしれない。
ピオニーもジェイドにまとわりつくカシムの存在を知っていた。ジェイドが今回のカシムの行動を、可能性の一つとして予測していながら放置していたことにも、大方気づいているのだろう。
ジェイドはひっそりと唇を噛んだ。
重い溜息が空気を乱した。続けて布ずれの音がする。
「…分かってるならいい」
ぐったりとした疲れたような声だった。
「もういい、顔を上げろ。ジェイド」
強く命じられ、仕方なく言われた通りにする。その先でピオニーはこちらに背を向け、ソファに横たわるようにして肘掛けに頬杖をついていた。
ジェイドは何も言わずその場から一歩も動かなかった。じっと視線を送る。ピオニーも動かない。
やがて血の臭いが部屋に充満し始めた頃、緩慢に金髪が動き、瞳だけが振り向いた。
「民間人に被害が及ばなかったのは不幸中の幸い…か。奴は今取調べ中だな。生活に支障は?」
「…失明したわけですからしばらくは不便でしょうね。全て終わったら、彼は家で引き取ります」
「ああ、それも聞いた」
随分と耳が早い。ソファに近づくと、ピオニーは苦虫を噛み潰したような顔で僅かに俯いた。
それを見て、すでに宮殿内でこのことが噂になっていると知る。どうせひどい嫌味つきで触れ回っている人間がいるのだろう。
「お前の家で預かるのなら、一応は安心だな。…しかし、ジェイド」
何ですか、と意識を向ける。
頬杖を外すピオニーの調子は、いつの間にか普段通りに戻っていた。分かってるなら、という先ほどの言葉はどうやら本心だったらしい。
ピオニーはぐるりと身体を反転させ肘掛けから頭を放り出すと、仰向けにジェイドを見つめる。透明で深い瞳。
「お前、よく殺さなかったな」
ピオニーはゆったりと笑んだ。親が子どもに見せるような、その嬉しそうな様子に胸が痛み、ジェイドは視線を落とした。
「すみません」
海色の目が訝しげに歪められる。ジェイドは先ほどの光景を思い返す。
「あなたが思っているのとは違うんです。私は殺さなかったのではなく、殺せなかった。…ルークに言われたんですよ」
「ルークに?」
ピオニーが不思議そうに上半身を起こす。そうしてついさっき振り返ったときと同じ体勢になった彼に、ジェイドは広場で起こったことを簡潔に説明した。
「へぇ、ルークがそんなことをねぇ」
大きく目を見張った後、ピオニーは何度も頷いた。
「私も驚きました。まさかルークが…」
「俺と同じことを言うなんて、か?」
「ええ」
ジェイドは口元を覆おうとしてグローブの状態を思い出し、代わりに眼鏡の位置を直した。
思い出すのは、まだピオニーが即位する前のできごとだった。あれからもう十数年も経ったが、今思い出すだけでもぞっとする。一歩間違えていれば失われていただろう命。
危うく殺されかけたというのに。
「あなたもルークも甘いんですよ」
ピオニーは頬杖をつき、静かにジェイドを見据える。
「まあ、否定はしないがな。それでも俺は人が死ぬのは嫌だ」
「知ってますよ」
思えば昔からずっとそうだった。いよいよ他に打つ手がなくなるその瞬間まで、みっともなくピオニーはもがき続ける。
ジェイドが、それを馬鹿だと思うのは幼い頃から変わらない。ただ、ピオニーの方が正しいのだということは成長するにつれ理解できるようになっていた。
人が人としてあるべき、手本のような人間。この男にはやましいところなど何一つないのだ。
仮に、もし死霊使いを手篭めにしている事実を責められたとしても、この男はそれをもみ消すようなことはしないのだろう。逆に堂々と胸を張り、関係の一切を肯定するのではないだろうか。
決して開き直っているのではない。常に自らの言動全てに責任と覚悟を負っている、ピオニーはそういう人間だった。だからこそ民も彼を信頼して従っているのだ。
そして自分も。
「……ところで陛下、何してるんですか」
さらさらと髪を掬う褐色の手に、ジェイドは目を細める。
「うん?いや、な」
「はっきりしませんね」
ピオニーはだらしない笑みでジェイドを見上げてきた。
思わず眉を顰めた。つい数十分前までその威圧感でもって部屋を凍りつかせていたというのに、この落差は何なのだろうか。
ピオニーの手はそのまま前に垂れている髪を肩の後ろへ流していく。無骨な手に似合わない優しい仕草に溜息を吐いた。何だかすっかり抵抗する気も失せてしまった。
「お前がそんな昔のことまで覚えているなんて、俺も愛されてると思ってさ」
「馬鹿言わないでください。気色悪い」
「ひでぇ」
「自惚れもいいところですよ。それに私の記憶力が人一倍優れているのは、陛下もよくご存知でしょう」
「嫌味な奴」
「今更何を。大体陛下は」
更に続けようとした悪態は、唇に遮られて途切れた。
触れるだけのそれから解放されても、首の後ろに回された手が逃れることを許さなかった。至近距離で覗き込んでくる視線から目を逸らすと、再び唇が押し当てられる。
「陛下、今は駄目です。生憎と外で子ども達が待っているんですよ」
そっと告げる。すると温かな手は名残惜しそうに髪を一撫でして離れていった。触れられていたところにじわりと熱が残る。
ピオニーは組んだ腕に顎を乗せ、柔らかく笑った。
「子ども達、ね。お前も丸くなったよな」
「そうですかー?」
「茶化すな。俺は嬉しいんだ」
そうやって真っ直ぐに気持ちを表現してくるのは、嫌いではない。どう返したらいいのか未だによく分からないから、そこは少し困るのだけれど。
見上げてくる瞳は、そういえばいつもこちらを向いていたような気がする。
「あいつらの側にいれば、お前もきっと変われるんだろうなあ」
陽だまりのような笑みが浮かぶ。
呟かれた言葉に、何故か胸が締めつけられるような気がした。
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