ジェイドは息を吐いた。
水の音がうるさい。そこかしこで流れ落ちる水がジェイドの思考を占領していく。重く、騒がしく跳ねる音。
この街はとても綺麗だが、やはり水は凶器だ。気持ちが悪い。
溶けない雪の街で幼少期を過ごしたジェイドは、この圧倒的な質量にいつまでも慣れることができないでいた。
あの極寒の地に生まれた人間は、ほとんど水と関わりを持たずに一生を終えていく。ケテルブルクから出るか漁師になるかでもしなければ、海に入る機会もなかった。
海は危険だから近寄るな、それが街のどの家庭にも共通する教えだった。もちろんジェイドも例外ではない。彼は軍に入って初めて泳ぎを知った。持ち前の学習能力の高さで、それを周囲に悟らせることなく最低限のことは習得してしまえたのだが。
しかし、どうしても水には慣れない。苦手だ。
全身を圧迫する息苦しさ。意志とは関係なく身体が運ばれてゆく感覚。人は海から生まれたというが、それならどうしてここまで不快に感じるのだろう。生まれる場所が海なら、死んでゆく場所も海ということなのだろうか。
そこまで考えて、ジェイドは馬鹿馬鹿しいと首を振った。こんなことはどうだっていいことだった。
だが考えを止めた途端に薄れかけていた水の音がよみがえってしまい、思わず唸る。
「おいジェイド、どうした」
気づけば青い瞳が覗き込んできている。
海を切り取ったような色。
ジェイドはこの目も苦手だった。きっとどれだけ経とうと、慣れることなどないのだろうと思う。
手に持ったままだったカップを置き、ジェイドは苦笑してみせる。
「ええ、ちょっと頭痛が…」
手を伸ばそうとするピオニーを軽く制す。そうして深い溜息を吐くと、少しだけ気分が楽になった。
「最近はすっかり治まったと思っていたのですがねえ」
「例の偏頭痛か」
「多分そうですね」
グランコクマへ来た頃は毎日のように頭痛に襲われていた。キリキリとこめかみが引きつるような痛み。医者にかかったわけでもないのではっきりとしたことは分からないが、恐らく原因は水だろうと思う。この街に来て始まった頭痛なのだからそう考えるのが自然だろう。
「そんな顔なさらなくとも平気ですよ」
深刻な様子のピオニーに、ジェイドは笑った。
そこまで酷い痛みでもないのだから、心配されると逆に困る。そう告げると彼は口を尖らせた。
「だがお前は放っとくとすぐに無茶をするからなあ」
「ですから…無茶も何も、私は平気だと言っているでしょう」
「そうかぁ?」
まだ何か言いたそうな男を無視して、ジェイドは残った紅茶を飲み干す。ざらりと溶け切れなかった砂糖だけがカップの底に残った。
初めて彼に会ったとき、珍しい褐色の肌よりも眩しいくらいの金髪よりも、海の色をした瞳が印象的だった。ジェイドは本物の海を知らない。だから誰かがその色を海と表現していたのを聞いて、そういうものなのかと思ったのを覚えている。そして実際ケテルブルクを出て自らの目で海を見たときも、確かにその通りだと思った。
その、海が迫ってくる。
「陛下…」
唇の端に生温かいものが触れる。
ジェイドがしたように、ピオニーもジェイドの抗議を無視する。
「やめてくださ」
最後まで言わせてもらえない。啄ばむようなそれは、やがて粘膜を侵すものへと変わっていった。ぬめりとしたものが押し寄せてくる。息苦しい。苦しくてたまらないのに、一向に解放される気配がない。
水の音がよみがえる。すぐ側で聞こえる不快な音。
呼吸器官を塞がれて、徐々に訪れる死の気配を脳が敏感に感じ取る。反射的に指が折れ曲がっていくのが分かった。手の中にある肩は固くて丸い、熱い。そう思ったらずるりと布の感触がずれて、指は温度のないそれを握り締める。本能のまま強く引くと、右手を包み込むように掴まれた。閉じてしまったのを押し広げるようにして指が絡まり、手の甲は柔らかなベッドに埋められる。
全身が酸素を求めていた。
しかし気づいたら一線を越えてしまっていた身体は、そこから徐々にもがくことを止めていく。そうなれば後は快楽を拾うだけだった。ゆったりとした心地よさが苦痛を塗り替え、段々と自分の境界線が曖昧になっていく。ひょっとしたらこのまま溶けてしまうのかもしれない。
だが完全にそうなってしまう前に、波は呆気なく引いた。
は、と息を吸う。急に与えられた酸素のせいで忙しなく上下する肺。みっともなく咳き込みながら、ジェイドは弱々しくピオニーを睨みつける。
すると何を思ったのか、ピオニーはぎゅうと眉を寄せると、片手を軍服の襟の中へ滑り込ませながらもう片方の手で器用に前を肌蹴させ始めた。冷えた外気に触れ、肌があわ立つ。それに気づいたらしいピオニーが温めるように身体へ触れてくる。中途半端な体温に余計に身体の震えが止まらず、思わず瞼を閉じた。
そこへ強い視線を感じる。自ら視覚を閉ざしてしまったのは失敗だったかもしれないと思ったが、もう遅い。
大きな掌が首の後ろへ回され、ぞくぞくと何かが背筋を駆け上がるのを感じた。駄目だ、と首を振る。身体は熱いのに異様に頭の中が冷えていて気持ちが悪い。重い腕を動かし訴える、けれどいつだって意志は置き去りにされて、この身体は外側から侵食するように墜落させられていく。
「ジェイド」
上手く反応できずに呼吸を繰り返す、そのうちに首の下の手が僅かに動いた。
きもちわるい。
指が下の衣服を割って太腿にまとわりつく。ぎりぎりのラインをなぞられて無意識に膝が跳ねた。
顔が赤くなる前に中心を握り込まれ、漏れそうになった声を必死で噛み殺す。しかしそれが不満だったのか、骨張った指はジェイドを乱そうといつも以上にいやらしく動き始める。嫌だと首を振った拍子に髪が喉に張りつき、それを近くから動いてきた手が荒っぽく払い除け、空いたところを舌が舐めあげる。身体の芯が浮くように震えた。できるだけ静かに終わらせたいと思っていたのだが、これでは無理だ。この男は人の弱いところを知り尽くしている。
そうしている間にも、下の方も本格的に追い詰められてしまう。
「や、へいか、やめてください」
「…今更止めろと言われてもなあ」
腰に高まりが当たる。
至近距離から恨みを込めた視線を向けると、ピオニーは困ったように息を吐いた。その息も熱を帯びている。
「今止めると辛いんじゃないか」
勝手にここまで進めておいて、この口は。
親切ぶった表情に苛立ち、言葉に棘が混ざる。
「全然、つらくなんてありません」
海色が瞬いて、それから笑った。悲しいことに、いくら主張したところで張り詰めた自身は褐色の手の中にある。
「…っ、いた」
「我慢しろ」
「いやです。むりです。きもちわるい」
何度経験しても慣れない圧迫感。元々こういうことをするための器官ではないのだから当然だ。
額をシーツに押しつけながらひたすら耐える。普段絶対に触れることのない箇所を執拗に擦られる気味の悪さに、生理的な涙が止まらない。それでも体温は確実に上がっていく。下半身は既にべとべとで、一度抜かれておきながらまた頭をもたげている箇所からは体液が漏れる。時折それを伸ばすように撫でてゆく手が憎くてたまらない。
もう声を殺すのはとっくに止めていた。紛れもない中年男の声で、これから押し入ってくるだろうものも萎えてしまえばいいのだ。
ぐちゃぐちゃと指が動く。増える。広がる。
本当に吐きそうだ。息を詰めていると先ほどのあの感覚が襲いかかってくる。
「ジェイド、もう平気か」
上擦った声。何故こんなにも余裕のない声を出すのだろう。苦しいのはこちらの方だというのに。
「だめです」
八つ当たりのように言うと指の動きが一層めちゃくちゃになった。堪らず高い声を上げるとびくりと内部で指が止まり、また動き出す。断続的に喘ぎながらジェイドは目の前のシーツに顔を擦りつける。人を煽るそれとは対照的に、心の中は呪詛の言葉で溢れかえっていた。
優しいこの男にこんなことを思うのは無意味かもしれないが、どうせやるなら意識がなくなるほど強くさらってほしい。
幾度も抜き差しされた指は最後に一度内側をかき回すと、すうと離れていく。追いかけるように内壁がひくついてしまったのは自分のせいではない。
「…いれるぞ」
抗議する間もなく腰を抱え込まれ入り口に熱いものが触れて、慌ててシーツを握り長く息を吐き出した。
この瞬間がたまらなく嫌だ。
見計らったかのようなタイミングで先端が割り込んできて、身体の奥深くまで埋まっていく。
気が狂いそうな熱さ、圧倒的な質量、止まる呼吸。
だらしなく開いた口から唾液が漏れてシーツを濡らす。拭うことはできなかった。少しでも動いてしまわないように、体勢を保つことに全神経を使っていた。しかしそんな意思を知ってか知らずか、中に入ったものは落ち着くどころか更に大きさを増してジェイドを苦しめる。
「ジェイド、動くぞ」
浅い呼吸と腰を掴み直す気配に首を振るが、向こうも限界らしい。ずるずると引き抜かれていくのに合わせて、身体の力が抜ける。白く染まる思考の中でなんとか震える手を引き寄せ額を支えた。
直後激しく打つ水音。ああ、ああ、とはしたなく喘ぐ。
もう気持ち悪いのか気持ちいいのかも分からない。ただ押しては引いていく波に翻弄されきつく目を瞑る。早く終われ。それだけ念じて。
次第に水音が大きくなる。突き上げる動きが速くなる。がくがくと揺さぶられながら、部屋中に音が響いているのが分かった。うるさい、外を流れ落ちる水の音よりもはるかにうるさい。鼓膜の裏を海が襲う。
あの頃、海は危険だから近づいちゃいけないと、うるさいくらいにそう言われたのに。
泳ぎ方を覚えたようにやり方を覚えられたとしても、男である自分が同じ男を受け入れるなんていう行為に慣れられるわけがないのに。
「ジェイド、ジェイド」
繰り返し名前を呼ぶ男の目は海の色をしていつもジェイドを追い詰める。だから苦手だ。海なんて習わなかった、興味もなかった。それが今になって祟った。
遠い昔、少年に会ったあのとき、初めて見た海。
それは知らぬうちに奥深くに根づき、後になっても今になっても塗り替えられることはなかった。海はここにある。ならば、ここから海が生まれたならば、きっと自分が死んでゆくのもこの場所だ。
背中がしなる。全身を容赦なく圧迫する凶器のような質量に、どうしようもなく息苦しさがつのった。
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