息を吸うと、冷たい空気が喉を突き刺し肺を壊す。
思わず口元に手を当てる。指先の感覚はとうになくなっていた。指を唇に押しつける。じわりと広がる熱にほんの少し安心して、サフィールはまた肩に積もり始めていた雪を払った。
振り返り見上げれば、遠くに魔物の巣窟がそびえている。
ぶるりと震える。まさかあそこまでは行っていないだろう。行かないはずだ。そんな危険を、あの彼が冒すはずがない。
「ジェイド…」
密やかに呟いて、サフィールはとうとう耐え切れずにその場にしゃがみ込んだ。




母親の笑みが、困惑の色を滲ませ始めたのはいつからだっただろう。
最初は喜んでくれていた。
習った本の内容を家で話すと凄いわねと頭を撫でてくれたし、実験に成功すれば一緒に手を叩いて喜んでくれた。それが嬉しくて、毎日毎日のめり込むように本に熱中し、その内組み立てる譜業も本格的になった。
ああ、その頃からなのか、とサフィールは母親の背中を見つめる。
いつの間にか彼女の手を離れ、自分勝手に知識を追い求めていたから。だからいけなかったのだろうか。
気づいたら、自分の周りには誰もいない。
愕然とした。もう誰も僕の言うことなんか分かってくれないんだ。泣き出したい気持ちを抑え込んで膝を抱える。誰も分かってくれないなら、もう余計な期待をしなくて済むようにずっとひとりでいようと思った。
だから初めてジェイドに話しかけられたとき、自分は警戒した。開いていた本を興味深そうに覗いてくる姿に辺りの子供達の姿を重ねて、どうせすぐにどこかへ行ってしまうくせに、と睨みつけた。
だがそれは大きな思い違いだったのだ。
彼は本の一文を指差すとその曖昧さを指摘し、代わりに読むべき本のタイトルを告げる。驚きで何も言えずにいる間に細い背中は消えてしまったが、また図書館に来れば会えると確信していた。
広い机の隅の方で腰掛ける、彼の周囲だけ空気が違うような気がした。
震える拳を握り締め恐る恐る話しかけると、振り向きもせずに無愛想な声が響く。
明らかに歓迎されていない様子にびくりと身を引く。それでも無理矢理向かいの席に座り、本から顔を上げない彼に譜業に関する質問を投げかけた。すると返ってきたのだ。答えが。
夢のようだった。ほとんど自分が一方的に喋っていたような気もするが、一度動き出した口は簡単には止まらなかった。相手が自分の言葉を理解してくれているという事実に、我を忘れるほど高揚した。
神様、こんなのはきっと人生でこれきりだ。そう思った。




図書館の重たい扉が開き、サフィールは外から流れ込んできた冷気に首を竦めた。
本から顔を上げる。そうして期待のままに振り向き、笑顔をこぼした。
「ジェイド!」
司書が眉を顰めるのも気にせず走り寄る。
「よかった、今日は来ないのかと思った」
勢いよく抱きつくと、すぐに襟を掴まれ引き剥がされた。
「会う度いちいちくっつくな。鬱陶しい」
「聞いて!ジェイドに教えてもらった本読んだらね、どうしても解らなかった理論が解るようになったんだ!」
「…ふうん」
ジェイドが僅かに目を見開き、それから感心したようにサフィールを見返す。
認めてもらえたのだ。そう思うと嬉しくて仕方がなかった。サフィールは少し得意になって、ジェイドの腕に手を回す。
「ねえ、今度は何読んだらいい?譜業だけじゃなくて譜術も勉強してみたいんだ」
赤味を帯びた瞳が、探るように見下ろしてくる。
「譜術は全然分からないから。やっぱり最初が肝心なんだよね?」
「まあね、間違った認識から入ると後で面倒だ」
ジェイドは腕に絡むサフィールを解きながら奥の方の本棚へ向かって歩き出す。
その後をちょこちょこと追い、湧き上がる幸せに顔を俯かせた。ジェイドが自分のために本を選んでくれる、こんな素敵なことがあっていいのだろうか。
「まずはこれ。それで内容が理解できたらこっち、できなかったらこっち」
サフィールは指された本を慌ただしく両腕に抱え、前を行く彼に笑いかける。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
棒読みの返礼でもサフィールには充分すぎるほどだった。
ジェイドは小さく息を吐いてしゃがみ込むと、下段の棚をなぞり始める。
それを見つめながら、サフィールはずっと言おうと思っていたあることを、今日言うと決めたはずなのに、また今になってどうしようかと迷い始めていた。彼は干渉されることを嫌うから、もし一つでも言葉を間違えればそこで自分達の関係は終わってしまうだろう。それが怖かった。
けれど今やらなければ、この先都合よく機会が巡ってくるのを待っていたら永遠に言い出せないかもしれない。
背丈の倍以上ある棚に囲まれて、彼の上には薄い影が落ちていた。この場所は司書のいるところからも遠い。声を潜めて話せば、会話を聞かれる心配もなかった。
「ねえ、ジェイド」
彼の横顔へ慎重に言葉を投げる。
「今度、僕も連れて行ってほしいんだ」
ぴくりと顎を振るわせたジェイドが、睨むような視線を寄越す。張り詰めた緊張に足が竦みそうになるのを、必死で悟られないようにする。
「…出てるんでしょう?」
どこへ、とは口にしなかった。心臓がばくばくと音を立てる。
ジェイドは何も言わずにサフィールを見続けていたが、不意に視線を逸らし、本棚に向き直った。
「僕、ジェイドの側で、ジェイドの譜術を見て勉強したいんだ。一度身体で覚えた方が、本を見るときだってイメージを掴みやすいと思う」
「それはそうだな」
「でしょう?ねえ、だからお願い、僕も連れて行って」
思わず膝で歩み寄る。縋るような体勢になったのは無意識だった。
そのまま手を伸ばし、腕に触れようとする直前、ジェイドは音もなく立ち上がった。サフィールは彼を見上げる。真っ赤な瞳がゆるりと微笑んだ。弱い電球の光で、顔に影が落ちる。
「連れて行くって、どこへだ?」
ざっ、と血の気が引くのが分かった。
優しい声に、切り離される、と思った。ジェイドは赤子を宥めるような声と表情で、こちらから視線を逸らさずにいる。駄目だ、と瞬時に悟る。このままでは適当にすかされて終わりになってしまう。そうしたら明日からジェイドは自分を避けるようになるだろう。そのまま二度と会話もできない、そんなのは耐えられなかった。
「知ってるよ、僕。ジェイドはいつも…。鉄の匂いがするから」
震える喉で、血、と言おうとして、途中ですりかえる。
ジェイドが度々街の外で譜術を試していることも、それが実際何を意味するのかということも、ずっと前から知っていた。彼は彼で、サフィールがそれに気づいていたことを知っていた。全て互いに承知の上だ。
負の匂いの纏わりつく彼が、何も知らない振りで口を噤む自分の賢明さを買っているのは確かだった。
それを壊すリスクを負ってまでこの話題を持ち出したのは、彼に近づきたい一心からだ。始まってしまった以上、失敗は許されない。
「僕は、逃げ足は速いよ」
「嘘つけ」
「頑丈だし」
「限度があるだろ」
黙り込むと、その隙にジェイドは横をすり抜けようとする。
「ま、待って」
立ち止まる足。ほっと息を吐いた。まだ捨てられたわけではないのだ。
サフィールはびくつきながらもジェイドを見上げる。
「…行くの?」
掠れた声で、それでもはっきりと伝えた。ジェイドは僅かに視線を寄越す。
「今日は行かない」
「そう…」
小さく呟いたのは、彼が去ってしまった後だった。
極度の緊張から解放され、サフィールはゆっくりと息を吐き出し、へたり込んだ。
顔を上げて窓の外を見れば、いつもと変わらない白の景色がある。しんと静まり返った部屋に、長らく去っていた温い空気が沈んだ。




積もる雪を払い落とす気力もない。
最早痛みさえ感じなくなった身体を、サフィールは小さくなって抱きしめる。がちがちと奥歯が鳴る。
ろくに防寒着も着てこなかったことを後悔するも、入れ違いになってしまう可能性を考えると、どうしてもこの場から動くことはできなかった。そうやってジェイドを待ち続け、かなりの時間が経っていた。サフィールは膝に顔を埋めながら彼の名前を繰り返す。
彼に言わなければならない言葉があった。
あの後、サフィールは家へ帰り寝ずに思考を巡らせた。彼が何を求めているのか。どうすれば彼の側にいられるのか、近づけるのか。そしてそのために、自分は何をすればいいのか。
答えは出た。正解か不正解かも分からない答えだが、自分が浅はかにも壊してしまった信用に代わるものとしては充分だと思う。自信はある。
息を吐き、ぎゅうと瞳を閉じる。街の外から戻るには、必ずこの道を通らなければならなかった。戻ってきた彼に、自分は顔を上げて笑いかけるのだろう。そして彼の全てを肯定する。血に濡れた彼へ、好きだよ、と彼が唯一理解に困っている言葉で。手放せなくさせるにはそれが一番いいような気がした。
そのとき、待ち望んでいた気配に霞みかけていた頭が急激に現実に戻ってくる。
サフィールはさくさくと近づいてくる足音に、顔を上げる。

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