バレンタイン



そのイベントの存在を知ったのは、意外にも早い段階でのことだった。
いくら世間に疎いロロでも、学園中に漂うある種異様ともいえる空気に気づかないはずはない。これは何かとヴィレッタに問えば、彼女は虚を突かれた表情の後簡単な説明を返してくれた。
(そうか、これが例の…)
ロロは色とりどりの包みを見下ろす。
移動教室の間放置していた鞄には、勝手に大量のチョコレートが詰め込まれていた。ぼこぼこと丸く膨らんだ鞄は口が閉まらず、無残に机の上で中身をばら撒いている。そのあんまりな光景に、一瞬嫌がらせかと思ったほどだ。こんなことなら兄の忠告通り、きちんと注意を払っておくのだった。
ロロは溜息を吐く。このクラスの中にもチョコレートの送り主がいるのだろう。じりじりと向けられる視線が鬱陶しい。けれどここで無下に扱えば、女子全員を敵に回すことになってしまう。別にロロ個人としては誰に嫌われようがどうでもいいのだが、任務として学園生活を送っている以上面倒を起こすのはまずい。
とりあえず可もなく不可もなく、何食わぬ顔でこの場を去るのが穏当だろう。ロロは席に着くとルルーシュとミレイへメールを送信する。今日はこのまま機情に逃げ込んでしまおうと思ったのだ。どうせルルーシュも女子に追いかけられて、生徒会どころではないに違いない。
そうして辿り着いた地下の空間で、ロロは定位置になったソファへ腰を下ろした。ばらばらと鞄の中身を引っくり返す。黒い生地の上に広がった包みから適当に一つ掴んで開けると、小さなハートが五つほど、更に透明な袋に入れられていた。桃色の止め具を外し、銀紙を剥がしたチョコレートを観察する。薄っぺらなハートの裏表をくるくると天井の照明にかざした。匂いを嗅ぐ。見たところ完全な既製品のようだった。人の手が加えられた様子はない。
ぱくりと口に含み、軽く舌の上で転がしてみる。味も普通だった。それで大丈夫そうだと判断すると、残りも次々と食べ始める。
びり、と包みの破れる音が響いた。チョコレートの濃い香りが喉や鼻の奥まで充満する。手作りのものは少し気味が悪かったが、学生に用意できる毒などたかが知れていると思えば躊躇する理由はなかった。
口いっぱいにもごもごと頬張り、噛み砕き、唾液で溶かしてはひたすらに飲み込んでいく。
胃の中が重くなるまで繰り返すと、ようやく満腹感に手を止めた。
ぬる、と粘度を増した口内から甘い息が漂う。ソファには千切れた包装紙が散らばっていた。ぐしゃぐしゃになったそれらをぞんざいに避け、未開封のものを手元へ集める。
喉は慣れない刺激で焼けるように熱かった。それでもあと少しくらいは食べられそうだと、速度を落とし無理やりに口へと運んだ。こり、こり、と前歯で細かく折ってはゆっくりと唾液に混ぜ込んでいく。指の熱で溶けたチョコレートが、表面に指紋の形をつけた。
時間をかけて食べ切ると、ロロは汚れた指を舐めながら、もう一方の手で残りの包みを剥ぎ始めた。
折角だから余りは非常食代わりにしてしまおうと考えていた。邪魔なラッピングを取り去り、最低限の状態になったチョコレートを鞄や制服のポケットに忍ばせる。この時期なので、余程暖房の効いたところに置かない限り溶けることはないだろう。
ロロは微笑んで、服の上からポケットのチョコレートを撫でた。それからソファを立ち上がり、散らかったゴミを一箇所に纏めて捨てた。





「ただいま」
ソファで本を読んでいる兄に近寄ると、彼は眉を寄せてこちらを見上げた。
「何?兄さん」
「ああ、いや…」
尋ねても口を濁すばかりで要領を得ない。仕方がないので隣に腰掛けてクッションを抱えた。
ルルーシュがどこか複雑そうな表情で視線を送ってくる。
「チョコレート」
「え?」
「貰った…のか?匂いがする」
指摘されて思わず口を噤む。まさか唇についていないだろうなと指で確認するが、そちらの方は大丈夫だった。そのままの格好でちらりとルルーシュを見上げると、彼は気まずげに顔を逸らす。
自然と下りる沈黙に、ロロも静かに俯いた。きゅうとクッションに顔を埋める。
ルルーシュは斜め上を眺めて頬をかいた。
「どのくらい…ああいや、変な質問だな。返事は…まだするには早すぎるよな。くそ、こんなことなら朝俺が一番に…」
最後の方はよく聞こえなかった。ぶつぶつと独り言をこぼすルルーシュに首を傾げる。
「兄さん?」
ルルーシュはびくりと肩を揺らし、取り繕うように弟の頭を撫でた。
「よ、よかったじゃないか。チョコを貰えたということは、ロロが皆に好かれているということだ」
「そうかなあ」
「そうだろ」
笑顔が引き攣っている。
ロロはむっとして兄を見上げた。ルルーシュが本心を隠すのはいつものことだが、こうもあからさまに動揺されると反応に困る。瞼を伏せてふらふらと足を投げ出し、気を取り直すようにルルーシュへ背を向けた。クッションを胸の下敷きに、肘掛から上半身を乗り出す。
「じゃあ、これが兄さんが貰った好意かな」
大きな紙袋四つ分、どっさりと詰まったチョコレートを漁る。
こうして見ると本当に凄い量だった。様々な色や形が無造作に押し込められている。中にロロでも見覚えのある有名店の包装紙が目立つのは、彼の王子様めいたイメージのせいだろうか。それともそれだけ本気の女子が多いということだろうか。何にしても羨ましいことこの上ない。どうせ食べるなら美味しい方がいいに決まっているのだ。それなのに自分は兄に庇護されているという印象が強いせいか、やたらと手作りや安っぽい玩具のようなものばかりを送られた。
「いいなあ」
「えっ?」
チョコレートの山を掘り進みつつ呟くと、ルルーシュがぎょっとした声を上げた。ロロは渋い藍色の箱を手に振り返る。
「ねえ、これ兄さん一人じゃ食べきれないよね。勿体ないから少し貰ってもいい?」
紙袋を指差しておねだりする。小首を傾げて上目遣いをすれば大抵のことは許してもらえると学習しての仕草だ。
そもそもルルーシュにこれだけの量を消化できる胃袋はないから、ほとんど駄目押しのようなものではあったのだが。
「まあ、それは構わないが…」
予想通りの答えに頬が緩む。ロロはうきうきと身体を起こし、背中をソファに沈めた。箱に巻かれたリボンを解く。
「あ、トリュフだ」
チョコレートの種類など全く知らないが、これはルルーシュがよく作るから覚えていた。口の中でほろほろと崩れる食感と、とろりとした濃さがたまらなく美味しいのだ。
小さな丸みを指で摘まみ、口に入れる。その直前で唐突に右の手首を掴まれた。
「んあ?」
開けっ放しの口から間の抜けた声が漏れる。見るとルルーシュが真剣な顔で唇を引き結んでいた。
「やっぱり駄目だ」
「どうして」
知らず剣呑になった声にも動じず、ルルーシュはロロの手を離して自分の鞄を引き寄せた。
「ほら、ロロにはこれをやるから」
取り出されたのは、水色の大人しいチェック柄の箱だった。
ちょこんと手のひらに乗った箱に目を瞬かせ、ロロは摘まんでいたチョコレートを元に戻した。
「これ…」
「俺からだ」
綺麗に包装された箱を見つめ、恐る恐る受け取る。ルルーシュを窺うと笑みで促されたので、慎重にリボンの先を引いた。セロテープを剥がした包装紙と一緒にテーブルの上に置く。
生身の箱を開けると、微妙に色の違うトリュフが三粒並んでいた。
一目で兄の手作りだと分かった。
「好きだろ?」
「うん」
そっと摘まみ上げて口に含む。柔らかな形を顎の裏で潰すと、淡く酒の香りがした。
「おいしい」
ルルーシュが笑った。
「飲み込んでからで言えよ」
からかうように頬をつつかれるが、この味がなくなってしまうのが嫌で、口の中で崩れた欠片を転がし続けた。ルルーシュが目を細めて髪を撫でてくるのがくすぐったい。
やがてこくりと喉を鳴らすと、ロロはルルーシュの腕にくっついて顔を上げた。
「兄さん、おいしいよ」
「それはよかった」
「兄さんのが一番おいしかった」
重ねて言うと、ルルーシュが小さく噴き出す。
「ああ、俺もロロに気に入ってもらえて嬉しいよ」
ルルーシュが微笑んだのを見て、ロロも唇を緩ませた。兄に肩を寄せたまま二つ目を手に取る。
「ところでさ、誰なんだ?ロロにチョコを送った相手っていうのは」
「んん?分からない」
「分からないって…」
「だって、名前なんて書いてなかったし」
それ以上追求されないようにチョコレートを頬張る。
実際はメッセージカードもあったような気がするのだが、捨ててしまったので内容は知らない。知ったところでどうするつもりもなかった。
「だから僕は兄さんからしか貰ってないよ」
三つ目を取ろうとすると先にルルーシュの指が伸びてきた。白い指に挟まれたチョコレートを差し出されるままに食べる。ココアパウダーのついた皮膚を目で追うと、ルルーシュは自然な動作でそれを舐め取った。
「そうか」
「うん」
頷いて箱を閉じる。テーブルの包装紙を小さく折り畳んで、青色のリボンも合わせてしまい込んだ。
黙って膝に箱を置くロロに、ルルーシュは何も言わなかった。ただ揃えた指の背で何度も頬を撫でてくるから、ロロは首を竦めて目線を上げた。
「なあに?」
「何でもないよ」
そうは言っても、その口元や瞳からは隠し切れない感情が滲み出ていた。ロロはふわふわと笑って兄の腕に頬を擦り寄せる。
「変なの」
息をすると胸が甘ったるくかき回された。やはり兄の作ったものが一番美味しいと思った。いくらでも食べられそうな気がするし、たったこれっぽっちで満たされるような心地もする。それはこんな、ただの固形物とは比べものにならないものだ。
ポケットのチョコレートへ意識をやって、ロロは空の箱を大事に握り締めた。

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