幸せに形があるとしたら



それはとても唐突だった。
「昔、三人で話をしたことがあったな」
さんにん、とロロは不自然に復唱してしまう。この場合の『三人』とは、ルルーシュ、ナナリー、枢木スザクのことだ。分かっているのに、実感がないからいつも間違えてしまう。
慌てて、なあにと返すと、ルルーシュは蕩けそうな顔で笑った。
「幸せに形があるならどんなのだろうって。確かスザクが持ってきた絵本がそんな内容でさ。ほら、ロロも覚えてるだろう?お前のお気に入りだった、あのピンク色の表紙の」
楽しそうにするルルーシュに、ロロは無言で微笑んだ。
勿論そんな絵本など自分が知っているはずがない。内心焦るが、こうしてにこにことし続ければ、ルルーシュの方が勝手に辻褄を合わせてくれる。ほとんど確信に近いのは、何度も似たような状況に直面しているからだった。
ロロがどれだけまずいことを言っても、彼は何かと理由をつけて自分の都合のいいように解釈する。
初めはそれでいいのかと彼の脳の仕組みに困惑したものの、そのちぐはぐなやり取りを繰り返しているうちに何となく合点がいった。恐らくは彼の本能的な部分が記憶の齟齬を恐れているのだろう。通常の人間の力でギアスの絶対的な力を破ることは不可能だ。もし彼が皇帝のギアスに抵抗しようとすれば、彼の内部で情報がパンクし、精神崩壊も起こしかねない。ギアスに対する防御反応のようなものなのだろう。
「結局答えは出なかったんだよな」
案の定、ルルーシュはロロの態度をいぶかしむことなく一人で会話を続けていた。
「あんなに皆で騒いだのに、そのまま夜になって」
「うん」
「スザクなんかあれで真面目なところがあるから、お前のせいで昨日眠れなかったんだぞって。理不尽だよな。言い出したのはあいつの方なのに」
くすくすと笑みをこぼすルルーシュに合わせ、ロロも肩を揺らす。
「スザクさんらしいよね」
枢木スザクという男がどういう人間なのか、ロロは全く知らない。
それでもルルーシュが唯一無二の親友の悪口を愛する弟に言うはずがないということは知っているから、とりあえずもっともらしく頷いた。その瞬間ふっと胸を埋め尽くす空虚感に、笑みが崩れてしまわないよう気をつける。
とすん、とルルーシュの肩に寄りかかると、腕を回すようにして耳の辺りの髪を撫でられた。
「俺には『幸せ』なんて抽象的なものはよく分からなかったからな。何も答えられなかった」
「兄さんは頭がいいから、色々考えすぎるんだよ」
「かもしれないな」
柔らかい声に、そっと瞳を閉じる。頭を撫でる指が気持ちよくて、何だか眠くなってきてしまった。
「ロロ」
あやすようにとろんと伸びた声が耳をくすぐる。
すりすりと頬を彼の腕に押しつけると、軽い笑い声が落ちてきた。拒まれないのをいいことに、ロロはルルーシュの細い腕を抱き枕代わりにしてしまう。
「こら、眠いならベッドに行くんだ。風邪を引いても知らないぞ」
そう言いつつ、本当に自分が熱を出したら真っ青になって看病してくれるのだ。
ふわふわ笑うロロに、ルルーシュは形ばかりの溜息を吐いた。手のひらで軽く頭を叩き、ロロの顔を上向かせる。きょとんとした菫色に向かって、思い切り甘やかすように首を傾けた。
「おいで。こっちの方が暖かいから」
ほわ、と頬が色づくのを自覚してロロは俯いた。けれど伸ばされた手を振り払うことなどできもせず、おずおずとルルーシュの胸に縋りつく。薄い身体から香るのは、バスソルトの匂いだろう。澄んだ華のような香りは安心するが、同時にひどく緊張した。
強張った指先に気づいたのか、ルルーシュの手が背中を優しく撫でていく。微妙な力加減がくすぐったくてたまらなかったが、やめられてしまうのが嫌で大人しく目の前のシャツに鼻先を埋めた。
「本当だ。あったかい」
もごもごと服の合間から呟くと、ルルーシュがそうだろうと得意げになった。
「だからずっと俺の側にいるんだ。どこにも行くんじゃないぞ」
「うん…」
「俺はお前さえ笑っていてくれればいいんだ」
硬く骨張った肩を抱き締められて、じゅく、と胸が痛む。
無意識のうちに息を詰めていた。苦しさに眉根を寄せてルルーシュを見上げると、そこには空っぽの笑みが広がっている。綺麗だけれど、中に何もない。それなのにきらきらと、これが一番の宝物なのだと言わんばかりの眼差しを向けてくるから、思わず錯覚してしまいそうになった。兄さん、と唇が呟けば、当然のようにルルーシュがキスをしてくれる。触れるだけの熱に、その何倍もの愛しさが膨れ上がってロロは泣きそうになった。
それが誰のための笑顔で、彼が本当は誰を望んでいるのか、自分は全部分かっていた。
白い首筋に額を擦りつけて、ロロは無理やりに唇の端を持ち上げる。ゆったりと弧を描かせたそれを少し弛ませるようにすれば、あの少女と同じ可愛らしい笑みになった。
「ねえ、兄さんはまだ分からない?幸せの形」
幾度も鏡の前で練習した笑みを見て、ルルーシュは心底嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ロロは分かったのか?ああ、そういえばロロはあのとき何て答えたんだったかな」
「覚えてないんだ。まだ小さかったし」
「そうか、残念だな。実を言うと俺もなんだ。スザクは喚いて喧しかったから印象に残ってるんだが…」
「思い出せない?」
「ああ、おかしいな。すぐそこまで出かかって…」
「仕方ないよ」
穏やかな口調で、しかしロロはぴしゃりと遮る。
「昔のことだもの」
ルルーシュは一瞬不思議そうな顔をしたが、特に何も言わなかった。
相変わらず微笑んで手の中の癖毛をいじってくるので、ロロは目を閉じてルルーシュに凭れかかる。この温かい身体も、甘い空気も、ロロには全てが空虚だった。本当のものなんて何一つない。抜け殻のような人形が、ただ与えられた箱の中でままごとをしているようなものだ。それでもロロは思っていた。
「僕はあのときのことはよく思い出せないけど、今は、今の僕は、兄さんと一緒にいられてすごく幸せだよ。だからもし幸せに形があるとするなら、『これ』がそうなんだと思う」
箱庭だろうが鳥籠だろうが、中にいる人形にとっては幸福な時間こそが全てだった。永遠に壊れなければ誰も自分たちが人形なのだと気づくこともない。
(この人も、そして僕も…)
消えてしまいそうな儚さにきつく腕を巻きつける。
とくとくと響いてくる心臓の音が悲しかった。笑っている自分が馬鹿みたいだった。
けれどそんなふうに笑っている自分は、きっと彼の腕の中でなければ、呼吸も上手くできやしないのだ。

» BACK