生まれ変わる



死んだと思った。
「ハッピーバースデー、ヴィレッタ先生」
いやに朗らかに笑う男はそう言ってロロに目配せをすると、さっさと部屋を立ち去った。
沈黙が降りる。ロロはじっと銃を構えたままだ。トリガーにかかる指。敵を欺くにはまず味方から。そんな言葉が脳裏を過ぎり、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまう。二重スパイだなんて、現実逃避にも程がある。
この男は撃つ。
単純な話、篭絡されてしまっただけなのだ。されてしまっていた、だろうか。いつの間に。いつから。
ヴィレッタは目の前の少年を睨みながら、自分の失態を悔いていた。
この機情局で見せる顔と、兄のために見せる顔。その二つが別人かと思うほどかけ離れていたから、油断していた。むしろ、ここまで完璧に演じ分けるとはと感心すらしていたのだ。
ぐ、と奥歯を噛み締め、ヴィレッタは手近にあった椅子に腰掛けた。両手を挙げて抗う気がないことを示す。それでようやくロロは銃を下ろした。カタン、と机の上に置かれる銃に思わず反撃の機会を探ってしまうが、ギアスの力を考えると何もかもが無意味だった。彼の目が赤く光る前に武器を手にできなければ返り討ちだ。どうしようもない。
溜息を吐くヴィレッタを、ロロがぼんやりと眺めていた。左手にはいつの間にか携帯が握られている。ロケットがきらきらと光を反射して揺れた。
今思い返してみれば、ロケットを弄るロロの姿は、幼い子どもがおもちゃで遊ぶ姿そのものだった。あれほど分かりやすいサインを発していたのに、どうして気がつかなかったのだろう。彼が人を簡単に殺す暗殺者だからだろうか。だから人の気持ちを理解できるはずないのだと、心のどこかで侮っていたのか。
ヴィレッタは机に肘をつき、額を覆った。
「いつからなんだ…」
絞り出すような声に、ロロは携帯を握り締めた。
「決めたのは、ついさっきです」
ヴィレッタが顔を上げると、さっと視線を逸らす。
「記憶が戻ったのはという意味なら、恐らくバベルタワーのときには既に…。僕が知ったのは、あのショッピングモールのテロ騒動のときです」
ルルーシュが消え、ロロとの通信も遮断され、更にはC.C.の目撃情報も入ったことでこの機情局は完全に空になっていた。
そこか、とヴィレッタは頭を抱える。ゼロが現れたことで冷静さを欠いていた、自分の失態だった。もし本当にルルーシュが取り戻していたなら、まず最初にロロを落とそうとすることくらい分かりきっていたことなのだ。最悪のミスだ。あのパニックもヴィレッタがここを飛び出したことも嘘の目撃証言も、全てロロを誘き寄せるための罠だった。ロロから目を離すべきではなかったのだ。
彼に対する疑念は元からあった。黒の騎士団の処刑騒ぎのときも、だから姿の見えない彼らにわざわざ連絡を取った。それで安堵してしまった自分も相当な馬鹿だとヴィレッタは項垂れる。普段と変わりない返答をしてきたルルーシュは、あのときゼロの仮面を被って好き放題暴れていたというのに。
「ヴィンセントに乗っていたのはお前か?」
問うと、ロロは素直に頷いた。どこか混沌とした目で拳銃を撫でる。
「本当は殺すつもりだった。兄さんは約束を破ったから。C.C.を引き渡すと言ったのに。僕に、みら…」
言いかけて口を噤む。
指先でロケットに触れる様子は、何か安定剤にでも縋っているように見えた。引き結ばれた唇に大きな感情の揺れを感じて、ヴィレッタは背筋を冷やした。下手に刺激すれば暴発してしまいそうな緊張が漂う。この少年が『訓練された暗殺者』ではなく、ただの『人殺しができる子ども』に成り下がってしまったからこそ、一挙一動が恐ろしい。理性よりも感情に左右されてしまう今の状態では、何が彼の地雷を踏んでしまうか分からなかった。
すっとロロの唇が開くのに、びくりと肩を強張らせる。
「彼は」
ロロは呟いた。その声は蚊の鳴くように小さく、弱々しかった。
「自分の命が惜しいから、C.C.と引き合わせてやると取引を持ちかけてきました。僕はそれをのみました。C.C.の捕獲が今回の任務の最重要事項です。だから…。彼の言葉が嘘なら殺せばいい。僕にはその力がある」
そうですよね、と言いたげな視線がヴィレッタへ向けられる。ヴィレッタが頷くと安心したように僅かに頬が緩んだ。それからまた斜めに俯いて、暗く表情を翳らせる。
「でも駄目だった。僕は何もできなかった。ゼロを、ルルーシュを、殺せなかった…」
映像はヴィレッタも見ていた。明らかに命令を無視してゼロの機体を追っていたヴィンセントは、何故か最後には敵であるはずのゼロを守っていた。
「彼が、助けてくれたんです」
ロロは泣きそうな顔で笑う。
「命が惜しいと言ったくせに、体を張って僕のことを守ってくれたんです。弟だから、お前といた時間は嘘じゃないからって。僕のことを、ロロ、って…呼んでくれて」
「お前…」
「僕はそれを、嬉しいと思ってしまった!」
そして何かに耐えるようにぎりぎりと自身の肩を抱く彼に、ヴィレッタは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(ロロ…お前、それは、あいつに騙されてるんじゃないのか)
記憶にある限り、ゼロのナイトメアフレームの操縦技術は精々人並み程度だった。それなのにロロが反応できずにいた攻撃を離れたところから防ぐだなんて、それこそ攻撃があることを事前に知っていなければ不可能だ。
ギアスの力があったのは間違いないだろう。あの男は、ヴィレッタと扇との関係を躊躇なく脅しに利用するような男なのだ。ロロを陥落させるためなら、その程度の小細工はあってしかるべきだ。
がたがたと震えるロロに同情が湧く。決定的に愛情の欠けた、その隙間につけ込まれたか。
ロロがルルーシュに言われたという言葉の数々も、恐らく全て嘘だろう。
ルルーシュがロロを恨んでいないはずがないのだ。
ヴィレッタは、昔千草と呼ばれていた頃の自分を思い出す。記憶がないのをいいことに、あのイレヴンは善人ぶって自分を保護したと言い、ひたすら優しく接してきた。自分はそれを頭から信じて、文字通り身も心も奉げてしまった。記憶がないなんて言い訳にならない。自分はあの瞬間、確かに自発的に彼を愛していたのだから。
ヴィレッタはぐしゃりと胸元を握り締める。記憶が戻ったときのことは思い出したくもなかった。つまりそういうことなのだ。ルルーシュは憎悪をひた隠しにしてロロを取り込んだ。この後彼がルルーシュからどんな扱いを受けるのか、ヴィレッタには想像がつかない。ただ刺し殺されてもおかしくはないくらいの狂気が、ルルーシュの中に秘められている。それだけは確信していた。
「…だから、ヴィレッタ」
唐突に名前を呼ばれ、はっとロロを見る。右手に銃を、左手にロケットを掴んだ奇妙な組み合わせで、彼はこちらを見据えていた。
「もし兄さんを裏切るようなことがあれば、僕があなたを殺します」
淡々とした口調に、じっとりと射るような視線が絡む。ぶるりと肌が粟立った。
「分かってる。お前達には逆らわない。というか逆らえないだろう?」
は、と自嘲するとロロはほっとしたように肩を下ろした。
もしここでヴィレッタが抵抗すればルルーシュの計画が破綻する。それが恐ろしいのだろう。随分あの男に入れ込んでいるようだが、その危険性を果たして理解しているのだろうか。そう、ふと思う。勿論ルルーシュに対してだ。危う過ぎるロロのこの様子では、上手く扱わなければ逆に自分の首を絞める結果になるだろう。
共倒れになるのだけはごめんだぞ、とヴィレッタは唇を噛む。
「心配しなくても、兄さんの言う通りに動いていれば間違いありませんよ。あんなに頭のいい人は他にいませんから」
「だといいんだがな」
溜息と共に吐き出す。ロロがむっとして眉を寄せた。今までモニター越しでしか見たことのなかった表情が目の前にある。思わず笑みが漏れた。
「お前、そういう顔もできるんだな」
「え?何…」
「こっちの話だ」
肩を竦めると、ロロはあからさまに不機嫌顔になった。あの無表情だった少年とは思えない。これはいい変化なのだろうか。一年近く付き合ってきて気力というものが全く感じられなかった少年がこうして感情を露わにする様は、見ていて純粋に楽しかった。おかげで自分は窮地に追いやられてしまったわけだが。
苦笑しつつヴィレッタは立ち上がり、ルルーシュが置いていったワインボトルに手を伸ばす。
正直少し自棄になっていた。とりあえず当面の身の安全は二人に背きさえしなければ確保されるし、逃げ出すならそのうち訪れる機会を待てばいい。今くらい酔って眠るのもいいだろう。
どん、とボトルをロロへ向けて置き、ヴィレッタは笑った。
「飲むか?」
ロロは呆然とボトルとヴィレッタを見比べ、呆れたように目を眇めた。それから、飲みませんよと首を振る。
「僕一応未成年ですし。そんな気分じゃありません」
「なら、その気になったらいつでも来い。どうやら私は自由に外出もできない身分になってしまったようだしな」
ロロが微かに息をのむ。気づかないふりをしてコルクを捻り上げると、ポンと軽い音がした。ふわりと漂う芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込む。
「いい酒だ」
「プレゼント代、水泳部の皆で出し合ったって言ってましたから」
「そうか」
任務でなければ教師役など絶対にありえない。そう思うが、こうして終わってみると案外悪くはなかったかもしれない。頭を過ぎる懐かしい男の姿に自然と微笑んでいると、ロロがもごもごと口を開いた。
「ヴィレッタ、その…。誕生日、おめでとうございます」
何の冗談かと振り向くが、その先でロロが神妙な顔つきでいるからすぐに悟った。
にこり、と幼い弟達にするように、頬を上げて優しく笑いかける。
「ありがとう」
不安げにこちらを窺っていた彼は、その言葉を聞くと表情を緩めた。
ヴィレッタは彼のそんな姿に胸が痛むのを感じる。思い出すのはルルーシュの誕生日だった。いかにもルルーシュが大事にしていそうなイベントをあのロロに任せるわけにはいかないと、機情局総出で練り上げたシナリオを押しつけたのだ。
今思えば悪いことをした。きっとロロは祝ってみたかったのだ。自分が彼に祝ってもらったように、彼と同じようにおめでとうと言いたかった。
どちらにせよルルーシュが記憶を取り戻し、こんな結末になってしまうのなら、もっとロロの好きにさせてやればよかったのだ。
ちくりと後悔が針のように刺さる。ヴィレッタはボトルの口を撫でながら、ロロの手元に目をやった。
「そのロケット、大事にしろよ」
ロロが、ぎゅっと胸元でロケットを包み込む。まるで怯えた子どもが宝物を守ろうとするような仕草に、ヴィレッタは眉を寄せた。
「別に取ったりしないさ」
多分、あいつも。胸の中で呟く。
いくら憎いと言っても、そこまで酷なことはしないだろう。ヴィレッタは何でもないふうを装って、ボトルを直接口に傾けた。
あ、とロロの声が聞こえる。ヴィレッタはごくごくと喉を鳴らし、満足すると大きく息を吐いた。行儀悪く口元を拭う。
「はあ、美味いな。なかなかいいセンスしてるじゃないか」
「当たり前です。誰が選んだと思ってるんですか」
きっぱりと言い放つロロに肩を揺らす。
「もう酔ったんですか。全く仕方がないな」
ロロが思い切り顔を顰め、モニターを見上げた。そのまま何かを探すように視線を彷徨わせ、一つの画面で目を留める。ぎりと殺気立った眼差しを追うと、屋上へ向かうナイトオブセブンの姿があった。端の時計は、計画を実行する時間を示そうとしている。
「それじゃあ、妙な気は起こさないでくださいよ」
言うが早いか、ロロは身を翻して去っていく。ヴィレッタはひらひらと手を振ると、ぐでんと上半身を机に寝そべらせた。モニターに映るロロは、全速力で屋上に向かっていた。その手にはしっかりと携帯と、白いロケットが握られている。
「頑張れよー」
こうなってしまったら、もうヴィレッタには機情の有様が上にばれないよう祈ることしかできない。
くつくつと笑いながら唇の端に残ったワインを舐める。
「誕生日かあ…。なあ扇、どう思う」
口癖のように男の名を呟いてしまう自分がおかしくて、眉を寄せた。
不思議な記憶だと思う。あのとき扇と過ごしていたのは千草という人間だったはずなのに、全てを思い出した今でも、その思いが消えることはなかった。小さな部屋でたった二人きりで過ごしていた時間は、確かに幸せだった。
騙されていたことに対する怒りは残っている。それでも、どうしても扇を憎みきれない。
殺せなかったのだ。頭でも心臓でも、好きなところを撃てばよかったのに、できなかった。
重い息を吐き、折り曲げた両腕に顔を突っ伏す。
例えば、もし彼と過ごしていたときに自分が渡したプレゼントを、彼が今も大事に持っていてくれたとしたらどうだろう。多分、嬉しいと思うのではないだろうか。
ロロの手の中に収まった白い光。ルルーシュも今は憎しみで全身を埋め尽くされていても、時が経てば自分と同じように感じるかもしれない。そんなときがくればいいと思う。
のろのろと顔を上げ、モニターをぼんやり眺める。枢木スザクは間もなく屋上に着こうとしていた。彼も、携帯の電源を落とすルルーシュも、必死で走るロロも、ヴィレッタから見ればまだ幼い子どもたちなのだ。十分に守られて当然の彼らが、互いに命をかけて殺し合おうとしている。
じっと黙り込んでいたヴィレッタは、はっとして首を振った。
何を考えているのだろうか。彼らはラウンズに、テロリストに、暗殺者なのだ。ぼうっとしていたらこちらの命が危ないというのに、酒のせいだろうか。らしくもなく感傷的になってしまった。
「はは、お前に感化されたかな」
教師としての理想を熱く語っていた男の声が蘇る。
やがてやってきた眠気にまどろみ、ヴィレッタは目を閉じた。モニターから流れてくる声はひどく切迫している。聞いているだけで胸が引き裂かれそうだ。
(ああ、やはり悲しいものだな)
身勝手な願いかもしれない。だが願うことくらい自由だろう。何せ今日は誕生日なのだ。
(大事だよね、誕生日は…)
「そうだ、大事なんだ。ちゃんと分かってるじゃないか」
むにゃむにゃと口の中で喋る。そうして眠りに落ちる寸前、ヴィレッタは誰に言うでもなく呟いた。
「…どうかあの子ども達に祝福を」

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