カウントダウン



ひどく綺麗な男だ、というのが第一印象だった。
白い肌に、僅かに幼さの残る細い輪郭。柔らかな微笑み。いかにも無害そうなこの男が、国を揺るがせたテロの首謀者なのだと言われたときには、何かの冗談かと思ってしまった。
ただそれから写真を見直すと、確かに深い紫の瞳の奥に獣のような光がちらついた気がして、ロロは対象への認識を改めた。能力のある人間ほど、周りにそれを悟らせない。だからこそゼロものうのうと学園生活を送れていたのだろう。
「それでは、何かあったらそこのボタンで知らせてください」
白衣の男は嚮団の研究者だ。
記憶改竄の行われた対象のために、この施設は丸ごと嚮団関係者で押さえられていた。彼の通うアッシュフォード学園でも大規模な記憶操作が行われたらしいが、今回の作戦の要であるルルーシュ・ランペルージだけはギアスに対する抵抗が一際強かったのだそうだ。そのためこうして薬で眠らせて、本人の意識をなくしている。
ロロは一人きりになった部屋で、じっと対象を見下ろす。目を閉じて死んだように眠る対象は、写真で見るより遥かに美しかった。まるで人形だ。裏へ流したら、きっと法外な値段で取引されることだろう。
艶やかな黒髪に指を通し、少しだけ顔を近づける。
この男が、数日後には自分の兄になるのだ。
「にいさん…」
慣れない単語を唇にのせてみる。兄と言われても、肉親が誰一人いない自分にはよく分からない。気の遠くなるような資料の山のおかげで大体のデータは頭に入ったが、やはり不安は残る。本当に自分はやっていけるのだろうか。平凡な学生のように。兄の愛に包まれて育った幸せな弟を演じられるだろうか。
与えられた任務である以上、やるしかないのは理解しているが。
「ん…」
そのとき対象の瞼がぴくりと震えた。
ロロは慌てて手を離すと、距離をとり無意識に息を潜める。対象の微かな動きに心臓が飛び出そうになる。
(何で)
目覚めないのではなかったのか。事前の説明では、薬とギアスの影響のため、こちらから処置を施さない限り起きることはないと聞いていた。それが何故。
混乱するロロを余所に、対象の瞼は呆気なく持ち上がっていった。とろとろと瞬きをする紫の瞳が天井を見上げてぼやけている。
滑らかな輪郭に嵌った紫に、ロロは目を奪われる。思わず乱れた呼吸に気づいたのか、対象の瞳が緩々とこちらへ向けられる。失態に気づいてももう遅い。ロロは逃げ出すことも、動くことさえできずに硬直した。鼓動の音が耳で響く。息が止まる。
「ナナ、リー…」
瞬間、心臓に痛みが走る。ほとんど本能だった。ギアスの結界の中、ベッド脇のボタンに手を伸ばし早口に告げる。
「対象が目覚めました。妹の名前を呟きましたが、現時点で判断はできません。このまま弟役として会話を続けます。許可を」
ピ、とランプが点滅する。
「了解。すぐにそちらへ向かうのでお願いします。危険な場合は眠らせて構いません」
スピーカー越しにばたばたと足音が聞こえる。ロロは通信を切ると元の体勢に戻り、黒い制服の胸に手を当てた。肺の空気を出し切り、ゆっくりと吸い込む。
そうして呼吸を落ち着け、ギアスの効果の切れた対象に向けてふわりと笑みを浮かべた。
「いやだな、どうしたの?僕のこと誰かと間違えてる?」
対象は不思議そうに眉を顰めた。ぼんやりとした瞳が、近づくロロを映し込む。
ロロはベッドの脇へしゃがむと腕を縁に乗せ、顔を寄せた。
「兄さん、僕だよ?分かるよね」
甘ったるく、しかし強い口調で問い詰める。対象はゆらゆらと瞳を揺らし、唇を開いたまま動きを止めた。
ぴたりと固まってしまった対象を注意深く観察する。もし記憶に異常が見られれば即刻眠らせるつもりでいたが、対象は小さく声を震わせると、ほうと柔らかく微笑んだ。
「ああ、ロロ…」
心底安堵したような表情に満足し、ロロも頬を緩ませる。
「そうだよ。ロロだよ。いきなり他の人の名前なんて呼ぶから驚いた。もしかして僕のこと忘れてしまってた?」
ことりと首を傾げると、対象が小さく噴出す。毛布の中で腕が動くので警戒するが、出てきた手には何も握られていなかった。白い手だ。それを一体どうするのかと思えば、徐にこちらへ向けて伸ばされる。
一応首を絞められる可能性も考えたが、彼の手のひらは視界の上へ消えた。直後、ぽすんと頭に軽い衝撃がある。
「何を言ってるんだ。そんなわけないだろう」
やわやわと髪を撫でられる。ぞっとして反射的に殺しそうになったが、何とか我慢した。
気色の悪い体温を誤魔化すようにふふ、と肩を竦めると、対象の頬に指を這わせる。よく見れば厚く水の膜の張った瞳はとろりとして、今にも閉じてしまいそうだ。この分なら次に目覚めるときには何もかも忘れてしまっているだろう。
「ねえ兄さん。疲れたでしょう。眠そうだよ」
親指で目の下をなぞりながら囁くと、対象の焦点がぼやけるのが分かった。のろのろと瞼を落としては開いてを繰り返すので、頭に乗せられていた手を外して毛布の中に戻してやる。それから身じろぎする対象の肩を優しくあやした。ぽん、ぽん、とリズムをつけて叩けば人は眠くなるものなのだと、どこかの資料に書いてあったのだ。
しかし、んん、と息を漏らす対象は、それでも何かに逆らうように瞳を開こうとしている。ロロは面倒になってきて、手のひらで対象の両目を塞いだ。
「もう寝なよ。無理するとよくないよ」
あくまで弟の声音で語りかける。対象がまだ抵抗しようとするのが手のひらの睫の感触で分かったが、無視し続けているとやがてそれも大人しくなった。
眠りに落ちる寸前、対象が寝言のように呟く。
「ロロ、側に…」
「うん、いるよ。だから安心して」
「どこにも…」
「ずっと兄さんと一緒だよ」
「ああ、絶対…」
すう、と呼吸が安定する。目を開ける気配がないのを確認して、ロロは立ち上がった。
「もういいですよ」
外で待機していた男達に声をかける。シュンと開いた扉から様々な機材が運び込まれ、対象に何本ものコードが繋がれていく。それを遠くから眺め、ロロはポケットのナイフをいじった。もぞもぞと硬い柄をなぞっていると、男の一人が近づいてくる。
「対象の様子は」
「僕を弟と認識しました。起きていた時間も数分ですし、問題はないと思います」
「それならいいのですが、まさか目を覚ますとは我々も予想外で…」
「餌の管理には責任を持ってくださいよ」
ロロは無表情に男を見上げると、部屋を振り返ることなく扉へ向かった。
「帰ります。もう任務開始までは来ない方がいいでしょう。対象の顔も覚えましたし」
真っ白い廊下を歩きながら、ロロはナイフを取り出した。刃を出しては戻し、すっかり癖になった手遊びを続ける。任務が始まったらこれもできなくなるな、とどうでもいいことを思った。
「兄さん、ね」
自分を認識した瞬間、蕩けるように破顔した男を思い出す。
単純に不思議だった。自分は何をしたわけでもない。ただそこにいただけだ。それなのにあれほど嬉しがるなんて、『弟』とはそういうものなのだろうか。分からない。けれど逆に、ああまで弟に執着しているのなら、自分が必死になって気を回す必要もないだろう。適当に妹の性格をトレースしていれば疑われることもない。実際対象に会ってみて、唯一そこだけは安心した。
ロロは施設を出ると、対象がいた部屋の辺りを見上げる。
眠ることに抵抗し続けた対象は、恐らく深層では理解していたのだろう。ナナリーと呼ばれた少女のこと。そしてこれから呼ぶことになる、ロロという弟のこと。
混ざり合う記憶の中二人のきょうだいはぐちゃぐちゃにかき回され、次に出会うときには、存在しないロロ・ランペルージという人間が彼の肉親として作り上げられる。
(ロロ、側に…)
あれがそうだ。彼が縋ったあの『ロロ』が、次の自分の役柄になる。
ルルーシュ・ランペルージの弟。
ゆるりと唇を緩ませ、ロロは練習した通りの可愛らしい笑みを浮かべた。
「大丈夫、僕はずっと兄さんの側にいるよ。だって…」
パシンと刃を手の中に収める。
「僕はおとうとだもの」
馴染んだそれを握り締め、ロロは笑った。歪んだ口元を冷たいナイフの柄に押し当てる。
任務の開始まであと数日に迫った、ある日のことだった。

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