ただ広い場所だった。右も左も、上下の感覚さえよく分からない。
真っ白い空間にロロはいた。
ここが死後の世界なのかと言われれば、そうなのかもしれない。何故なら隣に彼がいない。もし自分が生きていたなら、絶対に彼の側を離れることなどあり得ないのだ。自分達が生と死という物理的な境界線に阻まれている証拠だった。
ふわりと小さな膝を抱え、ロロは漂う。今まで自分が生きて彼と過ごしていた世界のことは、自然と知ることができた。見聞きしているわけでもないのに、頭の中に映像が入ってくる。
だから分かった。
「兄さん…」
皇帝としての彼が振り回していた剣に刺し抜かれ、全ての罪を背負うように息絶える彼の姿。
「いやああああああ!」
ナナリーの絶叫がびりびりと鼓膜を揺らす。獣のような慟哭。綺麗な頬が血で滅茶苦茶になる。次から次へと溢れる涙が滲ませても、床を濡らす赤は止まらない。お兄様、おにいさま。ナナリーの手がきつく兄の手を握り締める。動かない指先が反り返る。
私はお兄様がいればそれでよかった、と泣き伏す彼女にロロはぐしゃりと顔を歪める。
ナナリーも自分と同じだったのだ。ルルーシュのことを愛し、ただ側にいたいと願っていただけの、小さな女の子だった。
(兄さん、あなたは…)
酷い光景だった。
どよめく群衆。雪崩れ込む反乱軍。銃声。歓声。解放される囚人。汚れたブリタニア国旗。英雄。魔王。最後の皇帝。
赤い、血溜まり。
「これのどこが、あなたの望んだ世界なんだ」
小さな願いも叶わない、悲しい世界だ。優しくなんてない。世界中の人間が幸せそうに笑っても、そこにあなたはいない。
それだけで世界の色を失う人がいると、どうして分からないのだろう。
泣き叫ぶナナリーがルルーシュから引き剥がされる。数人掛かりで押さえても尚抵抗する彼女の肩に、黒いグローブが触れる。ハッとした大きな目がゼロを見上げた。ゼロ。枢木スザク。
ぼろりと涙が落ちた。
「やめて!嘘吐き!嘘吐き」
ナナリーの悲鳴が響く。今にも折れそうな細い腕が必死にもがいた。
「皆嘘ばかり!どうして、何故こんなことになってしまったの。何がいけなかったの。どうすればよかったの。ねえ答えて!私は、わたしは、ただ…」
ひぐ、と言葉が詰まる。大きく歪んだ顔がぐしゃぐしゃになって、ナナリーの身体から力が抜けた。べたりと崩れ落ちるのに合わせて、ゼロの手が彼女を押さえる男達を下がらせる。長い髪を床に広げ、ナナリーは項垂れた。
誰も何もできなかった。人形のように動かない彼女に、ゼロ、ゼロ、と騒ぐ人々の声はどんなふうに聞こえているのだろう。ロロはそっと手を伸ばす。同時にナナリーの腕も上がった。着せられていた囚人服も、豊かな髪も、白い肌も、何もかも赤に染めて、彼女はゆったりとルルーシュの頬を撫でる。その瞳はぼんやりとしていて、けれど淡く微笑んでいた。
「お兄様」
ナナリーの声が耳をくすぐる。
「あなたは本当に酷い人です。そんな人が私のお兄様なのですね」
辛辣なのにどこか慈しむような響きに、心臓が軋んだ。
ナナリーは頬を綻ばせて兄の顔を覗き込む。
「それなら私はあなたに約束します。ナナリー・ヴィ・ブリタニアの名にかけて、あなたのくれたこの世界は、私が…。いいえ、私達が必ず…」
真っ赤な親指がルルーシュの唇をなぞる。ゆっくりと、きっと彼女の中にある全ての思いを込めて。
色づいた兄の唇に、妹は笑みをこぼした。おにいさま、と血の色をした手のひらを離す。そこには名残惜しむ様子もなかった。ただ眠りに落ちた兄を寝台に残すように、優しく柔らかな眼差しを向ける。
そしてナナリーは顔を上げた。一瞬で兄妹の空気を振り払い、真っ直ぐに前を見据える。強い光を灯す瞳に、ロロは鋭く息をのんだ。それから緩々と吐き出す。唇が笑みの形になった。
全く彼女には敵わない。彼女がルルーシュに愛される理由が、今はっきりと分かった。
伸ばした手をのろのろと元へ戻し、ロロは空を見上げた。鳥が一羽飛んでいく。綺麗な青空だった。
地上は彼の血で満ちているのに、不思議と心は凪いでいた。ルルーシュが死にに行く朝にしていたように、彼と同じ景色を刻みつけるように、眩しい太陽に目を細める。その光にのまれるようにして、頭の中の映像が途切れた。
ふつりと現れた一面の白に、ロロはぼうっと膝を抱く。
世界が変わる。
彼が望んだように、全ての憎しみは彼と共に葬られるだろう。ただその後のことは誰にも分からない。また争いが起こるかもしれないし、誰かが誰かを憎む世界に逆戻りするかもしれない。平和なんてあまりに心許なくて、ほんの些細な切欠で壊れてしまうものなのだ。
彼の命で作られた幸せだって、永遠ではない。
「馬鹿…」
ロロは呟く。初めて本気でルルーシュがどうしようもない人間だと思った。今回ばかりは絶対に、すごいよ兄さんなんて言ってやらない。馬鹿。馬鹿じゃないの、とぎゅうぎゅう自分の身体を抱き締める。
「僕は生きててほしかったのに」
本当にルルーシュは酷い男だ。初めてナナリーに共感した。
あの人は残される彼女がどんな思いをするか知っていて、それでも彼女を信じて死んだのだ。そこまで深く繋がった彼らを羨ましいと思うが、妬んだりはしなかった。あの二人には二人の絆があって、自分達には自分達の絆があるのだ。それでいい。
ロロは、すいと身体を伸ばすと空を蹴った。泳ぐようにふわふわと移動する。目的地は決まっていた。身体の内側の方から震えるような予感がある。もうすぐ彼がここへやってくるのだ。
「馬鹿って言ってやるんだ。兄さんに」
ぶつぶつと決意しながら口を尖らせる。彼の制止も聞かずに彼を守って死んだ自分に彼を責めることなどできないが、ナナリーの分だと思えばいいだろう。彼女は自分勝手な兄に振り回されてばかりだったのだから。
いつの間にかそんな思考になっている自分に、ロロは苦笑する。昔はあれだけ彼女の存在に怯えていたのに、今は少しも彼女を怖いと感じなかった。もうそんな必要はないと分かっているし、何より彼女に対して興味があった。
考えてみれば自分はナナリーのことを全く知らないのだ。それなのに、ルルーシュの本当の妹というだけで憎んでいた。
今なら分かる。多分自分はナナリーではなく、彼女の居場所に嫉妬していただけなのだ。
ぽわ、と白い空間の一部が光を放つ。ロロは、あっと声を上げて急いだ。
ルルーシュが現れたらまず思い切り頭を叩いて、彼を置いて先に死んでしまったことを謝って、それからナナリーの話を聞こう。彼は驚くかもしれないが、きっと笑って話してくれる。小さい頃からロロが任務に就くまで、その間の彼らには自分が持っていない沢山の幸せが詰まっている。それを少しだけ分けてもらうのだ。
ぼやぼやとした光がある一点に集中していく。目が眩むほどの明るさに手を翳し、次第に現れる輪郭を見つめる。
話したいことも、聞かせてほしいことも山ほどあった。でもその前に、一番最初に言うことがある。
ロロは人の形をした光の元へ辿り着き、とびきりの笑顔を浮かべた。
「おかえり、兄さん」
ルルーシュが面食らったように目を瞬かせる。
何か間違っていたかなとロロは首を傾げるが、この出迎えの言葉を教えてくれたのはルルーシュなのだ。返答がないことに焦れて眼前まで近寄る。するとルルーシュが息を漏らす気配がして、頭の上に温かいものが乗せられた。一緒に暮らしていた頃何度も何度も撫でてくれた、大好きな兄の手のひらだった。
「ああ、ただいま」
直接脳を震わせるような、ずっと待ち侘びていた声音に、あんなに言ってやろうと思っていた言葉はあっという間に喉の奥に引っ込んでしまった。
「に、にいさ、兄さん…」
代わりに突然せり上がってきた衝動に、耐え切れなくなってしゃくり上げる。
よしよしと宥められて、身体の中で激流が暴れ出した。ぼろぼろと零れる涙を拭い、熱い喉を冷やそうと大きく息を吸い込む。中々上手くいかない呼吸をあやして助けてくれる手が悔しくて、嬉しかった。
「馬鹿、ばか。兄さんなんか…。ほんとう、に…」
何とかそれだけ搾り出す。
優しい指が目元を掠めた。うん、ごめんなと返してくる声は、ナナリーが彼へ向けたものと同じだった。きゅう、と心臓が押し潰される。
この人はずるい。そんなことをされたら、もう何も言えないではないか。
ロロは座り込み、兄の腕に抱かれながら泣き続けた。ひたすらに、満足に泣くことも許されなかった、愛しい兄妹達の分まで。
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