微温湯



冷蔵庫からアップルジュースを取り出し、コップに注ぐ。なみなみ注がれたそれに立ったまま口をつけながら、ロロはテレビのリモコンをいじった。
ルルーシュが目にしたら行儀が悪いと怒り出しそうな姿だが、今はその心配はない。彼は友人のリヴァルと賭けチェスへ出かけている。少なくとも夕方までは戻らないだろう。
本当なら監視役であるロロが常に側にいなければならないのだが、ルルーシュは溺愛する弟をそういった場所へ連れて行きたがらない。現に今日もリヴァルとクラスで頼まれた買出しに行くと言ってロロを遠ざけていた。
面と向かって言われてしまえば、ロロが隠れてついていくわけにもいかない。というより不可能だった。あの場所で、ロロの学生の姿はあまりに目立ちすぎる。
それなので監視は機情の他のメンバーに任せて、ロロは一人きりの貴重な時間を楽しんでいた。
どっかりと椅子に腰掛け、足を組んでテレビを眺める。流れている番組はどれもつまらないものばかりだったが、ロロは上機嫌だった。
あの男の異常な依存から解放される機会など、そう滅多にあるものではない。誰に干渉されることなく一人でいられる。それだけで心が弾んだ。今している足を組むという動作だって、人前では決してできないことだ。
気弱で内気で大人しくて、兄の後ろに隠れるようにして過ごす。そんなロロ・ランペルージという人間を、自分は完璧に演じなければならないのだ。
初めはそれが任務なら苦もなくこなせると思っていた。しかし四六時中他人の視線を感じながら生活するのは、想像以上に神経を削るものだった。今回の任務は今までのような短期のものとは全く違う。対象の懐に潜り込んで殺害して完了、という簡単な話ではないのだ。
ロロに与えられた一番の目的は、ルルーシュを餌にしてC.C.を誘き出すことだった。つまりルルーシュは殺してはいけない。それが許されるのは彼の記憶が戻ったときだが、彼を殺してしまえばC.C.を捕獲することもできなくなる。だから彼を刺激して記憶を取り戻すようなことがあってもならない。
ロロはただルルーシュが平穏な学園生活を過ごせるように、彼に寄り添って本来なら妹がしていた役割をこなすだけだ。
馬鹿馬鹿しいと思う。同時に、少しぞっとした。
もしC.C.が現れずルルーシュの記憶も戻らなければ、自分は永遠に彼の弟として生きていかなければならなくなってしまう。
ルルーシュといれば三食ほかほかと温かい料理が食べられる上に、寝床に困ることもない。彼はアッシュフォード、今は機情に保護されている身だ。無茶なことを言い出さない限りは、何不自由ない生活を送ることができる。
対して嚮団での生活は酷いものだった。ルルーシュは幼少時代土蔵暮らしをしていたというが、ロロにしてみれば十分恵まれていると断言できる。
単純に今と嚮団とを比べれば、ルルーシュの側にいる方がいい暮らしを送れるのは明らかだ。それでもロロは嫌だった。このままルルーシュと暮らしていたら、いつかストレスで死ぬ。間違いない。
一気にジュースを飲み干し、べたりと机に伏した。自然と大きな溜息が漏れる。
ここにルルーシュがいたら、どうしたんだロロ腹でも痛いのかそれともクラスで何かあったのか遠慮なく俺に言ってくれよお前にもしものことがあったら俺は、などと喧しく騒ぎながらべたべたとロロの身体を触っていたところだろう。本当に勘弁してほしい。
そもそも自分は人と関わりを持つこと自体慣れていないのだ。周りをうろつかれるだけでも鬱陶しいのに、逐一こちらの行動を把握して引っついて、少しでも姿が見えなくなれば携帯に恐ろしい数の着信が残される。この前など、ちょっと機情の打ち合わせで帰るのが遅くなっただけで、捜索願を出されそうになったのだ。
一応自分はブラックリベリオンに巻き込まれたということになっているので、彼が不安がる気持ちも理解できるが、限度というものがあるだろう。これではどちらが監視されているのか分からない。
「ああ、面倒くさい…」
ここまで任務に嫌悪感を覚えるのはひょっとしたら初めてではないだろうか。
過去任務に当たる際全く何も感じなかったといえば嘘になるが、それでも、今回の相手は背が高いから殺しにくいなあという程度のもので、決して逃げ出したいとまで思うことはなかった。
また溜息が漏れる。ロロは立ち上がり、ソファの側まで移動した。そして肘掛の横、太陽が遮られて陰になっているところに座り込む。
冷えた床の固さが尻に伝わる。慣れた感覚に、ロロは目を細めた。やはり自分にはこちらの方が合っている。
ルルーシュに与えられるふわふわとしたソファやベッド、微温湯のような日々。ここが居心地のいい空間であることは確かだった。飢えることもなければ、寒さに凍えることもない。
分かっているのに、この場所に安らぎを感じることはなかった。
味気ない食事に、硬いベッド。あれだけ酷いと思っていた嚮団を、時折懐かしく思い出す。
(疲れた…)
はあ、と息を吐き抱えた膝に顔を埋め、ロロは小さく縮こまった。





「ロロ!」
呼び声にハッと目を開けると、ルルーシュが血相を変えてこちらに走り寄って来るところだった。
「ロロ、どうしたんだこんなところで…。まさか具合でも悪いのか」
今にも死にそうな顔をして肩を掴み、確認するように上半身に触れてくる。額にひやりとした手のひらが当てられた。
「熱は…ないみたいだな」
ほっとした様子で眉尻を下げるルルーシュに、ロロは呆然と瞬きを繰り返す。いつの間にか部屋の電気が点いていた。慌てて窓に目をやると、黒いガラスに自分の顔が映った。もう夜だ。
どうやら昼間ここに座り込んだまま、うっかり眠ってしまったらしい。思わぬ失態にロロは眉を寄せた。こんな姿をルルーシュに見られてしまうだなんて、有り得ない。機情もカメラで見ているなら、電話の一本でも寄越してくれればいいものを。
ロロは舌打ちしそうになるのを堪えて必死で頭を回転させるが、ルルーシュにする言い訳が何一つ思いつかない。どうしたものかと焦っていると、ルルーシュの手に身体を引き上げられた。
「ほら、立って」
そのまますぐ横のソファに座らせられたかと思ったら、いきなり抱き締められる。
「え、何」
「すまない、ロロ」
ぎゅうぎゅうと力を込められ、反応に困ってルルーシュの制服を掴む。首を捻ると頬に黒髪がさらさらと当たった。煙草の匂いがする。
「本当に悪かった。お前を置いてこんな時間まで…。寂しかっただろう?」
心底悔いているらしい声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。ロロはぎょっとしてルルーシュの背中に手を回す。
「だ、大丈夫だよ、兄さん。僕なら…」
「ロロ、いいんだ。無理をしなくて」
「…うん、寂しかったよ」
ルルーシュがそう思っているなら、無理に否定することもないだろう。不自然に床に座り込んでいたのも、帰ってこない兄に拗ねたのだということにしてしまえばいい。
ロロは努めて冷静に、自らルルーシュに身体を寄せた。他人の身体の感触は背筋がぞわぞわとして不快なのだが、仕方がない。こうしてやらないと、ルルーシュは安心せずにいつまでもロロを腕の中に閉じ込めておこうとするのだ。
意識を拡散させようと肩越しに見ると、ルルーシュの荷物が床に転がっていた。
ロロの姿に余程驚いたのだろう。鞄と、洋菓子店の刻印の入った紙箱が無残に投げ捨てられている。ああ勿体ない、と思った。あの分では中のケーキは形を留めていないだろう。ケーキは甘くて美味しいから食べたかった。
食べ物のことを考えたら、急に腹が痛んだ。そういえばジュースを飲んだきり、昼から何も食べていない。
「ねえ兄さん、もう大丈夫だから。夕飯にしよう。僕待ちくたびれてお腹空いちゃったよ」
ルルーシュの肩に顔を埋めながら言うと、腕の力が緩んだ。
ねだれば与えられる。不思議なものだ。自分は彼に対して何の対価も払っていないのに。
ゆっくりと身体を離したルルーシュは、にっこりと微笑んでくしゃくしゃとロロの頭を撫でる。
「そうだな。今作ってやるから待ってろ」
そのままキッチンへ向かう背中が完全に見えなくなってから、ロロは肩の力を抜いた。
ルルーシュがいなくなると、身体のそこかしこに残る温もりが余計に気持ち悪く感じられる。払い落とすように全身を引っかいても消えることはない。まるで皮膚の中まで染み込んで根づいてしまったかのような錯覚に陥る。ふかふかとしたソファはロロを包み込んで、身体の輪郭を曖昧にさせる。
内から湧き起こる衝動に駆られ、ぎり、と腕に爪を立てる。
ルルーシュが人肌に安心するように、痛みはロロの精神を安定させた。自身を取り巻く環境が過酷であればあるほど、自分の存在を確認できる。形が分かる。
(だから、もう、早く終わらせたい)
一刻も早く逃げ出さないと。このままいたら、いつか気が狂いそうで恐ろしかった。

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