かしゃかしゃと高い音が耳に心地良い。
徐々に重くなってきたクリームを泡立て器で持ち上げると、三角のツノがへたりと垂れる。初めはただのミルクにしか見えなかったのに、かき混ぜているうちにふわふわと固まってきた。どういう仕組みになっているのかは分からないが、これがあのケーキなどに乗っかっている生クリームなのだ。
料理なんてしたこともない。特に菓子類になると作るどころか実物を目にすることすら稀だった。
この生活を与えられて、ルルーシュの手伝いをするようになってからは、本当に新しい発見が多い。
ロロは一種の感動を覚えながら、クリームをかき混ぜては何度も持ち上げてみる。ぴょこんと立った頂点が、その度に重さに負けるのが面白くて仕方がない。
夢中になって遊んでいると、次は甘い香りが気になった。
ロロは手を止め、左の指でクリームを掬う。そのままぱくりと口に含んだ。予想通りのコクのある甘さが広がって、思わず頬が綻ぶ。べたつく指を舐めながら顔を上げると、右から重い視線を感じた。
何故か難しい顔をしたルルーシュが、じっとこちらを見つめている。
ロロは何かと思って声をかけようとしたが、その前に彼の視線が自分の口元に注がれているのに気がついた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて咥えた指を離し、水道で濯ぐ。
失念していた。味見をするときはスプーンを使わなければいけないのだった。
気まずい空気を壊そうと、ロロは引き出しからスプーンを取り出す。
「兄さんも味見してみてくれる?」
クリームを掬ったスプーンをルルーシュへ向けるが、彼は押し黙ったままロロを見下ろすだけだった。
「あの…」
堪らず声を上げると、ルルーシュの手にスプーンを奪われる。
(え?)
驚いたロロが見つめる前で、彼は綺麗な動作でクリームを食べた。そして何事もなかったかのように笑みを浮かべる。
「うん、甘さはこれくらいでいいだろう」
からん、とスプーンがシンクに落とされる。
よく出来たと頭を撫でる手は優しかったが、ロロは不安にしかならなかった。
きっとルルーシュは怒っている。その証拠に今の態度だ。普段ならわざわざスプーンを受け取ったりせずに、差し出されるまま口に含んでくれるのに。
ロロは瞳を伏せ、またルルーシュを見上げた。
目が合った瞬間、どうした、と笑いかけられる。その笑顔がどこか引きつっているのに、ロロは胸が痛むのを感じた。
「避けられている?」
はい、と重い顔で頷く部下に、ヴィレッタは眉を寄せた。
「お前が、あの『弟バカ』にか?」
俄かには信じがたい報告だった。あの弟命のルルーシュがロロを蔑ろにするなど、たとえ天地が引っくり返ってもあり得ない。
しかしロロは間違いありません、と首を振ると、モニターを操作して過去の映像を呼び出した。
パッと中央のモニターに買い物から帰った二人が映る。キッチンの一角。食材を冷蔵庫にしまうルルーシュをロロが手伝っている。
これのどこが避けられているというのだ。
どこからどう見ても仲のいい兄弟の姿に、呆れたヴィレッタが口を開こうとする。だがそれを遮るように、ロロが硬い声で注意を引いた。
「ここです」
モニターに視線を戻すと、ロロが兄に向かってトマトを渡しているところだった。ルルーシュは右手で冷蔵庫の奥を整理しながら、左手でそれを受け取る。次の瞬間、床でトマトが潰れた。
「このとき、手が触れたんです」
画面の中で呆然と固まるルルーシュと自身の姿を見ながら、ロロが解説を入れる。
「他にも僕と視線を合わせなかったり、話しているのに上の空だったり、色々あるんですが…。特に身体接触ですね。避けられているのは」
「心当たりはあるのか?」
尋ねると、ロロは無言でモニターをいじった。
同じくキッチンの様子だったが、今度は料理の最中のようだ。二人ともエプロンをつけてそれぞれの作業をこなしている。ケーキでも作っているのだろうか。正直男二人でどうかと思うのだが、どちらも全く違和感を感じさせない容姿をしているのが何とも言えなかった。
ヴィレッタは思わず深い息を吐く。
どうやらロロは真剣に悩んでいるようだが、どうせただの勘違いだろう。もし本当に避けられているのだとしても、先ほどの映像の様子では簡単に解決する程度のものに思われた。そんなことで何度も仲睦まじい様子を見せつけられる、こちらの身にもなってほしい。
かしゃかしゃという泡立て器の音が止む。ふと苺を切っていたルルーシュがロロの方を見た。随分熱い視線なのにロロは気づかないらしく、指でクリームを掬う。
「このときからなんです」
ロロは淡々と話しながらモニターを眺める。画面の向こうでは、ルルーシュを見上げたロロがびくりとして水道に手を伸ばしていた。
「普段から行儀が悪い、とは言われていたんですが…」
「ああ、なるほどな」
無駄に上品なルルーシュがロロの行動をいさめる姿は、ヴィレッタも以前から目にしていた。
テーブルマナーのようなマニュアルのあるものについては問題ないのだが、普段の立ち振る舞いとなると育ちが表に出てしまう。注意されて直るものならいい。けれどそれが幼い頃からの癖といったレベルになると、なかなか思い通りにはならなくなってくる。
「こういう場合、どうしたらいいんでしょうか。もし僕の存在が彼に生理的嫌悪を与えているのだとしたら、無闇に近づくのも逆効果のような気がしますし…」
操作盤に手を突いて、ロロはヴィレッタを見下ろす。モニターの光が青白い。心なし顔色の悪く見えるロロに、ヴィレッタは足を組み替え天井を仰いだ。
「そうだな…。とりあえず本当に奴がお前を避けているのか、直接確かめてみろ」
「大丈夫でしょうか」
ロロは不安げに瞳を揺らす。ヴィレッタは椅子から立ち上がった。
「今更弟役を取り替えるわけにはいかんだろう。お前の任務だ。お前が何とかしろ」
お前が、のところに力を入れる。そして話を打ち切るためにモニターを消そうとして、絶句した。
「どうかしましたか?」
こちらの表情を見たロロが目線を寄越すがそれどころではない。
眼前の画面に映し出されているのは、兄に向かってクリームを差し出すロロの姿だった。
フリルのふんだんにあしらわれた淡色のエプロンは、ルルーシュが買い与えたものだろう。正面から見るとまた随分と可愛らしいデザインだ。暗殺者としての彼を知る自分には空恐ろしいものがあるが、しかしロロを愛しい弟だと思い込んでいるルルーシュにとってはどうだろうか。
自分を凝視したまま硬直するルルーシュを、ロロは上目遣いで窺う。
(「あの…」)
大きく澄んだ瞳。ロロがことん、と小首を傾げる。途端引っ手繰るようにしてスプーンを奪うルルーシュを横目に、ヴィレッタはロロを見下ろした。
「…なあ、ロロ」
「何ですか?」
モニターと全く同じ仕草でこちらを見上げるロロに、ヴィレッタは頭が痛くなるのを感じた。
「いや、いい。何でもない…。とにかく頑張れよ」
ヴィレッタにああまで言われてしまった以上、やはり自力で何とかするしかないだろう。
任務、任務、とロロは自分に言い聞かせる。対象との関係を拗らせてしまったのなら、直ちに修正しなければならない。考えてみれば当然の処置だ。それなのに何故自分は彼女に頼ったりなどしたのだろう。
ぎゅう、と膝の上で手を握り締める。隣に座るルルーシュとの距離が、いつもより遠い。心臓が潰れそうだ。ロロは溜息を吐く。一体何をどう切り出したらいいのだろうか。
他人とここまで長く関わった経験など今までなかった。短期間の任務のときは必ずマニュアルが用意されていたし、仮にそれで失敗したとしても、殺すか任務が終了するまで待てばよかったのだから、仲直りの仕方も知らない。どうすればいい。頭の中でいくら考えても答えは出ない。
かちかちと時計の針が進んでいくのを、ロロは俯いて聞いていた。
やがて、本を読み終わったルルーシュがソファから立ち上がる。ロロはハッと顔を上げる。離れようとする服の裾を、咄嗟に手の中に掴んでいた。
「どうした?」
ルルーシュがぎょっとした様子で振り返る。その姿にロロは眉を寄せた。
やはり思った通りだ。拒まれている。ぞっと背筋を走る緊張に、服を握る手に力がこもる。
そして自分が柄にもなくヴィレッタに相談を持ちかけてしまった理由を唐突に理解した。
「兄さん、あの…」
こちらを見下ろすルルーシュは、既に優しい兄の笑みを浮かべていた。
うあ、とロロは戸惑う。ヴィレッタの指示を思い出すが、直接確かめろと言われても、というのが正直な感想だった。確かめてみて、決定的な拒絶の言葉を向けられたらどうしよう。だからわざわざ報告したのに、彼女は一つも役に立つアドバイスをしてくれなかった。
「ロロ、どうした?」
ルルーシュの手のひらが頭に乗せられる。ロロはぐっと息をのみ、このままでは何も進展しないと意を決して口を開いた。
「兄さん、最近僕のこと避けてるよね」
問いかけると、ルルーシュが目を見開く。
「ねえ、どうして?理由、聞いてもいい?」
畳み掛けるように続ける。ルルーシュはあからさまにしまったという顔で視線を逸らした。ロロは強く彼の服を引く。
「僕に悪いところがあるなら直すから、言って。兄さんに嫌われたままじゃ僕…」
任務にならない、と胸の内で呟く。
しかしそんな事情など知る由もないルルーシュは、小さく震える弟の姿にショックを受けたようで、あわあわと両手を広げた。
「な、何を言ってるんだ…。俺がロロを嫌いになるわけがないだろう」
「だって兄さん、僕が触ると嫌そうな顔するじゃないか」
「誤解だ!」
「じゃあ説明してよ!」
きっと睨みつけると、ルルーシュは困ったように黙り込む。ロロは胸の辺りがむかむかするのを感じた。
「やっぱり兄さんは僕のことが嫌いなんだ」
声が低くなる。誤解だというくせにまともな説明もしないなんて、それでどうして信じろというのだろうか。
ぶん、と苛立ち任せに服を離す。そのまま足元を見てじっとしていると、段々喉が熱くなってきた。それが怒りからなのか悲しみからなのか、ロロには判断がつかなかった。ただ様々な感情が渦巻いてひどく息苦しい。
う、と声が漏れると、突然ルルーシュがしゃがみ込んで目線を合わせてきた。
「分かった。俺が悪かった。ちゃんと話すから、だから泣くな」
子どもをあやすように何度も頭を撫でられ、ロロはぽかんとルルーシュを見返す。
(泣く…?)
ロロは片手で目元を擦ってみるが、勿論濡れてなどいない。呆然とするロロに、ルルーシュは頬を寄せて離れる。キスされたと分かったのはそれから数秒後だった。
胸の前で手を握り締めたまま、ルルーシュを見つめる。彼はソファの縁に手を突いて、床に向かって大きく息を吐いていた。何度か深呼吸をして落ち着いたのか、下から真っ直ぐにロロの目を見上げる。
「話すからには真面目に聞いてほしいんだが、いいか」
いやに真剣な瞳にこくりと頷く。
「前に、二人でケーキを作ったことがあっただろう?そのときから、その、言い難いことなんだが、お前のことを意識するようになってだな…」
「意識?」
「ああ、だから、お前に触れたいとか…。キスしたいとか…」
ごにょごにょと言葉を濁すルルーシュに、ロロは首を傾げる。
「触れたい。キスしたい」
反芻すると、居た堪れない様子のルルーシュが横へ目を逸らした。頬が赤い。
ロロはルルーシュの顔を観察しながら、彼の言葉を繰り返した。だが意味が分からなかった。スキンシップもキスも、彼との間では日常茶飯事の出来事なのだ。今更照れる理由もなければ、意識されるのも分からない。
ロロはしばらく考え込み、あ、と声を漏らした。
「そういうこと?」
びくっとルルーシュの肩が跳ねる。ロロはぱちくりと目を瞬かせた。こんなことで悩んでいたのか、という驚きと共に、今まで胸の奥でもやもやしていた気持ちが嘘のように晴れていく。ふわりと顔が笑みを浮かべるのが分かった。
ロロは目の前で顰められている綺麗な顔に手を伸ばす。手のひらで柔らかく包み込むと、深紫の目が見開かれて細かく震えた。それがこちらへ向けられるのと同時に顔を近づける。
ちゅ、と唇に音を立てて離れる。ロロは唖然とするルルーシュに笑いかけた。
「こういうことなら早く言ってくれればよかったのに。僕、兄さんになら何をされてもいいよ。だって僕達兄弟でしょう」
兄弟というものは喜びも悲しみも分け合うものだと、何かの本に書いてあった。
それは恐らく、一人が持つものをもう一人に分け与えるという意味なのだろう。スキンシップも端的に言えば熱を与える行為なのだから、その延長線にあるものを拒む理由もない。むしろ喜んで受け入れるべきことだろう。
理解してしまえば簡単だ。今まで散々悩んでいた自分が馬鹿らしい。だがおかげで却ってすっきりした。ロロはにこにことルルーシュの反応を待つ。
ルルーシュはあんぐりと口を開けていた。
「に…」
どうにかこうにか搾り出し、がくっと大袈裟に肩を落とすとルルーシュは頭を抱えた。
「兄さんは、ロロをそんな子に育てた覚えはありません…」
泣きそうな声だった。ロロは何か間違えたことを言っただろうかと、ルルーシュの肩に触れ顔を覗こうとする。
すると溜息を吐いたルルーシュが首に腕を絡めて身体を寄せてきた。じわりとシャツ越しに伝わる熱に、ロロはやはり間違っていなかったと肩を竦めて目を閉じる。一時はどうしようかと思ったが、元通りの関係に戻ってよかった。ルルーシュも一層こちらに依存するようになったし、監視も今まで以上にやりやすくなるだろう。
顔中に乾いた唇の感触を受けながら、ロロは自分の仕事に満足する。ふふ、と笑みをこぼすと、熱っぽい表情のルルーシュが、うっと声を詰まらせた。
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