愛のとりこ



リミットは後夜祭だった。
スザクが張った罠は、恐らくルルーシュが記憶を取り戻しているという決定的な証拠を導いてしまうだろう。
自信に満ちたわけでもない、ただ確信しきっているスザクの様子に、本能が騒いだ。
ルルーシュは十分すぎる演技で彼を欺いているが、それでもどうにもならないことはある。人間なんて、ちょっと脆いところを突けば簡単に崩れ落ちてしまうのだ。きっとルルーシュはスザクには勝てない。罠を回避するのに、第三者の力が不可欠なのは明らかだった。そして今彼を助けられるのは自分しかいない。
決めなければならない。機情か、ルルーシュか。
「違うだろ、ロロ」
「えっ?」
びくりとして顔を上げると、ルルーシュが眉を八の字にして笑っていた。
咄嗟に握り締めるナイフに、彼の白い手が伸ばされる。
「こんな持ち方じゃ危ないだろう」
するりと避ける間もなく拳を包み込まれる。そのままナイフごと向こうへ持ち上げられて、初めて自分がナイフを逆手にしていたことに気づいた。ハッとして息をのむが、ルルーシュは気にした風もなく優しく微笑む。
「ほら、こう持って」
冷えた指先が、硬直する手からナイフを外す。
「あ…」
一瞬でも武器を奪われたことに動揺してしまうが、彼はナイフの向きを返るとすぐにロロの手に収め直した。きゅ、と手のひらを重ねて柄を握らされる。それは、今この場に相応しいナイフの持ち方だった。
ロロは慌てて取り繕いながら首を傾げて見せる。
「え、えっと、こう…?」
「ああ。こうやって刃を当てて、親指で押さえて」
ルルーシュにされるがまま指を動かす。
その位置を直すように、彼の指が重なる。湿った感触。山のように積まれたジャガイモを剥いているうちに濡れて冷えたのだろう。そういえばいつもは華のような匂いのする肌も、すっかり芋独特の香りが移ってしまっている。綺麗な手なのに、と少しおかしくて頬を緩めた。
これだけの量を剥けば、しばらくは匂いが取れないだろう。クラブハウスに戻った後、ミレイに隠れて悪態を吐く姿がありありと思い浮かんだ。大体会長は人遣いが荒すぎるんだ。そう言いながらも、彼が本気で迷惑がっていないのを自分は知っている。だから苦笑して彼の話に耳を傾ければいい。確か戸棚には昨日のクッキーが残っているはずだから、帰ったら一緒に紅茶を入れてあげよう。
そこまで考えて、ロロは不意に顔を翳らせる。
ルルーシュがくれると言った未来。人殺しのない、穏やかな日常。本当は、迷うまでもなく最初から決まっていた。
けれど自分の中の冷静な部分が、ルルーシュを信じてもいいのかと警鐘を鳴らす。
あのテロ騒動の時、彼は戸惑うことなくこちらへ銃を向けた。明確な殺意を持って見下ろす赤い瞳。ぞっと背筋が震えた。これがゼロか、と思った。バベルタワーの事件からその瞬間まで、彼は完璧な兄の顔で自分に接していた。甘い笑みで頭を撫で、抱き締めながら、腹の中では偽りの弟を始末する方法を考えていたのだ。
あの時と今は違うのだと、どうして言い切れることがあるだろうか。
また騙されているのかもしれない。利用されそうになっているのかもしれない。疑い始めると止まらなかった。
もう時間がないのに――。
「ロロ?どうした、ぼうっとしてると指を切るぞ」
唐突に覗き込まれ、思わず身を竦ませる。びくびくと不自然な反応を返す自分を、彼は下から見上げ、安心させるようにふっと目を細めた。
「怪我をしたら大変だからな。小さな切り傷は意外と痛いんだぞ。化膿することもあるし」
「うん…」
「あまり心配させるな」
ふわりと手を包まれる。触れ合った皮膚から緩い熱が染み込んできて、とくんと心臓が鳴った。
一年間自分に触れ続けた兄の体温が、記憶が、波のように押し寄せてくる。薄暗い血の色しか知らない自分には眩しすぎる毎日だった。正直任務が始まった当初は鬱陶しいと思っていたのに。いつの間にこんなに心地よく感じるようになってしまっていたのだろう。
ロロは瞼を伏せる。兄の体温をもっと強く感じたいと思って、分かった。
自分はこの手を離せない。離したくないのだ、絶対に。
「…ねえ、兄さん」
恐る恐るルルーシュを見上げる。
ん、と首を傾げる彼に不安が頭をもたげるが、胸の奥で無理やり抑えつけた。息を吸い、口を開く。
「僕のギアスには、弱点が…」
途端ルルーシュの表情が変わる。
ああ、と思った。少しだけ剥げ落ちた仮面。けれどもう引き返せない。引き返すつもりもなかった。
「兄さんにだけは知っておいてほしいんだ」
「…いいのか?」
「うん。きっとこれは必要なことだから」
ギアスという絶対の武器を差し出すことは、自らの命を差し出すことと同じだった。ギアスがなければ自分は何もできない。戻るべき嚮団にも帰れない。
(これで、信じてもらえるだろうか)
もう自分にはルルーシュしかいないのだ、と。
心は決まった。騙されても利用されても構わない。側に置いてくれるならそれでいい。機情だって裏切ってみせる。あの人にも逆らえる。大丈夫。怖いことなんて何もない。何でもできる。してみせる。
だから自分にも信じさせてほしかった。
彼の言葉。彼がくれると言った、平凡で穏やかな兄弟の未来を。

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