大丈夫と言ったくせに、ロロの呼吸はいつまで経っても治まらなかった。
右手を胸に当て、苦しそうにぜいぜいと繰り返している。息が上手く吸えないらしい。まるで全力疾走でもしてきたかのようだ。流石に心配になり、ルルーシュは狭いロッカーの中で何とか腕を動かしてロロの後頭部へやった。そっと撫でてやると、ロロが緩々と目を閉じる。
単に安心しただけなのかもしれない。けれど何かを思わせるその表情を見ていたら、自然と身体が動いていた。
すうと顔を近づけ、頬に唇をつける。柔らかな感触を辿りながら唇の端へ、そしてロロが漏らした声を飲み込むように直接口づけた。啄ばむ隙間から熱い息と言葉になりきらない声が溢れる。ふあ、とロロが滅多に聞けない幼い反応を返すので、つい夢中になりすぎてしまった。
「ちょっと、兄さん。苦しい」
胸を押し返されて、ロロの状態に気づく。
「悪い」
「ううん、大丈夫。ごめんなさい…」
ルルーシュは眉を寄せる。最近気づいたのだが、ロロは何かあるとすぐ大丈夫と言う。しかも『大丈夫』でないときに限って。
「苦しいのか?」
背中をさすってやると、彼は額をルルーシュの胸に預けてきた。少年一人分の重みに、音を立てないよう注意して後ろの壁面へ寄りかかる。
「ごめんなさい。すぐ治まるから」
「普段からこうなのか?」
二三度、のろのろと首を振る。
「今回は特別だよ。学園中の人間を止めるなんて、普通そこまですることはないから」
薄い肩が大きく上下する。ルルーシュは制服の背中を何度もさすった。少しは楽になってくれているといいのだが、青い帽子が邪魔でロロの顔は見えない。ただ相変わらず彼の右手が胸元で握り締められているのは分かった。
「兄さん、時間が…」
俯いたままのロロが僅かに身じろぐ。
「兄さんは早く地下に行かないと」
「気にするな。まだ咲世子は待機中だから、俺は動けない。お前が落ち着くまでここにいるよ」
離れようとするロロを留め、微笑む。本当なら髪にキスをしているところなのだが、眼前に迫る帽子が行く手を遮った。内心苛々するルルーシュの気配を勘違いし、彼は申し訳なさそうに縮こまる。
「本当にごめんなさい。やっと兄さんの役に立てると思ったのに、これじゃ足手まといだ」
「ロロ、そういう言い方は止めろ。それにお前は十分役に立ってるよ」
「兄さん…」
ロロがふらふらと頭をもたげる。その顔色にルルーシュはぎょっとした。
「お前、真っ青じゃないか!」
「兄さんそんな大声出したら見つかっちゃうよ」
胸を押し返され、咎めるように早口で囁かれる。はっとして外の気配を窺う。しかしそうしたところで察知能力はロロの方が遥かに優れているので、ルルーシュは黙って彼を見下ろした。
真剣な顔で神経を集中させていたロロは、数秒後静かに平気、と呟いた。ふらりと上体が傾く。
「おい」
ルルーシュは彼の身体を抱きとめながら、顔を覗きこむ。帽子がくにゃりとなって頭から落ち、ロロの分も巻き込んで転げていく。ロロが、あ、と視線で追う。
「ロロ」
そんなものはいいから、とこちらを向かせる。ルルーシュの胸に頬をすり寄せて、ロロは上目遣いに見上げた。だらりとした仕草に汗のにおい。身体を動かすのも億劫なのかもしれない。
張り付いた前髪を優しく払い、額に手のひらを当てる。
「熱なんてないよ。ちょっと苦しいだけだから」
ロロは苦笑して瞼を伏せる。
「すぐ治る」
「治ってないじゃないか」
小刻みに手の中の肩が揺れる。
「笑うな。心配してるんだぞ」
「うん。ねえ、じゃあ一つお願いがあるんだけど」
長い息を吐き出し、ロロはぽつりと呟いた。菫色の目が彷徨う。ルルーシュが何だ、と返すと、言いにくそうに視線を逸らした。
「胸、さすってくれないかな」
ちらりと見上げる瞳は、涙で潤んでいた。
苦痛に歪む眉や、暗闇でも紅潮しているのが分かる頬が、ルルーシュに違うものを連想させる。ぞわりと芯が疼く感覚に困惑した。勿論そんなはずがないのは分かっている。けれど薄暗い密室、触れ合う身体、疲れきったロロの態度と、何故かそれらしい条件が揃ってしまっていた。しかも悪いことに、乱れた呼吸が沈黙の中を反響する。
(何だこれは。俺にどうしろと言うんだ…)
あまりに出来過ぎた状況に、軽いパニックに陥る。一瞬の間に様々な可能性が駆け巡ったが、ルルーシュはそのどれも実行することができなかった。
硬直し続けていると、耐えかねたらしいロロが辛そうに胸元の拳を握り締める。
「あの、心臓が痛むんだ。締め付けられるみたいに。だから…」
ルルーシュはほっと息を吐いて、ロロの頬を撫でた。よかったと思う反面少し残念な気もしたが、今はあまり考えないことにしておく。
「これでいいのか?」
制服の平坦な胸に手を添え、上下にゆっくりとさすってみる。当然こんなことはナナリーにはしたことがなかったから、合っているのかどうか分からない。不安になって覗き込むと、ロロは目を細めて深呼吸を繰りかしていた。薄く長く息を吸い込み、また同じ速度で吐き出す。依然として眉間には皺が寄ったままだったが、それでも初めよりは随分落ち着いたように見えた。徐々に強張っていた肩の力が抜ける。
「うん…大分楽になってきた」
微笑み、ロロは足元の帽子を踏まないように体勢を立て直す。ふっと消えた重みが寂しさとして胸を突くが、それまでだった。
ロロが頑なにもう平気だと繰り返すので、ルルーシュは手首の時計を確認する。偽ルルーシュが囮を開始する時間はとうに過ぎ去っていた。ロロが扉越しに教室の気配を探る。
「誰もいないよ。廊下まではちょっと分からないけど、足音がしないから出るなら今のうちかな」
言いながら、ガチャンと扉を開ける。差し込む光が眩しい。新鮮な空気が身体に入ってきた。
ルルーシュを外へ出すと、ロロは腰をかがめて二つの帽子を拾った。ぱんぱんと埃を払って、片方をルルーシュの頭へ被せる。髪をいじったり帽子の角度を調節したり、熱心に手を動かしていたが、やがて気が済んだらしく満足げに笑った。
「すごい。兄さんは何でも似合うね」
「こんな帽子が似合っても嬉しくない」
くすくすと肩を揺らしながら、ロロも帽子を被る。大きなハート型のそれは重心がずれやすく、ちゃんとしないとすぐにくたりと曲がってしまう。ルルーシュはどうしようか迷ったが、今にもずり落ちそうになっている様子に、手の方が勝手に動いていた。
「え、いいよそんなの」
「よくないだろ」
慌てる彼を無視して、綺麗に被せ直してやる。
自分のことになると途端に適当になるロロは、人の庇護欲をよく煽った。記憶が戻った直後はそれも演技かと思ったのだが、どうやら元々の性格らしい。切り傷を放置したり、爪を伸ばしっぱなしにしたり、シャワーの後に髪を乾かさなかったり――。
ハラハラするのだ。一時期は憎くて憎くて堪らない相手だったというのに、自分の世話焼きが災いして、気づいたらこんなことになってしまっていた。本当に溜息を吐かずにはいられない。いつ捨ててやろうかと画策していた頃が遠い昔のようだ。
「よし、できたぞ」
ぽんと肩を叩いてやると、ロロが帽子を確認するように目線を上へやった。そうしたところで見えやしないだろうに、律儀な仕草に頬が緩む。思わず手を伸ばしかけたところで、ロロの目がルルーシュを映した。うん、と語尾上がりに促すと、大きな菫色が恥ずかしそうにはにかむ。
「ありがとう、兄さん」
不意に心臓が跳ねる。ルルーシュは驚き口元に手をやった。早まる鼓動に動揺して顔を逸らしたら、ロロが不思議そうに見つめてくるので、意味もなく咳払いをしてしまう。
「ロッカーの中、埃っぽかった?」
「ああ、少しな」
答えながら、ロロを横目に見る。日の光を浴びる彼は、薄暗いロッカーの中にいるより健康的だった。
「うわっ、何?」
前触れなく唇をなぞってやると、ロロが素っ頓狂な声を上げて後退る。ルルーシュは噴出した。
「さっきまで真っ白だったからな。もう色も戻ってきて、よかった」
ロロはぱちくりとルルーシュを見上げた。
しばらくそうしていたが、そのうち何を思ったのか、ふっと微笑んで自身の胸元を指先で掠める。平気だって言ってるのに。そう呟き、握り締めた指を下ろす。
「本当、兄さんは優しいよね」
ルルーシュは眉を顰めた。柔らかい物言いなのに、どこか責めるような棘を感じる。不穏な空気が足元を取り巻いた。ロロ、と呼びかけると彼は緩く微笑む。強い違和感が募る。
ロロは無表情に近い笑みのまま、すいと外へ視線をやった。
「だからずるいと思うよ」
ざわざわとした喧騒が遠く聞こえる。
「何が…」
ロロが横顔のまま視線だけを寄越す。てっきり怒っているのかと思った瞳は、悲しそうに歪んでいた。
あ、と反射的に口を開く。けれど結局無意味な音が漏れただけだった。何も言えないルルーシュに、ロロは傷ついたような、失望したような様子で顔を逸らす。ふっくらとした唇が動いた。
「兄さんは僕に優しくしてくれるでしょう?僕が甘えるのを許すでしょう?」
睫を伏せ、ゆらゆらと瞳を波打たせる。
「勘違いしそうになるんだ。分かってるのに…。兄さんは誰にでもこうなんだ、って」
「いた!ルルーシュ先輩よ!」
きゃあ、という甲高い声が聞こえて顔を上げる。続いて響く数人の女生徒の叫びに、ロロが小さく舌打ちをした。
「兄さん、行って。早く」
背中を押されるまま廊下へ飛び出し、走り出す。通信機を耳に当てながら振り返ると、半ば殺気だった女生徒の前に立ちはだかる彼の姿が見えた。
「ちょっと弟君、邪魔しないでよ!」
「そうよ。私達はルルーシュ先輩を追いかけたいんだから」
「…あなた達、ルールを聞いてなかったんですか?」
恐らく不適に笑っているだろう彼は、腰に手を当てて彼女らを見据える。
「手を組むのは自由だって、会長が言ってたじゃないですか」
ルルーシュは前を向き走り続けた。離れた背後できゃんきゃんと女生徒が騒ぐ。彼女達が焦る理由も分かった。ロロの運動神経の良さは、兄の自分と対比して学園の誰もが知るところだったからだ。
「ずるいわよ!」
「どっちがですか。兄さん対学園全員って…。いくら何でも悪ふざけが過ぎますよ」
「何よう!弟君もこんなところにいないで、好きな女の子のところにでも行けばいいじゃない」
びくりとして耳を澄ませる。
好きな女の子。ひょっとしてロロにもいるのだろうか。会話の続きが気になったが、廊下の曲がり角は目前に迫っていた。聞きたい。だが生徒に見つかってしまった以上、少しのロスも許されない。けれど――。
立ち止まろうかどうか本気で悩み始めた頃、残念ですが、というロロの強い口調が聞こえた。
「僕の大事な人は兄さんしかいませんから」
廊下の角を掴んで急カーブを曲がる。その一瞬に視線をやると、こちらを見ていたロロと目が合って、すぐに真っ白い壁に消えた。
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