経験値



唇に温かいものが触れている。
不思議に思って目を開くと、ルルーシュの顔が大写しになった。あれ、と首を傾げる。おやすみのキスというのは頬や額だけでなく、唇にもするものなのだろうか。渡された資料を思い返してみるが、どこにもそんな記述はない。
ロロは動揺したが、まあ兄弟ならそういうこともあるのだろう、とあまり深く考えなかった。
目を伏せ、ちゅっと軽く啄ばみ返す。そのまま離れようとすると、何故かルルーシュが追いかけてきて再び唇が合わさった。
え、と思った直後、薄く開いた隙間から熱いものが滑り込んでくる。おかしい。今度こそロロは身に起こった異変を理解した。はっと目を見開くと、反応を窺うようにこちらを見つめている、深い紫があった。その奥にちらちらと閃く熱を見つけて、頭が真っ白になる。
聞いてない。
一番に思ったのがそれだった。まさかルルーシュにそんな趣味があるなんて、誰も言っていなかったではないか。
驚きのあまり無反応になっている舌を、絡め取るようにしてルルーシュが吸う。ぴり、と走る刺激にロロは我に返ったが、咄嗟の判断で放心したふりを続けた。
もしこれがルルーシュにとって初めての行為、つまり設定された兄弟の過去にも存在しない行為だったとすれば、反応を返す弟を不審に思う。逆に日常的に行われている行為だったとすれば、拒絶する弟を不自然に思う。どちらも避けておきたかった。
ロロは安易にルルーシュへキスを送り返したことを後悔する。あれは兄さん、と少し恥ずかしがって離れるのが正解だった。それから拗ねたふりで背を向けてしまえば、設定がどうだろうと彼が追ってくることはなかっただろう。うんざりする。
ここまで考えなければいけないなんて。だから潜入任務は嫌なのだ。
ぼうっと固まり続けるロロに焦れたのか、ルルーシュがロロの肩を押して仰向けにさせる。
ロロはされるがままになりながら、身体を離す彼を見上げた。顔の両脇に腕をついているので馬鹿に距離が近い。整った顔立ちなので間近で見るのは苦にならないが、流石にこの至近距離は居心地が悪かった。ロロが肩を丸めて怯えを覗かせると、ルルーシュの湿った唇が動く。
「どうしたんだ?」
低く掠れた声と口ぶりに、この行為が兄弟間で何度も行われていると察する。
それならば、とロロはおどおどと戸惑う仕草をして、やんわりとルルーシュを拒むことにした。
「や、やっぱり駄目だよ、兄さん。兄弟なのに、こんなこと…」
途端ルルーシュが厳しい顔をしたので、心臓が止まるかと思った。何か間違ったことを言っただろうか。発言の訂正を悩む間に、彼はぐっと顔を近づけてロロを覗き込んだ。
「お前、ひょっとして誰かに何か言われたのか」
「ううん。そうじゃ、ないけど」
真剣な瞳に気圧される。演技でなく身体を硬くしたロロに、ルルーシュはそうかと微笑んだ。腕の位置をずらしてロロの癖毛を撫でる。
「それならいいんだ」
「兄さん…?」
「他人が何を言おうと気にするな。俺達はたった二人の兄弟なんだから。ロロのことは俺が守るよ」
優しい口調で囁かれ、つい普段の癖でへらりと笑い返してしまった。
それをどうやら了解の意と取ったらしい。ルルーシュは身体を屈めると、ロロの耳と顎の境の辺りに吸いついた。
「うわ、ちょっと、兄さん」
慌てたのはロロだ。ルルーシュの肩に手を置き、形ばかりの抵抗をする。
これでルルーシュが引き下がってくれればいいのだが、生憎彼の方はロロが自分を受け入れるものだとばかり思っているから意味がない。それでもはっきりとしたロロの許可を得るまでは、素肌に触れるつもりはないらしい。パジャマの合わせをなぞったり、太腿まで手を伸ばしたりはするものの、一応服越しにさわさわと撫でるに止まっていた。
ロロは溜息を吐いた。今の状況なら熱を逃がしているように見えるだろうから、遠慮はしない。
今日は最悪続きだ。ここまで乗り気にさせてしまったら、もう受け入れるしかないだろう。諦めて天井を見上げると、模様に紛れて黒い点が見えた。監視カメラだ。今頃モニターの向こうではどんな騒ぎになっているのだろうか。ヴィレッタなどはああ見えて意外と潔癖だから、真っ青になっているかもしれない。
潔癖といえば、とロロは続ける。それを言うならルルーシュだって同じだ。清廉そうな顔をして、やることはしっかりやっていたのだな、とぼんやり思う。
そこでハッと立ち止まった。
よく考えてみれば、彼の性癖について説明がなかったということは、向こうもこの事実を把握していなかったことになる。それは彼の本当の過去に実経験がなかったか、もしくはあったとしても表に出ないほどのひっそりとした関係だったということだ。つまりそういう趣味はあったが、主体的に行動を起こしたことはなかった。
それが今回の設定ではおかしくなっている。
記憶の一番の変更点は、妹の存在。
ひくり、とロロは顔を引きつらせて、ルルーシュの旋毛を見下ろす。
もしかすると、彼の問題は同性愛ではなく兄弟愛の方にあるのではないだろうか。異性だからセーブしていた感情が同性になったことで溢れ出ているのだとしたら、ロロへ向けられる過度のスキンシップも説明がつく。
(うっわあ…)
ルルーシュの手は相変わらずロロの身体の上を彷徨っている。ギアスを発動させたい衝動を抑え、ロロはカメラを見上げた。
たとえこれが記憶の書き換えによる歪みだとしても、結果的に設定がそうなってしまっている以上、自分は従うだけだった。
(それなら、僕はラッキーだったってことかな)
散々仕込まれた身体なら、ルルーシュの好みに合わせてレベルを落としてやることもできる。だが逆はそう上手くいかない。これでもしロロが未経験だったなら、彼に植えつけられた偽りの記憶は瞬時に崩壊することになっていただろう。
(うん、やっぱり運がいい)
自然と漏れる自嘲に、ロロは弟の笑みと男娼の笑みを複雑に織り交ぜる。そしてルルーシュの頭に頬をすり寄せた。にいさん、と蕩けるように呟く。腰へ手を回してきゅうと服を掴むと、顔を上げた彼と目が合った。あからさまな熱をのせた瞳。
噴出しそうになるのを堪え、ロロは切なげに眉を寄せた。
「にいさん」
半ば獣のように噛みついてくるルルーシュを腹の底で笑いながら、薄い背中を抱き締める。
面白い。こうなったら、精々この男が喜びそうな『可愛らしい弟』の声で鳴いてやろうと思った。





からんからんからん、と手にしたペンが落ちる。
「…は、マジかよ」
モニター前の監視員が私語を漏らしたが、咎める気にもならなかった。
彼らの習慣である就寝前のキスが何故か唇に落とされたときから、部屋の空気は凍り付いていた。まさかあの彼にこんな性癖があろうとは。事前の調査でも一切そんな素振りは見せなかったくせに、モニターに映る彼はやけに手馴れていた。
いや、とヴィレッタは自分の思考を訂正する。違う。あれは手馴れているように見せられているのだ。
「兄さん、あ、やだ」
盗聴器が少年の声を拾う。
恥らうような、そのくせ思い切り熱を含んだ声。生白い肌や少女のような容姿もプラスすれば、気のない男でも簡単に溺れてしまいそうだ。身体のほとんどがルルーシュに覆われていることもあり、上からのカメラ越しでは本当に異性同士の濡れ場に見えた。事実、初めは顔を顰めていた監視員も、今ではしっかりとモニターに釘付けになっている。
ヴィレッタは手近の資料を丸めると、パンパンと注意を引きつけるように机を打つ。びくりと一斉に跳ねる後姿が思いのほか面白かったが、真剣な顔で彼等を睨みつけた。
「これは任務だ。お前等、妙な感情は挟むなよ」
イエス・マイ・ロードとぽつりぽつり返される。何て間の抜けた忠誠だろうか。ヴィレッタは重い溜息と共に、椅子の背へ体重をかける。
モニターに映るロロは、普段の彼からは想像もつかないほど艶めかしかった。
シーツをくしゃりと乱す爪先。絡みつく腕。しどけなく開いた唇に、上気した頬。涙で焦点の定まらない大きな菫色。何から何まで完璧だった。あの骨と皮ばかりの身体でよくここまで、と感嘆すらしてしまう。
彼の嬌態を全て演技と判断したのは直感であって根拠はないが、ヴィレッタは自分の勘が間違っているとは思わなかった。
「ああ、にいさん、にいさん」
甘い声が引っ切り無しに響く。徐々に呂律が回らなくなってきているのも、上手いとしか言いようがなかった。
ミス一つない彼の仕草は、相当な経験と慣れを思わせる。ヴィレッタは彼の経歴を思い返し、一人で納得した。
確かに手っ取り早く標的の懐に飛び込むのに、身体を開くのは効果的だろう。男なら避妊の心配もない。対象が同性を受けつけない可能性もあるものの、あの容貌なら成功率の方が高いだろうことは容易に想像できた。
ベッドの上で、ロロは恍惚とした表情でルルーシュを受け入れている。そのどこからも嫌悪の感情を見て取ることはできず、ヴィレッタは静かに目を伏せた。





翌日報告のために地下へ現れたロロは、普段と全く変わらない様子だった。自身の痴態を見られたという意識がないのだろう。やはり彼にとってあれは任務の一環に過ぎないのだ。
だが、こちらは違う。あれほど釘を刺しておいたというのに、ロロへ向かってちらちらと意味ありげな視線を送る男が跡を絶たないのだ。ヴィレッタが目つきを鋭くすると逃げていくのだが、これではロロが一人のときが心配だ。もし襲われるようなことがあれば、彼は間違いなく相手の局員を殺すだろう。
以前彼に、気絶させるだけにすることもできるのに何故そうしないのだと聞いたら、何故殺せるのに気絶させなければならないのかと逆に問い返され、閉口した覚えがある。
「一つ、言っておきますけど」
ハッと気づくと、ロロの手の中で小型のナイフがくるくると回っていた。ギアスを使った様子はない。
ヴィレッタは思考に耽っていた自分を一喝し、ロロの顔へ視線を移した。
「何だ?」
てっきり無表情だとばかり思っていた彼は、意外にも不機嫌を露わにしていた。
顰められた顔は彼の印象を幼くするが、同時に放たれる殺気も濃くさせる。そのアンバランスさが尚更ヴィレッタに気味の悪さを感じさせていた。
そっと息をのむヴィレッタを余所に、ロロは手の中の銀色の軌道を眺める。
「勘違いされると困るので一応言っておきますが、僕にそちらの気はありませんよ。単に『できる』というだけです。泳げるからといって、皆が皆水泳が好きとは限らないでしょう?」
「ああ…」
「本当に分かっているんですか」
ヴィレッタを胡散臭げに見遣る間も、彼の物騒な手遊びは止まらなかった。視線を外しているというのに、ナイフの軌道は綺麗な円を描き、少しもぶれる気配がない。しゅん、しゅん、と回転を続ける。
ロロはしばらくそうしてヴィレッタを見上げていたが、やがてぱしん、とナイフの柄を手に収めた。
「まあ、いいですけどね、何だって。どうせ処理するのはあなただし」
くるりと刃を持ち替え、何を思ったのか、押し付けるようにして指の腹でなぞる。赤い線を残しながら下まで撫できると、彼はナイフを手にしたまま親指を口に含んだ。味わうでもなくただ流れた血を舐め取る。
その仕草は、昨夜モニターで見たどんな仕草よりもいやらしかった。
指を離す瞬間、柔らかい舌が見える。
「これ、今日の調理実習でやったことにしておいてください」
ヴィレッタの方など見向きもせず、唾液に濡れる指を眺める。再びじわじわと滲み出す血液。指紋に沿って細く広がっていくそれに、彼はぼそりと呟いた。
「…久しぶりだな」
ヴィレッタは視線を逸らす。嫌な子どもだ、と思った。何がどうというわけでもない。ただ嫌な子どもだと思ったのだった。

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