追い詰め合い



「可哀想な兄さん」
そう呟いたロロの瞳には、嘲りも憎しみも浮かんでいなかった。
自分が駒として彼を利用したことはとっくに知れているだろうに。彼はただ静かにルルーシュを憐れんでいた。
さわさわと雨が落ちる。ロロは身体が濡れるのを厭う様子もなく、こちらへ歩み寄った。
愛しい弟である彼が心配して来てくれたというのに、ルルーシュは無意識のうちに足を引いてしまう。ロロの悲しそうな視線が下へ向けられて、ルルーシュは初めて自分の取った行動に気づいた。はっとして動きを止めると、安心したように彼の目元が緩む。ぎり、と強く奥歯を噛み締めた。
気分が悪い。これではまるで彼のペースだ。
もし彼が自分たちの関係を逆手にとっているのだとしたら大したものだが、恐らくそれはないだろう。彼は純粋に兄役であるルルーシュに依存しているのだ。だからこそ、その気がないのにルルーシュを追い詰める彼にも、追い詰められる自分にも腹が立つ。
数歩の距離を近づいてきたロロは、真正面からルルーシュを見上げた。
薄い菫色の目に鳥が羽ばたかないのを用心深く探りながら、ルルーシュは形ばかりに微笑んで見せる。
「どうしたんだ、傘も差さずに。風邪引くぞ」
その瞬間、瞳にのった憐れみの色がますます強くなる。
自分とナナリーの間に何があったのか察しがついているのだろう。可哀想な兄さん、とロロは眉を寄せる。
「妹なのに」
は、とルルーシュは自嘲した。
妹なのに兄の手を取らなかった。兄を拒絶した。それの何が悪いのだ。
「ナナリーにも自分の道を選ぶ権利がある」
「兄さんはそれでいいの?」
ロロの顔が小さく傾く。質問をするときに小首を傾げるのはナナリーの癖だ。外見だけはナナリーそっくりな少年に、妹の残像が重なる。
ルルーシュはそっと息を詰めた。
「いいも何も、ナナリーが選んだ道なら俺は…」
「僕は裏切らないよ」
唐突に割り込んできた言葉に目を見開く。
一年共に暮らしてきて初めて聞く強い口調だった。驚いて見ると、そこにいたのはおどおどと口ごもる可愛らしい少年でも、両手を血に染めた可哀想な子どもでもなかった。
「僕は兄さんが許すならずっと側にいるし、兄さんのためなら何でもする。駒でもいい。捨てられてもいいよ。もう迷わないから」
「お前…」
ぞっと背筋を冷たいものが走る。
囁くように笑う少年は、今まで見たどんな彼よりも残忍だった。うろたえるルルーシュに、彼はすっと表情を消す。
「心配なら、ギアスを使ってくれても構わない」
生白い指が、ゆっくりと自身の右目を覆い隠した。残された左の目がじっとルルーシュを見つめる。まるでルルーシュの赤い鳥を引きずり出そうとするかのように――。
「やめろ」
咄嗟にロロの手を掴む。
彼は無抵抗だった。ルルーシュは舌打ちをして、乱暴にその手を顔から引き剥がす。指の下から現れた右目は、左と同じ菫色をしていた。
ロロはよろけた身体を直すと、傷ついた顔で肩を竦める。
「もう兄さんに嘘は吐かないよ」
どうやらルルーシュが自分のギアスを危惧したと思ったらしい。ちり、と生まれた罪悪感をかき消すように、ルルーシュは頭を振った。
「お前は分かっていて何故俺に従うんだ」
「約束してくれたから」
「約束?」
「約束」
ロロは、やだなと視線を流す。
「忘れたの?兄さん、僕に未来をくれるって言ったじゃない」
それは彼を懐柔するために吐いた出任せだった。
黙り込んでいると、どんよりとした目がルルーシュへ向けられる。
「僕は騙されたなんて思わないから」
ロロの手が自然な仕草でポケットへ伸びた。しゃらりと指の先でロケットが揺れる。
彼が執着する誕生日プレゼント。あの中には一体何が入れられているのだろうか。愛しそうに、指がロケットの形をなぞる。
「あれから色々考えたんだ。兄さんのこと、ナナリーのこと、僕のこと。でも最後には、兄さんがくれる未来なら何でもいいやって思っちゃうんだ」
「…例え俺がお前を騙していたとしても、か」
ロロが緩く微笑む。ぴしゃと水溜りを踏んで、ルルーシュに身体を寄せる。
記憶を取り戻す以前は、よくこうして間近で見つめ合っていた。ロロが唯一の肉親であると思い込んでいたルルーシュにとって、何より恐ろしかったのはロロが自分の元から離れていくことだった。だから距離を詰めて、いつも一緒にいた。周囲からはロロの方が兄離れできないように見えただろうが、実際は逆だった。
「ね、兄さん」
不意に以前の彼の、砂糖菓子のような笑みが重なり、消える。
眼前の彼に表情らしい表情はなかった。能面のような無表情なら、あの可哀想な子どもが自我を押し込めるためにしているのだと思うが、そうではない。何もないのだ。何も読み取れない。何も感じ取れない。
これが少年のありのままの姿なのだろうか。だとすれば、自分は大変な読み違いをしていた。
呆然とするルルーシュを余所に、彼の大きな瞳が微かに細められる。
「僕が兄さんを守るよ。兄さんの望み通りに」
だから、僕に未来をちょうだい。ロロは囁いた。
ルルーシュは動揺した。この少年を、幼い頃から殺しを覚え込まされた孤独な少年だと、ちょっと優しくしてやれば簡単に落ちるものだと思った時点から間違っていたのだ。やはりリスクが大きすぎた。
ロロはその言葉通りルルーシュを守る駒になるだろう。確かにそれはルルーシュの望みだが、思惑からは大きく外れてしまった。自分は彼が何も気づかないうちに使い捨てて、惨めな姿を笑ってやるつもりだったのに。
「ロロ…」
もう彼は自分の思い通りにはならない。兄弟ごっこも駒も、彼の意思そのものになってしまった。
ゆらりと菫色の瞳が近づく。ルルーシュは逃げなかった。逃げてはいけないと脳が警鐘を鳴らしていた。
「好きだよ、兄さん。愛してる」
吐息がかかる。唇が触れる寸前、そのときロロは笑っていた。

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