* * * *

 あまりの蒸し暑さに耐えかねて、ジェイドは窓を開け放した。
 まだ雨に降り込められる季節は過ぎていないのに、もう夜になってもあまり気温が下がらなくなっている。本格的な夏のほんの手前、じっとりと湿気の絡み付いてくるような嫌な暑さが、この西日で畳の焼けた八畳間に渦巻いている。

 ジェイドは少女のようにぺたりと膝を崩し、窓の桟に顔を伏せた。張り出したアルミの柵に頭を持たせかけていると、風の通る外気が生乾きの髪をなぶってかすかな冷ややかさを感じる。もっとも、夜中になっても大型車の行き来が途絶えない国道沿いの空気は、それほど心地いいものでもなかった。

「……おい、窓、閉めろ。風入んねえし臭えし」

 だらしなく窓に懐いていると背後から同居人の声がした。ジェイドはのろのろと顔を上げると振り返った。

「……いま開けたばっかりだから、もうちょっと」
「早く閉めろよ」

 Tシャツと下着だけのスカーフェイスが険しい目でこちらを見ていた。別に怒っているわけではないだろう。ただ、なんとなくやる気を削ぐ、このまとわりつくような不快感が、室内の雰囲気を尖ったものにしていた。

 ジェイドはまた外に向き直ると桟に頬杖をついた。見上げた先、七夕のはずの夜空は、暗い。いまの時期、この地でからりと晴れ上がった空はあまり望めない。だけど、たとえ雲ひとつない夜だったとしても、星はいくつ臨めるだろう。こんな開発の途中みたいな山道でも、空気は排ガス臭く、空は澱んでいる。ジェイドは写真のなかでだけ見たことのある天の川を頭上の空に重ねてみようとする。だけど、想像すらできそうにもなかった。あんなにたくさんの星が帯状に輝く夜は、ジェイドにとってただの知識のなかだけの産物だ。

「――おーい。早く閉ーめーろー」

 スカーのやる気のない声が、ジェイドを咎める。振り返らずにいると、立膝をついたスカーが背後ににじり寄ってきた。一回り大きな体が背中にかぶさる。太い腕がわざと体温をなすり付けるように胸に絡みついてくる。

「……暑いよ、スカー」
「ああ、まったくだな」

 背後から抱きすくめて尖ったあご先をジェイドの頭の上に乗っけたまま、スカーがしゃべる。かくかくと頭上で動く重みに、ジェイドは文句を言った。

「重い、暑い。痛い」
「あ、そ」

 スカーは重石のように動かない。表情は見えないけれど、なんとなく薄笑いを浮かべてるんだろうと想像がついた。どうせまた面白がられている。自分だって暑いくせに……。ぺたっと背中に張り付いてくる体温は、互いの背中と腹の間でさらに蒸したような熱を帯びる。せっかく体を流した後なのに、もう肌とシャツがにじみでる汗と皮脂でねばりつくような感じがする。どうしようもない煩わしさを感じながら、ジェイドは諦めてため息をついた。

「……勝手にしろよ。馬鹿」
「なんか言ったか」
「もういいよ別に……。――なあスカー。今日、七夕だって」
「ああ、そういや七日か――けど、まあ、七夕もクソもねえな。天気も悪ぃし空気も悪ぃし」

 スカーが辟易として言った。その言葉にうなづきながら、それでもジェイドは暗がりに目を凝らしてみる。七夕がなんなのか、本当はよく知らないまま、ジェイドは生まれてから一度も見たこともない光の帯に思いを馳せる。この澱んだ空気と雨雲の向こうに、星の群れがあるはずだった。本のなかでだけ知っている、銀砂をぶちまけたような空が。

「なあ、七夕……って、本当はなんの日なんだっけ」
「さあな。短冊に願いごと書いて笹に吊るす日じゃねえの」
「なんで」
「知らね」
「そっか……」

 意味のない会話はみじかく途切れる。星のない夜には、掛ける願いすらない。そのまましばらくの間、ふたり重なり合って窓に張り付いていた。

(願い、か)

 あまりジェイドは欲がない。飢えていない、悪意に晒されていない、眠るところがある。まして仲間と一緒にいられるのなら、そこになんの不満があるだろう。

 ――不満はないけど、希望もない。

 そんなふうに、ただの言葉の連なりにしてしまえば、なんだか酷くうそ寒い気がする。

 だけど、こんなぬるま湯に浸かっていられるだけの時間を得ることはたやすいことではないことをジェイドは知っている。だからこそ、形のない願いよりも今日の暮らしに感謝する。明日の生活にほんのすこしだけ望みを託す。その先は、まだ考えない。たぶん、これからも時間だけはうなるほどあるのだから。

「――もう、窓閉めようか」

 身動きを取れないまま、ジェイドは身をよじった。

「だな。――ちゃんとお星さまにお願いしたか? 坊主」
「……スカー、願いごとなんかしたのか?」
「してねえのかよ。七夕とかてめえから話ふっといて」

 口調は呆れている。だけど、スカーは笑っている。背中にくっついた腹筋がふるえている。なんだか、すこし楽しそうだ。

「なに願ったんだ」
「シャワーがあってもっと湯船のでかい風呂のある部屋に引っ越したい。疲れとれねえし」
「……案外スカーってリアリストなんだな」
「あ? おれさまほどのロマンチストはいねーよ。おれはただ、不自由しなくて済むならそうしてえだけ。――おまえはどうなんだよ」
「おれは……割と満足してるかな。今日のところは」
「なんだ、そりゃ」
「なんだろうな……。でも、そう思う」

 ジェイドを抱え込んでいた熱がふっと離れる。スカーの拘束がゆるんで、ジェイドに巻きついていた腕が窓を閉めようとサッシに伸びた。

 その腕を掴む。滑らかな肌ににじむ汗。手のひらに吸い付いてくる。よく鍛えられた、飾り物ではない筋肉のついた腕。自分よりもすこし大人の太い腕。

「あ、そうだ……。思いついた。願いごと」
「なんだ」
「もうすこし背が伸びますように」
「く。……ガキ」
「悪かったな」

 腕を取って振り返る。立膝をついたスカーと目があう。穏やかな目つき。たぶん、自分では気づいていないはずだ。なんとなく思う。かれは自分のそういうところを認めたがらない。どうしてかは分からないけれど。

 腕を引いて顔を寄せて、唇を合わせた。暑いから、それ以上くっつかずに唇がかすめるだけの挨拶みたいなふれあいをなんども繰り返す。なんとなく、こういうの好きだな、と思う。

 ジェイドはスカーの手首を手繰り寄せて、自分の下半身に押し付けた。その強張りきった感触に、スカーはすこしぎょっとした顔で目を見開いた。

「……マジですか」
「だって、ずっとくっついてたし……、しょうがないだろ」
「このクソ暑いのに。元気だな」

 クッとちいさく鼻で笑われた。すこしむっとしたけれど、その通りだという気がする。恥ずかしい。スカーはジェイドの表情を見てさらに唇をゆがめながら言った。

「まあ、いいか。……おまえさ、そこ、座んな。窓、もたれてさ」
「ん……」

 言われるまま、壁を背にもたれた。結局まだ閉めていない窓枠に上半身がはみ出す。ジェイドは窓の桟に両肘を掛けてだらしなく脚を投げ出した。その間に、四つんばいになったスカーが割り込んできた。

 下着に手が掛かって、なにをしてくれようとしているのか察しがついた。いつになく気恥ずかしくて、ジェイドはのけぞるようにして窓の外の空を眺めた。空は、昏い。相変わらず星ひとつなく、空気は澄んでおらず、風は生ぬるく、なんとなく排ガス臭い。

「ちゃんとお星さまに祈っとけよ。もっと大きくなれますようにー、ってな」
「うるさいな。おちょくるなよ……」

 スカーがくふ、と鼻で笑う。だがそれ以上はなにも言わなかった。その代わり、ジェイドの下腹部にぬるりと包み込んでくる生温かい感触があった。

「んんっ……」

 ジェイドも口をつぐんだ。なにもない空を眺めながら、感触を味わう。圧迫してくる唇の輪が、亀頭の先端が擦れる口の天井が、滑らかに動く舌が、頬の内側の柔らかさが、気持ちいい。もうなんどもしている。他人に言ったらきっと呆れられるくらいやっている。だけど、いつまでたっても気持ちがいい。これは、どんなに美味い物を腹いっぱいに食ったとしても、翌日にはまた腹が減るのに似ていた。どんなに満足しても、また飽きることなくしたくなってしまう。

 スカーが慣れた手つきでジェイドを昂らせる。唾液を塗り広げるように大きな手が茎を包み込む。親指が先端からにじみ出る液をくるくると馴染ませるように動く。体までつなげる気がないのか、焦らすようなことはしてこない。でも、まだ終わりたくなかった。もっともっとこの感触を長引かせたくて、ジェイドは我慢する。ささやかな駆け引き。

 ジェイドは空を見たまま、手探りでスカーの髪に指を差し入れた。スカーのほうを見たら、自分の肉茎を咥えてる顔なんて見たら、一瞬で放出してしまいそうな気がする。口のなかの湿った温かさは、肌に纏わりついてくる不快感とは異質の熱を帯びてジェイドを魅了する。

 手や唇で擦られ、時に吸われ、いつもの突き上げるような射精欲とは異質の、ぐずぐずと解けていくような快感があった。汗でぺったりとしおれたスカーの髪を片手でかるく掴みながら、ジェイドは不自然な格好でのけぞる。もっと首を反らすと、アルミの柵を通していつもの夜景が逆さまに見えた。

 ぽつぽつと等間隔にならんだ国道の街路灯。半端な更地と、その向こうの夜目にはうっすらとしか分からない山の稜線。眺めるほどの風景もなにもない。だけど、この窓に切り取られた景色にいくばくかの愛着はあった。

「う、あっ……スカー……」

 ジェイドは目を伏せた。スカーの肉茎を上下する唇の圧迫が、手の速さが、ジェイドを追い詰める。だんだん、限界が近づいてくる。快楽自体を楽しむことよりも、もっと追い上げるような、急き立てるような射精欲で頭がいっぱいになっていく。

「も、イく、あっ……」

 きつく吸われる。スカーの頭を抱き、かたく目をつむって、仰け反らしていた体をふるわせながらジェイドは達した。

「あ……」

 精子と一緒になにかが抜け落ちたような気分で、ジェイドは薄目を開ける。そこには相変わらずの夜空があった。

 スカーが口元をTシャツの裾でぬぐいながらもぞもぞと起き上がる。かれは立ち上がって柵に手を掛け、夜空を仰ぎ見、ジェイドを見下ろした。

「――ちゃんとお祈りしたか?」
「忘れた……」
「バーカ」

 スカーが笑う。ジェイドもつられるように微笑んだ。

 ジェイドは夢想する。この空の向こうにある星の群れを。それは遠く隔てた生まれ育った故郷へ、育ててくれた人がいる場所へ、続いているはずだった。だけど、いまはなにも見えない。願う星はなく、そこにはただ黒々とした夜が横たわるだけだ。

 だけど、そこには確かな生活とささやかな安寧があった。一人じゃない。ひとりでは、立っていられない。

 星もなく希望もなく、だけど、この夜と共にあるものが、何もかもいとおしかった。

『スターレス』update 20080712