「今夜、私の部屋に来るか?」
 と問われ、私は喜びを抑えきれずに微笑んだ。
 跪いている私の頭に手のひらの温もりが降ってくる。陛下の表情を窺えば、甘く優しい笑みを浮かべていて。
 私達以外誰もいないとはいえ、王の間でこんな行為に及ぶなんて――思いつつ、胸の高鳴りを堪える術を見つけることはできない。
 頤を撫でる指先に全ての感覚を預けながら、私は静かに口づけを待った。




 初めて私が陛下と関係を持ったのは、もう随分前のことだ。
 セシルが幼子だった頃のことだから、約二十年前のことになる。
 そうか、あれからそんなに経ったのか。
 ぼんやりと月を見上げて物思いに耽っていた私の背に、
「ベイガン」
と、陛下の声が降ってきた。
 はだけたままだった夜着の前を慌てて合わせ、陛下が腰掛けているベッドへと駆け寄る。
 手を引かれたと思ったら、バスローブを纏った彼の胸元へ頭を抱き寄せられていた。

 セシルの名付け親は、彼を拾ってきた陛下自身だった。
 城の前で泣いていた赤子はとても整った顔をしていて、陛下はセシルを溺愛した――そんな毎日の中、私はあることに気付いた。
 セシルの顔は、昔、バロンに居た女性に瓜二つだった。
 育てば育つ程、セシルの顔は彼女にそっくりになっていく。髪の色こそ違えど、セシルの顔は彼女そのものだった。
 大人になるにつれ、私は「陛下はあの女性を愛していたのだ」と思うようになった。「彼女を忘れられずに、セシルを拾ったのだ」と。
 それだけならまだ良かった。いつからだろう、私はセシルと彼女に嫉妬のようなものを覚えるようになっていた。

「何を、考えている……?」
 私の体を貫き、慣らすように中をゆっくりと拡げながら、彼は私に問うてきた。月明かりに照らされて、彼の瞳は緩く煌いていた。
「何で、も……ありません」
 上ずる声を抑えながら笑ってみせると、「そうか?」と訝しげな顔で頬に口づけられた。どきり、胸が鳴る。彼の背に腕を回しながら、「貴方のことを思っていたのです」と呟くと、くすくすと彼が笑い出した。
「……私なら、こうして目の前にいるだろう。それともお前は、思い出の中の私の方がいいとでも言うのか?」
 そんな、まさか。
 内壁を擦られ、答えは喘ぎにかき消されてしまう。彼の腰に足を絡めれば、深い水の中へ沈んでいくような、そんな感覚に襲われた。濡れた音、彼の息遣い。その全てが、私の体を果てへと導いていく。
 目を閉じると、青い海が見えたような気がした。




 目蓋の裏で、赤が瞬いていた。眩しい、明るい。
 目を開けた途端飛び込んできたのは、日の昇りきった明るい空だった。わけの判らない声をあげて飛び起きると、陛下が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「よく眠っていたな」
「……へ、陛下っ!今は、一体何時で……!」
「お前と夜を過ごすようになってからもう大分経つが、こうやってお前の寝顔を見たのは初めてだ。お前はすぐ、自分の部屋に帰ってしまうからな」
 ベッドサイドに視線をやると、時計の針は昼近くを指していた。
「この時間では、仕事が……」
「今日は体調が悪くて休む、とお前の部下に言ってある」
「……しかし」
「何年も休みをとっていないだろう?いつも私の傍にいるではないか」
「そ、れは……」
 本当のことだった。
「私は、お前の体が心配なのだ」
 そんな風に言われてしまうと、何も返せなくなってしまう。俯いた私の頭を撫でて、彼は言った。
「今から会議に出席せねばならん。それが終わったら、またここに戻ってくる」
 私がこくりと頷くと、
「お前に、伝えたいことがある。大切な話だ。折角の休みなのだから今日だけは仕事のことを忘れて、読書でもして待っていて欲しい」
古びた本が差し出される。深い緑色をしたその本は、私がずっと読みたがっていたものだった。
「これを、一体どこで」
「ミシディアだ。三日前にミシディアを訪ねた時、長老の書斎に収まっているのを偶然見つけて、買い取ってきた」
 確かに、読みたいと思っていた。しかし、陛下にそんなことをさせてしまうだなんて。恐る恐るといった調子で、「高かったのではありませんか?」と私は訊いた。
「気が付かないか?」
「え?……うわっ」
 分厚い本を頭にどんと乗せられ、驚く。本を両手で支えて上目遣いで彼を見ると、彼は、
「誕生日プレゼントだ」
と言い、次に、
「おめでとう、ベイガン」
と言った。
 そうか、そういえば今日は私の誕生日だった。陛下は覚えていてくれたのか、と、胸がじんと熱くなる。
「ああ、もう行かなくてはならない。また後でな」
 忙しない歩みで、陛下は部屋を去っていく。
 驚きのあまり、「ありがとうございます」と言うのを忘れていた。後できちんと礼を言わなくては。何気ない気持ちで本の表紙を捲る。

『この先もずっと、お前が幸せでいられますように』

 柔らかいタッチで書かれた一文を何度も何度も読み返しながら、私は涙を流していた。




 陛下は、部屋に戻ってこなかった。いつまで経っても――夜になっても、戻ってこなかった。
 もしかしたら、会議が長引いているのかもしれない。そう思って部下に訊いてみたのだが、会議は何時間も前に終わり、陛下も自室に戻った筈だ、と言う。
 私は心配になり、方々を探し回った。

 やはり、あの方の傍を離れるべきではなかった。

 考えながら、階段を下りる。これは、地下牢に続く階段だった。こんな場所にはいないと思いつつ、暗闇を覗く。マッチを取り出して壁掛けの蝋燭に灯を点せば、黒の中に人影が浮いた。息を詰まらせ、目を凝らす。
 見間違うはずが無い。陛下だった。
「……陛下」
 蝋燭の橙色に照らされた瞳が赤く光る。その瞳に何か仄暗いものを感じ、私はぶるりと背を震わせた。
「……陛下……こんなところで、どうされたのですか」
 陛下は何も話さない。
「捜していたんですよ」
 瞬間、手首を強く掴まれる。ひ、と悲鳴をあげた瞬間、腕の中に包まれていた。
「心配をかけてすまなかったな」
「い、いえ……」
 違和感を覚える。何かは判らないが――――ただただ、何かが違った。
 一つだけ判ったことといえば、体温が低い、ということだけだった。
 滑った舌で、耳を撫でられる。私の意識が残っていたのは、そこまでだった。




 ぎい、ぎい、とベッドが軋む。
 甘く抱かれた日々が消し飛んでしまいそうなほど、荒い手管だった。
 シーツを引っ掻き、額を擦りつける。耳鳴りが止まなかった。

『お前に、伝えたいことがある』

 違う。これはあの人ではない。陛下はこんな酷い真似はしない。
 では誰だ。この男は誰だ。陛下の皮を被っている悪魔のような男は誰なんだ。
「う、う……ああ、あ」
 前戯も何もなかった。ただ人形のように貫かれるだけだ。
「……陛下……っ」
 彼が欲しくて必死で呼ぶけれど、答えは返ってこない。瞳を見たいのに、それすら許されない。振り向こうとすれば、頭を押さえつけられた。
 間断なく続く濡れた音が眩暈に変わる。どうして、という疑問だけが生まれ続ける。
「人間ってのはほんと馬鹿だよなあ」
 体の中に、熱いものが流れ込んでくる。呆然としたまま迸りを受け止めた私は、掠れた喘ぎ声をあげた。
「気付いてんだろ?俺が、お前の大好きなバロン王じゃねえってことに」
 埋め込まれたものが、信じられないほど大きくなっていく。圧し掛かっている男の体重が重くなる。痛む体を無理矢理動かして、私は後ろを振り向いた。
「ひっ……!」
「……よう。俺の精液の味はどうだ」
 陛下の姿は微塵も無い。そこにいるのは、青い色をした巨大なモンスターだった。
「そんな…………どうして……っ」
「知りたいか?」
 ペニスが、更に深い場所へと押し入ろうとする。腹に痛みを覚えた私の喉からは、潰れた声しか出なかった。
「お前の大好きなバロン王はよお、俺が殺した」
 くかかかか、とモンスターが笑う。
 どういう、ことだ。あの方が、まさか。
「ばっかだよなあ、単身で俺に斬りかかってくるなんて。そうそう、死ぬ前にお前の名前を呼んでたぞ。ほんっと、弱っちくて可哀想な奴だったよ」
 ずるり、と内臓ごと引き出されてしまったかのような感覚がやってくる。
「なあ、お前、知ってるか?」

「モンスターの精液を腹に入れたやつはよお」

「みいんな、モンスターになっちまうんだってさ」



 陛下。陛下。
 やはり私は、貴方の傍を離れるべきではなかった。
 休みなどいりません。貴方の傍にいられるだけで、私は幸せだったのです。
 慈愛に満ちた貴方の瞳に映ることができれば、それで良かったのです。
 貴方を愛しています。何年も前から――貴方に初めて抱かれた、あの夜よりもずっと前から。

 意識が暗闇を浮遊する。光も何も無い空間を、ただただ彷徨う。
 一筋の光が差し、誰かの声が聞こえてきた。


――ベイガン。

陛下?陛下、なのですか?

――すまなかった、ベイガン。

謝らなければならないのは、私の方です。
貴方をお守りしなければならなかったのに、こんなことになってしまって。

――部屋で待っていろ、と言っておきながら、約束を破ることになってしまった。
――本当に、すまなかった。

陛下……

――伝えたいことがある、と言ったな

……はい。

――私は、誰よりもお前を愛している。
――確かに、昔はセシリアを想っていたかもしれない。
――だが、お前の傍にいればいる程、私はお前に惹かれていった。
――『セシルを育てる』と言い出した私を非難しなかったのは、お前だけだったな。
――あの時の私が、お前にどれだけ救われたか。

陛下……!

――共に行くか、ベイガン。

どこへ行こうというのです?

――声がするのだ。
――目覚めよ、という、強い光が見えるのだ。

貴方が行かれるというのであれば、どこまでもお供します。


 手を伸ばすと、力強い手のひらに触れた。
 白い光が眩く輝く。

 もう二度と、貴方の傍を離れません。

 私達の体は溶け合うように消え、温かな気持ちだけが、私の心を包み込んでいた。




End


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