痛みを知ることのできない体だった。
 踏みつけられても齧られてもつつかれても、何も感じない体だった。視界ははっきりとせず、目の前では青い色が揺らめいている。水の色。海。全てが不安定だった。
「――――この、馬鹿」
 魔物は笑っていた。痛々しい笑顔だった。彼にこんな顔をさせているという事実が辛くて、しょっぱくてじゃりじゃりしている砂に顔を埋めた。
「お前は馬鹿だ」
 知っている。私は馬鹿だ。
「…………カイナッツォ……」
 私の体を海から引き上げ、きつく抱きしめてくる。彼のにおいがした。欲しいのはこれだったのだ、と思った。
「カイナッツォ……海は、お前のにおいがする。だから、私はここに来たんだ」


§§§


 私は、試練の山でゴルベーザ様に拾われた。
 腐って動けなくなっていた私を気に入ったゴルベーザ様は、使い道のない私を試練の山から連れ帰り、ルゲイエに「治せ」と無理矢理押しつけたのだった。そうしてどうにかこうにか治った後、「使い道を思いついた」と私を四天王の座につかせた。
 四天王というと聞こえはいいが、実際のところは、アンデッド達のまとめ役を言いつけられただけに過ぎなかった。


 ゴルベーザ様に紹介され、私と彼は初めて出逢った。
 第一印象は最悪で、口の悪い亀(に似た魔物)は、私を見てこう言った。
「根暗そうな奴だな」
 とてつもなく失礼な言葉を口にしてから、彼は鼻をふんふんと動かし、私のにおいを嗅いだ。
 硬直している私を値踏みするような視線で舐め回しながら、「食えるのか?」と、唐突に呟く。
「食えるのか? って訊いてるんだ」
「……な、何を?」
 何の話をしているのか、私には分からなかった。首を傾げて尋ねると、彼は鼻で笑った。
「アンデッドは食えるのか? って訊いてるんだ。痛みを感じないのなら、襲って食ってもいいだろう? ま、問題は味だな」
 アンデッドを――――食べる?
 この男は何を言っているのだろうと絶句する。辺りを見まわし助けを求めようとするも、ゴルベーザ様はもう部屋を出て行った後だった。
「味見してもいいだろう?」
 良くない。絶対に良くない、とぶんぶん首を横に振るのに、男はそれを楽しむかのようににやにやと笑っている。壁際まで追いつめられ、息を飲んだ。
「味見させろ」
 もう、問いかけるつもりもないようだ。首に手をそえられる。
 甘噛みされて、震えを押し殺した。
「やめてくれ……っ」
 乞うと、彼は生きがいを見つけたという瞳で笑う。私をからかって遊んでいるのだ。
 頭にかあっと血が上る。
 思いきり、突き飛ばした。
「うっ!」
 反撃されるとは思っていなかったのだろう。男は呻き声をあげながら地面にごろごろと転がり、いててと頭を掻いてからこちらをぎろりと睨みつけた――――と思ったら、嬉しそうに唇の端を上げる。
「面白い奴。こりゃあ退屈しねえな」
「え……?」
 思わず、彼に向かって手を伸ばしてしまった。
 頭を強く打って、おかしくなってしまったのかもしれない。
 強く突き飛ばし過ぎただろうか、もう少し手加減したほうがよかったんだろうか。「すまない」と呟くも、彼が振り向くことはない。
 言葉を失った私を無視し、彼は部屋を去って行ってしまった。


 私には、過去の記憶がない。というより、個体としての記憶がない。私の体は色々な生き物の死骸でできていて、『私』という存在は、明確には存在しなかった。
 時たま頭を過ぎる風景はてんでばらばらで、それは、私の体を作る部品の一つ一つが持つ記憶なのかもしれなかった。
 どうしてこんな体になってしまったのか。その理由は、私自身にも分からない。ゴルベーザ様は、「私が『生きたい』と望んだからだ」と仰っていたけれど、私は生きていたくなんてなかった。こんな醜い体で生きていくくらいなら、さっさと死んでしまいたいとさえ思う。なのに、アンデッドはとても丈夫だった。
 退屈な日々。明日を見いだせぬ日々。それを壊したのは、カイナッツォだった。


***


 ルゲイエが魔物を治癒するのに必死になっていたことは、バルバリシアから聞かされて知っていた。
 ゴルベーザ様に紹介されて初めて出逢った時は、何の冗談かと思った。ローブで隠れていても分かるほどぐちゃぐちゃになった何かの塊が、びっくりするほど良いにおいをさせながらこちらを見ていた。
 金色の瞳が、綺麗で美味そうだった。
 「アンデッドは食えるのか?」と尋ねると、男は絶句したようだった。味見させて欲しいと思った。かぶりつきたかった。腕の一本くらいいいだろう。足でもいい、骨でもいい。舐めるくらいなら。そう思い「味見させろ」と言うと、首を横に振りながら後退りし始めた。
 押さえつけて甘噛みする。
「やめてくれ……っ」
 男は、切ない声で哀願した。表情が読めない顔だった。
 そうか、こいつの顔には肉がないのだ。あるにはあるけれど、普通の生き物と比べたら少なすぎる。だから、表情が分からない。辛そうな顔をしているのかどうかすら分からない。
 顔を覗き込む。やっぱり美味そうだ。思わず笑う。いいものを見つけた、と笑う。
 金色の瞳が、ぎらりと光った。
「うっ!」
 腹に、強烈な一撃が入った。ああ、突き飛ばされたのか。弱っちそうな見た目をしている癖に、案外力は強いんだな。
 面白い。
「面白い奴。こりゃあ退屈しねえな」
 今日はこれ以上からかわないでおこう、と部屋を出ようとする。どうすれば良いのか分からない、という瞳で金色のそれを揺らしながら辺りを見回し、男は――――スカルミリョーネは、縋りつくかのように手をこちらに伸ばした。「すまない」と、小さく呟く。それを無視して、部屋を出た。
 甘い香りが纏わり付く。ぞくりとした。この感覚は何だろう。
 ああ、味見してみたい。あいつは、どんな味がするんだろう。舐めしゃぶって、しゃぶりつくして、甘いにおいを肺いっぱいに吸い込んで、ごりごりした骨の感触を指の先で楽しんで、つんざくような悲鳴も楽しんで、なあ、あいつはどんな味がするんだ。
 悩むなんて俺らしくもない。
 欲しいなら、手に入れればいい。
 動かしていた足を、ぴたりと止めた。来た道を戻る。スカルミリョーネの部屋へ向かう。
 そうだ。欲しいなら、手に入れればいい。
「ひっ!」
 扉を開いて部屋に入ると、甲高い風のような声で、スカルミリョーネは悲鳴をあげた。
「味見しに戻ってきた」
「な、なに……どういう……」
「食わせろ。どこでもいいから」
「お前、頭がおかしいんじゃないか、こんな腐った体を食べたがるだなんて」
「ぐだぐだ言うな、うるせえ」
 ローブをひっ掴んだ。中身はどうなっているんだろう、と捲る。スカルミリョーネは逃げようとして失敗し、転倒して地面に這いつくばった。好都合だった。
 どこから食ってやろうか。捲り上げたローブの下にあったのは、甘い腐肉だった。柔らかなそれを舌先で舐める。ぴくんぴくんと震える様が面白かった。
「や……ひ、あ……っ」
 魔物は快楽に弱い。こいつも例外ではないのだろう。『いとおしい者に』愛撫するようにそっと舐めてやると、鼻にかかったような声で何度も啼いた。
「あ、やべ、勃ってきた」
 何で、こんなアンデッドを見て勃起してるんだ。首を傾げながらも、本能には勝てなかった。先端をスカルミリョーネの背中に押しつけ擦りつけ、腰を揺すった。
「いやだ、なに……なにして……っ!」
「分かってんだろう? 訊くなよ」
 柔らかな肉が、丁度良かった。さっさと出してすっきりしたい。思い、ローブにも擦りつけ、快楽を追った。
「やめ……っ」
 くちゅ、くちゅ、くちゅ。先走りが音をたてる。気持ちいい。出そうだ。
「……いくぞ」
「いや、だ、あ……っ!」
 尻に、精液が飛び散った。壁にたてられたスカルミリョーネの爪が、根元から折れた。どれほどの力を、その指先にこめていたのだろう。
「どうしてこんな……っ」
 白濁が、ローブに染みを作った。
「……悪ふざけにも、ほどが……」
 ずる、と崩れ落ちそうになる体を腰を掴むことで支え、「これで終わりだと思うなよ」と囁く。そうだ、俺はまだ満足していない。
 頭を押さえつけ床につけさせ、腰だけを掲げさせた。体の震えが、指先を通じて伝わってくる。
「怖いか?」
 甘いにおいが、俺の頭を狂わせる。普通の生き物は、このにおいを嫌うだろう。腐臭は、忌むべきものなのだ。ひ弱な生き物達は、腐ったものを食ったら腹を壊してしまうからだろう。
 けれど俺は、このにおいが大好きだった。
 這いつくばった男の瞳が、ちらりとこちらを仰ぎ見る。
「…………怖い……」
 小さな声だった。その小ささが、また、俺の嗜虐心を煽った。「入れないでくれ」と懇願するアンデッドの声には応えず、今にも折れそうな――――細いという意味ではなく脆いという意味で――――腰をきつく掴み、力任せに押し入った。
「ひい、ああああぁああぁぁっ!!」
 想像していたほどの抵抗はなかった。中は生温く、微かな体温を持っていた。
 どうしてこんなにでけえもんがついているんだろうと首を傾げてしまうほど大きな、自らのペニス。これを苦もなく飲み込む生き物は、今まで見たことがなかった。別の姿に『化けて』しなければ、誰かと交わることも出来なかったのだ。
 相手が壊れようがどうなろうが、知ったことではない。普段の俺ならそう思っただろうが、今の俺は違った。
 壊したら、この男はいなくなってしまう。
 それは、少し嫌だった。
「カイナッツォ……ッ」
 もしかしたら、壊れてしまうかもしれない。そう思っていたのに、スカルミリョーネは壊れない。いや、それどころか。
「い、いやだ……あっ……カイナッツォ……抜いて……っ」
 ずるずると逃げようとする体を引き寄せる。腐った背中に体重をかければ弾けるような音がして、それは、骨が折れる音だった。けれど、スカルミリョーネは痛みを感じないようだ。当たり前か、と思う。アンデッドとは、そういうものなのだ。
「気持ち良さそうだな」
 首を横に振りながら、喘ぎを漏らしている。素直になれば楽になれるのに、スカルミリョーネは観念しない。
「気持ち良いわけが、ないだろう……っ」
「嘘つけ」
 スカルミリョーネのペニスは、透明な液体をひっきりなしに垂らしている。素直な反応が面白くて、ますます酷くしてやりたくなった。そうだ、こいつの体は痛みを感じることができないのだ。快楽だけをつまみ上げる、何とも羨ましい体だった。
「あひ、いっ、ああぁっ! は……腹が、破れてしま……う、……っあ……!」
 腹に手を這わせてみると、スカルミリョーネの腹は隆起している。器官の限界が、見え隠れしていた。
「気持いいんだろ……? 認めろよ」
「いやだ……」
「こんなにだらだら垂らしてるくせに……。何が嫌なのか言ってみろ」
「ひあっ!」
 腰を叩きつける。何度も何度も、揺さぶる。中がこれでもかというほど締まった。
「……イキそう、か?」
 何度も締めつけてくる内部が、一際きつく締まった。
「いや、だ……あ、ああぁ、あっ!」
 白い液体が、床を汚した。
 荒い呼吸を繰り返す男の体を気遣うことなく、更に貫く。空気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。なんて、良い声で啼くんだろう。
「……俺はまだイッてないぞ。もっと締めろ」
 より深い結合を求めて、骨なのか何なのか分からない足を持ち上げた。込み上げる射精感。背中に突き出ている骨を、口に咥える。
「……っ」
「ああ、あ、ああぁ……!」
 スカルミリョーネの腹が、先程よりも大きく膨らんだ。
 やばい、止まらない。
「とめ、て、止め」
「今更止められると思うか」
「あつい、ぃ……っ」
 腰を動かしたい。射精している最中なのに、そう思う。気持ち良くて、どうしようもない。堪らない。
 こんなの、生まれて初めてだ。
 こんなやつに、どうして。
 男の腰を抱え直す。ここでやめるつもりなんてない。気がすむまで、貪ってやる。
 半分ほど引き抜くと、栓を無くして精液がだらりと溢れ零れ、床に水溜りを作っていった。


「……私のことが、嫌いなんだろう?」
 体を離すと、精液でびしゃびしゃになった体をぐるんと丸め、スカルミリョーネは呟いた。
 そういえば、こいつと俺は初対面だったか。初対面なのに、えらいことをしてしまった気がする。濡れきったローブのを摘み上げながら、「誰がそんなことを言った?」と問いかけた。
 金色の瞳が、こちらを見上げてくる。
「……聞かなくても分かる。嫌がらせ以外に、どんな理由があるんだ」
 ああまあそうだなあと頷きながら、「嫌いじゃない」と言葉を返した。
「嫌いじゃない」
「……は?」
「嫌いじゃないと言った」
「は!?」
 叫び、スカルミリョーネは立ち上がった。よくよく見てみれば、茶色のローブはぼろぼろだった。そういえば、勢いに任せて引き裂いてしまったような気もする。――――あまり、覚えていなかった。
「お、お前は……っ! 嫌っていない者に、こ、こ……こんな仕打ちをするのか!」
「みたいだなあ」
「み、みたいって……そんな」
 今度は気が抜けてしまったらしい。ふにゃふにゃになって再度床に突っ伏したアンデッドは、もう何も言えないとばかりの勢いでぶんぶんと首を横に振った。
「んなところに突っ伏してたら、精液だらけになるぞ」
「……もうなっている」
「クカカカカカ、面白いことを言うなあ、お前」
「何が面白い!」
 瞬間、何かが爆ぜる音がした。電流がそこかしこを伝い、黄色と青を綯い交ぜにして輝いている。
 それは、サンダーだった。
 こいつ、俺と殺り合うつもりか。
「殺してやる……!」
「やれるもんならやってみろ。四天王最弱のくせに」
「うるさい!」
「俺に揺すぶられながら、あんあん喘いでいたくせに」
「あ、あんあ……!?」
「六回もイッたくせに」
 今度は、言い返してこなかった。
「俺達はケダモノなんだから、体の相性がいいもの同士、仲良くすればいいだろ?」
 もう、絶句しか返ってこない。
 そう、俺達は、ケダモノなのだ。
 どうしようもないほど、ケダモノなのだ。
 だから、本能には抗えない。
「お前がいいにおいをぷんぷんさせてるのが悪い。俺は何にも悪くない」
 抗うことができないのなら、流されてしまえばいい。本能を利用して快楽を得ればいい。我慢なんてしたくない。
「いいにおい……? 私の腐臭が良いにおいだと言うのか」
 頷いて、舌を伸ばした。金色の目に、舌先を持っていく。スカルミリョーネは、瞼を閉じようとしない。
 よくよく見てみれば、こいつの目には瞼がなかった。
「ああ。それと、目ん玉が美味そうだ」
 舐めると、塩の味がした。
 もう一度、犯したくなってくる。
「何で勃ってるんだ……この……馬鹿!」
 サンダーが落ちてきて、これは面倒なことになりそうだ、と走り、自室に逃げ帰った。


***


 カイナッツォは、事あるごとに、というか毎日、私に襲いかかってきた。勃起したから責任を取れだとか体臭を消してから文句を言えだとか、とにかく、よく分からないことを言いながら犯しにかかってくる。
 どうやら、あの亀は頭がおかしいらしい。
 「一度ルゲイエに見てもらえ」と提案してみたのだが、「腐っている奴に言われたくない」と一蹴されてしまった。その腐っている奴に襲いかかってくるのは誰なんだと反論しようとしたのだけれど、何となく面倒になってやめてしまった。
 結局、抗うことができずに何度も抱かれている。悔しいけれど、カイナッツォが言ったとおり、体の相性は良いらしかった。
 私は、この『腐った体』が大嫌いだった。なのに、あの男はこの体を好きだという。この腐臭も好きだ、と。
 齧りつかれ、酷い手管で犯される。愛撫なしで挿入され、奥の奥まで貫かれ、最低最悪なはずなのに、その行為に快楽を覚えている自分がいた。

『俺達はケダモノなんだから、体の相性がいいもの同士、仲良くすればいいだろう?』

 カイナッツォの言うことは、もっともだった。
 私達はケダモノで、万年発情期なのだ。だから、仲良くすればいい。気持ち良く過ごすことができる。
 けれど、私はこの状況に怯えていた。
 私の体は、死ぬはずだった者達の寄せ集めなのだ。醜い。
 だから、一見すると棘だらけにも見えるカイナッツォの言葉の中にある小さな優しさに、私は怯え続けていた。

『ああ。それと、目ん玉が美味そうだ』

 いつだって、カイナッツォは私の体を貫きながら目玉を舐めてくる。金色が綺麗だ、この味が好きだと言って、今にも刳り抜いてしまいそうなほど何度も舐める。
 私の中で、カイナッツォの存在が大きくなっていく。消すことが不可能なほど、果てしなくなっていく。どうすれば良いのか分からない。
 ただ、この愛情を失うことが怖かった。

 失うかもしれない、という機会は、唐突にやってきた。
 ゴルベーザ様が、クリスタルを手に入れる為、本格的に動き出したのだ。そうして、カイナッツォはバロンの玉座の上で『バロン王』に化けることとなり――――勿論、会える日は減っていった。

「会いたい……か」
 もう、何日会っていないのだろう。気がつけば、彼のことばかり考えるようになってしまっている。体の疼きが、おさまらなかった。
 窓から見上げた月は、嫌味かと思ってしまうほど美しい輝きを放っていた。カイナッツォは、何をしているのだろう。まさか、寝ているということはないだろうが、どうしても気になってしまう。
 こっそり、見に行くだけなら。
 息を潜め、テレポを唱えた。危険な行為だと知ってはいたけれど、我慢することができなくて。
 私は、こんなにも我慢ができない魔物だっただろうか。もしかしたら、カイナッツォの性格が伝染ってしまったのかもしれない。

 テレポで到着したのは、バロン城のバルコニーだった。幸いなことに、人間の姿は見当たらない。ゴルベーザ様とルゲイエ以外の人間が住んでいる場所に来るのは久しぶりのことで、まず、辺りに漂う人間臭さに驚いた。
 カイナッツォは、どこにいるのだろう。見つからぬように、そっと、窓の向こう側を見た。
 部屋の中は真っ暗闇だったけれど、カーテンの隙間から、何かが見え隠れしていた。
 ――――カイナッツォ。
 あの青い肌。間違いない、彼だ。
 バロン王に化けていたはずなのに、変身を解いて、彼は何をしているのだろう。魔物は夜目がきくから暗闇でも問題はないのだが、カイナッツォが何をしているかだけが気になった。
 耳を澄ますと、骨の鳴る音がした。途端、強烈な血のにおいが溢れ出す。
 カイナッツォは、食事をしていた。
「カイナッツォ……」
 私の声に反応して、カイナッツォが振り向いた。何を食べているのだろう。鋭い牙。口の周りは、真っ赤だった。
 得体の知れない感覚が、背筋を駆け抜けていく。
 得体の知れない? いや、私は、この感覚を知っていた。どこかで。一体どこで? 分からない。私を形作っている死骸のどれかが記憶していた感覚なのかもしれない。
 私の姿を認めたカイナッツォは、目を丸くして駆けてきた。
「スカルミリョーネ!!」
 駄目だ、怖い、逃げたい、逃げよう。
 テレポを唱える。カイナッツォが窓を開ける前に、逃げ切ることができた。辿り着いた場所は、浜辺だ。
 さっき、背筋を駆け抜けたあの感覚。あれは、紛れもなく嫉妬だった。
 私は、カイナッツォに食べられている『何か』に嫉妬していたのだ。
 砂が、足の裏を擽る。真っ黒な海に吸い込まれてしまいそうな心持ちになりながら、地平線を見た。
 ああ、そういえば。水を操る者だからなのか、彼は、いつだって海のにおいを身に纏っていた。
 海は、カイナッツォのにおいがした。
「……カイナッツォ……」
 カイナッツォだって、食事くらいするだろう。当たり前だ。彼は生き物なのだから。
 頭では分かっていても、勝手に嫉妬してしまう。それは、私が彼に食べられたいと思っているという何よりの証拠だった。
 そうだ。私は、彼に食べられたかった。
 彼の血肉になりたかった。
「スカルミリョーネ!」
 目の前の空間がうねり、水の渦が現れた。カイナッツォのテレポは特殊なのだ。
 はあはあと荒い息をつきながら、カイナッツォは叫んだ。
「どうして逃げるんだ!」
「カイナッツォ……」
「どうして逃げた?」
「それは……」
 何度も訊かれるのだけれど、答えられるはずがない。お前の食料に嫉妬していたのだと答えられる者が、どこにいるだろう。
 首を横に振ると、カイナッツォがにじり寄って来た。頬に、血の痕がついている。
「食事をしている俺が、怖かったのか」
「いや、そうではない……」
 カイナッツォの頬に、手を伸ばした。こうやって私の方から触れようとするのは、初めて出会った時以来だ。
 指先で血を拭い、ぺろりと舐める。「ん?」と不思議そうな顔をして、彼は私の頭を撫でた。
「泣きそうだな」
 優しい声だった。その声に煽られて、余計に泣き出しそうになってしまう。どうして、優しい声をかけるんだ。
 いつものように罵ればいい。「お前は本当に馬鹿だなあ、脳まで腐ってんじゃないのか」と笑えばいい。お前が優しさを見せる度、心が凍りつきそうになる。失いたくない大切なものを見つけてしまった、と、絶望の内側を覗き込んでしまう。
 大切なものなどいらなかった。手に入れてしまうと、失うのが怖くなる。 
 涙が、溢れ出す。
「あーあ」
 呆れ顔半分、笑顔半分のカイナッツォが、ぐいぐいと涙を拭ってくれる。
「初めて会ったあの瞬間に、お前を食っておけばよかった。そうすれば、こんなに悩むこともなかったのに」
「それは、どういう……」
「情がうつったんだよ。俺がお前を食っちまったら、お前は跡形も無く消えちまうだろ? 食いたいとは思うけど、それは嫌なんだよなあ」
「ややこしい話だな……」
「魔物心は複雑なんだ」
「……そのようだな」
「で? お前は何で逃げたんだ? それから、何で泣いたんだ。まだ理由を聞いていないぞ」
 沈黙に包まれる。
 理由を言ったら、カイナッツォに引かれてしまうかもしれない。思いつつ、口を開いた。
「…………私は、嫉妬してしまったのだ」
「嫉妬?」
「ああ、嫉妬だ。……私は、お前の食料に嫉妬していた」
 笑われてしまうだろうと覚悟していたのに、彼は笑わなかった。
「お前も、俺に食べられたいのか。あの『食料』と同じように」
「そうなのかもしれない。おかしな話だけれど……私は、お前の血肉になりたいと思った。お前に嫌われたらどうしようだとか、お前が死んでしまったらどうしようだとか、近頃、そんなことばかり考えていたから」
 恥ずかしい告白をしてしまった。座り込んで、砂を撫でる。カイナッツォの顔を見ているのが辛かった。
「――――この、馬鹿」
 魔物は笑っていた。痛々しい笑顔だった。彼にこんな顔をさせているという事実が辛くて、しょっぱくてじゃりじゃりしている砂に顔を埋めた。
「お前は馬鹿だ」
 知っている。私は馬鹿だ。
「…………カイナッツォ……」
 私の体を海から引き上げ、きつく抱きしめてくる。彼のにおいがした。
 においを比べてみて分かったこと。それは、海のにおいでは私は充たされないということだ。
 そうだ、欲しいのはこれだった、と思った。
「カイナッツォ……海は、お前のにおいがする。だから、私はここに来たんだ」
「は、恥ずかしいことをいうなあ、お前……」
 私の体を抱きしめながら、カイナッツォはクカカと笑った。



 End


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