老眼鏡が、さあっと白く曇った。
 当たり前だ。ここは湯船の中なのだから。
「ルビカンテ、いつまでそうしてるんだ?」
 老眼鏡の表面を指できゅっと撫でて、俺はルビカンテの方を見た。ルビカンテはどうしたら良いのか分からないという表情を浮かべながら、少し遠くにある木の傍に立っている。
「ルビカンテ!」
 焦れて大きな声で名を呼ぶと、ルビカンテは困り顔のままこちらへ近づいてきた。


***

 はしたない、という一言で片付けてよいものなのかどうか。
『エブラーナにある秘密の露天風呂』とやらに付き合うことになった私は、無言を貫きつつ彼に近づいていった。
「……ああもう、すぐ曇っちまう」
 老眼鏡の表面をせっせと指で擦って、エッジは私を仰ぎ見た。難しく顰められていた顔が、ぱっとほころぶ。
「男同士だろ? 遠慮することなんてねえじゃねえか」
 岩に胸を預けて、エッジはひらひらと私に向かって手を振った。局部こそ見えないものの、その行動は私の理性を軋ませるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
 無駄な贅肉のない体には、しなやかな筋肉がついている。
 エッジが、乳白色の湯を己の肩にぱしゃりとかける。白い液体が、肌の上をとろとろと滑り落ちていった。
――――――――確かに、彼は男で私も男だ。
 だが、問題はそこではなかった。慌てて目を逸らすけれど、焼きついた光景は消えてくれそうにない。
「ほんと、おめぇは俺のこと大好きだよなあ」
 嬉しそうに、疑い一つ持つことなく溢れる彼の言葉。
 込み上げるものを感じて思わず頷くと、予想外の出来事だったのだろう、エッジの頬が瞬く間に紅色に染まった。
「……お前に触れられなくて、良かったのかもしれん」
「ど、どういう意味だよ」
「一度触れたら、たがが外れてしまいそうだ」
「たが、って」
「……きっと、壊れるまで放してやれんだろうな」
 口に出した瞬間、猛烈な自己嫌悪に襲われた。
「……それがおめぇの望みなのか……?」
 エッジがこちらに手を伸ばした。ちゃぷ、と湯が波打つ。
 伸ばされた手をとることもできず、彼の顔を見ることもできない。後悔にまみれながら、彼に背を向ける。
「ルビカンテ!!」
 振り向くことなど、できるわけがなかった。



 エッジの部屋から見える今夜の月は、遮る雲ひとつなくただただ美しかった。
 最初は、見守ることができるだけで満足だった。
 次は、話が出来るだけで満足だった。
 直接触れることこそできないものの微かにぬくもりを与えることはできるし、私の目を見て微笑んでくれるだけで満足だと思っていた。
 なのに今は、穢らしい欲望が胸の中で渦を巻いている。
 エッジは、私の執着心がここまでのものであるとは考えていないのだろう。
 『風呂を覗け』というのは冗談で、『ほんと、おめぇは俺のこと大好きだよなあ』という言葉だって、冗談めかしたものだった筈だ。軽く流してやれれば良かったのだが、どうしても流すことができなかった。
 と、突然大きな音をたてて扉が開く。
 血相を変えたエッジが、部屋の中に飛び込んできた。
「ルビカンテ……ッ!」
 相当慌てていたらしく、髪は濡れたままだ。浴衣も、いつもよりずっと乱れている。
「……いなくなっちまったかと思った……」
 その場にしゃがみこみ、
「消えちまったかと、思……っ」
「……エッジ」
「すまねえ、おめぇに嫌な思いをさせたかったわけじゃねえんだ。おめぇはいっつも俺を子ども扱いして……優しいからさ、俺よりずっと大人だって思い込んじまってて……あれくらいの冗談笑って済ませてくれるだろうって、勝手に思い込んでた」
 項垂れた彼に、そっと近づいていく。
「俺って馬鹿だよな」と呟くように言って、エッジはゆるゆると首を横に振った。
「俺、おめぇに甘えてたんだ。年甲斐も無く」
 エッジが顔を上げる。その顔には、泣き笑いのような色が浮かんでいた。
 正直、『甘えてもらえた』ということは素直に嬉しかった。彼の心を掻き乱すだけだと思っていた私の存在が彼の心を癒せるというのなら、これ以上嬉しい事はない。
 甘えたい、と思ってもらえている。消えては嫌だ、とも思ってもらえている。
 これ以上何を望むというのだろう。
「……抱きしめても、良いだろうか?」
 触れることもできないのに、思わず尋ねてしまっていた。
 触れられなくてもいい。ぬくもりだけでも彼に伝えることができたらと思う。
「ああ」
 頷いて、エッジは立ち上がった。大きく手を広げ、はにかみつつ笑っている。
 彼の前に跪き、頭を撫でる。
「……エッジ。すまぬが、眼鏡を外していてくれないだろうか?」
「えっ?! お、おう、分かった」
 さっと老眼鏡を外し、「恥ずかしい、とかか? じゃあ目も瞑っといた方がいいのか?」と彼は呟く。そうして、目を閉じながらもう一度両手を広げた。
「よーし、来い!」
 まるで戦いを挑むかのような言葉に、思わず笑みが零れる。
 堪らず、エッジの体を抱きしめ――――――――そのまま、唇を重ねた。
 びく、と彼の体が震えた。ぱちりと大きく目を開き、大慌てで老眼鏡をかける。
「いっ、今……ッ!」 
 見えなくとも、唇からぬくもりが伝わったのだろう。目を白黒させて、口元を手で押さえている。
「……私はお前のことが『大好き』だからな。こういうことをしても、おかしくはないだろう? ……これに懲りたら、もうはしたない真似はやめた方がいい。嫌だろう? 男の……しかも魔物である私にこんなことをされるのは」
 わざと意地悪い口調で言ってみせると、エッジはまたずるずると座り込んでしまった。
 首筋と耳が、真っ赤に染まっている。



 End