だからよ、低いんだよ、よく見ろよ、分かるだろ、な。
 そう言って、エッジはカインの顔を無理矢理上向かせた。
「い……っ!やめろ、このっ」
「いいからよく見ろって」
「痛い」
「首の鍛え方が足りねえんだよ」
「……また、わけの分からんことを」
 どうして男二人で宿屋の屋根の上に登り、空を見なきゃならないんだ。カインは思った。
 この『馬鹿げたこと』を最初に提案したのはエッジだった。
 空を見よう。彼は言った。知ってたか、ここ最近の空はすげえ低いんだ。
 馬鹿馬鹿しいことをいう男だ、と言って、カインは相手にしなかった。相手にしなかったら、強引に屋根に引きずり上げられた。
 空のことはよく知っている。飛竜で風を切る時の視界は、果てしなく青く、眩しい。馴染みのあるその色は、カインの瞳の色だった。

『カインの目の色ね』

 そう言って微笑んだのは、母だったか、ローザだったか。
 故郷に引き戻されそうになりながら、カインは空を仰いだ。
 空はいつもと変わらない。雲がある。遠くに鳥が見えた。青さが薄らいでいるから、もうじき夕焼けになるだろう。カインの感想はそれだけだった。
「いつもと変わらん」
 苛々した気分で率直に答えると、エッジは大きな溜息をついた。
「苛々してるからだ。……目が釣り上がってんぞ。こええぞ。こーんなだぞ」
 エッジは口元の布を下げ、目じりを引っ張って、べろべろばあ、ととんでもない顔を作ってみせた。怒鳴ろうとしたカインもこれには我慢ならなかった。盛大に噴き出した。
「ぶ……!やめろ、おい」
「嫌だ。これはどうだ!」
 一方の手で垂れ目を作りながら、もう片方の手で豚っ鼻を作る。一国の王子がこんなことでいいのか。あまりことに大笑いしていたら、ずるりと足が滑った。
「……っ!」
 視界がぐるりと回転する。体勢を立て直して着地しようかとも考えたが、下は大きな池だった。どうせ水浸しになる。カインはそっと瞑目した。
 諦めたカインの手を、力強い何かが引いた。
「……馬鹿野郎。落ちたら風邪ひいちまうだろ」
 優しい声音にどきりとした。瞬間吹きつけた風は冷たく、枯葉の匂いがして、そこには焼きたてのパイの香りも混じっていた。カインは大きく息を吸い込み、誘われるように目蓋を開いた。
 空は、なだらかに色を変えていた。微かに残る青と、迫る橙色。鳥の鳴き声は切なげに響き、感傷を煽っている。雲がひたすら近かった。
「…………低いな……」
「だろ?ああ、何かいい匂いがしてきたな。そろそろ飯か」
「何故低いんだろう?さっきまでは確かに普通だったのに」
 よっ、という声を出しながら、エッジはカインの体を引っ張り上げる。緑の瞳に橙を映しながら、
「心に余裕がないから、だから気付かなかったんだろ。たまには笑え。そういうこった」
 と言って微笑んだ。
「ねえ、二人とも!」
 リディアの声がする。その声に反応した瞬間、カインの腹の音が鳴り、あまりのタイミングの良さにカインとエッジは噴き出した。
 ご飯だよ、私も少し手伝ったの。宿の人に、パイの作り方を教えてもらっちゃった。ローザも作ったんだよ。すっごく美味しいスープだよ。あのね、それでね――――。




End


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カイン受30題