ずっとずっと幼い頃の記憶。
 色鮮やかに、やかましいほど、瞼の底の底に焼き付けられた、記憶。
 手を伸ばして銀の髪を引っ張って、温かい腕の中でうつらうつらと目を閉じる。そんな俺を見て、シグは笑っている。
 霧散してどこかに行ってしまっていた記憶が、こうして触れているだけで鮮やかに蘇る。

『シグ』

 何度も何度も、呟こうとしてやめる。起こしちゃいけないってことは分かっていた。顔を覗き込んで髪に触れて――――それですら本当は許されないことなのだろう。
 ベッドサイドにかすかに灯る明りだけが、部屋の中を薄ぼんやりと照らしていた。

 幼い頃は、何も考えずに触れることができた。触りたいから触る。それだけで良かった。でも、今は違う。こうやって部屋に忍び込まなければ、触れられない。
 今だって、触れようと思えば触れられるのだろう。多分、シグは嫌がらない。幼い頃と同じ調子で、頭をぐしゃぐしゃ撫でてくれるだろう。笑って抱きしめてくれるだろう。
 ――――そう、幼い頃と変わらぬままで。
 シグは変わらない。でも、俺は変わってしまった。
 意識し始めたのはいつ頃からなのか。シグに触れる、触れられるたび、胸を掻き毟りたくなるような感情に襲われるようになっていた。
 これが恋愛感情なのだと気づいてから、もう二年になる。スレイブジェネレーターが暴走して、俺が大怪我を負った時からだ。

 あの時。ばちばちと火花が飛び散り炎上している中へ、夢中で飛び込んでいた。ユグドラシルは俺の家みたいなもんだったから、どうしても失いたくなかった。
 必死で弄ったのが功を奏して暴走は止んだけれど、炎はおさまらなかった。目の前が真っ赤になって左目が痛くなって、怪我を自覚した時には既に遅く、俺は動けなくなっていた。
 『目を覚ましなさい!』と、俺の体を抱きしめて誰かが叫んでいた。『バルト!』と、俺の名前を呼ぶ声。空気を引き裂くような、声は俺の胸に突き刺さり、意識を失う直前までその声を聞いていた。
 そうして目を覚ました時、俺の左目はほとんど見えなくなっていた。ぼやけた視界に映るのは医者や爺の顔。
 喜びの声が上がる中、俺の手を取り顔を覗き込んで、『若』と一言、右目をなくした眼差しで、シグは笑った。

「……シグ……」
 唇が震えた。ベッドの側の床に座り込み、目元を拭う。
 俺が俺でないような、そんな気がした。張り裂けそうな胸の中で、心がわあわあと喚きたてている。この胸の痛みを、軋みを、誰かに相談したかった。でも、思い浮かぶのはシグの顔ばかりなのだ。
「くそ……っんだよ、もう……っ」
 涙が止まらなかった。拭っても拭っても、零れ落ちてくる。
 こんなに近くにいるのに、シグが酷く遠い存在になってしまったような気がした。
 好きだと告げたら、シグはどんな顔をするだろう。困った顔をして「からかうのはよして下さい」と微笑むのだろうか。
 ただ、怖かった。
 シグに嫌われたくない。
 今の関係を崩してしまうくらいなら黙っているのが一番だ、と考える。
 擦り過ぎた瞼は重く熱く、視界はぼやけていた。眼帯がびしょびしょだった。濡れたそれを外すと、不明瞭な視界が現れた。息を吸い込んで、そちらの目も拭った。
 時計は深夜の二時を過ぎていて、ぐちゃぐちゃな気持ちを抱えたまま、そっと部屋を出ようと立ち上がった。
「……若」
 何かに手首を引かれ、途端、体がぐるんと反転した。目の前にシグの顔があった。背に感じる感触で、ベッドに押し倒されていることに気がついた。
「若」
 心臓の鼓動が早まって、口をぱくぱくさせて息を吸う。眼帯が床に落ちた。近くにあるのは、碧い瞳だ。微かに灯る明りが、一つの碧を静かに光らせていた。
「……泣いていたんですか」
 シグは『どうしてここにいるのか』とは訊かなかった。銀の髪が頬に触れて、俺はただただ首を横に振った。
「嘘はいけませんね」
「…………嘘じゃない、泣いて、ない」
「こんなに目を腫らしているのに?」
「泣いてない……!!」
 触れられている場所が熱い。熱くて、痺れる。
「泣いてないから放せ!部屋に戻るっ!」
「理由を言うまで、放しません」
「目にゴミが入ったんだよ!」
「眼帯を着けている方にも入ったんですか?」
「う…………」
 シグの手の力が緩んだ。けど、俺はもう逃げる気になんてなれなかった。
 心臓の音が耳の横でずっと鳴っていて、身動きが取れない。シグが、俺の頬を撫でる。そんなことだけで、顔がかあっと熱くなるのが分かる。ぎゅうっと目を閉じて、ぞわぞわする感覚をやり過ごそうとした。
「若?」
 今度は、額に触れてきた。熱があるんじゃないかと思ったんだろう。冷たい手が、確かめるようにあてられる。
 滑らかなシーツからはシグのにおいがして、「熱はないようですが」と言ったシグの手が首筋にあてられた瞬間、頭が真っ白になっていた。
「んん……っ」
 上ずった声が漏れた。こんな変な声、出すつもりじゃなかったのに。思わず口に蓋をする。
 シグは呆然と俺の顔を見つめた後、俺の下半身をちらっと見た。
「若……もしかして、これが理由で私の所に?」


***


 若は、酒を口にしたのだろうか。そう思ってにおいを嗅いでみたが、酒のにおいはしなかった。
 瞳を潤ませ、上目遣いでこちらを見上げている。唇を震わせているところを見ると何かを言おうとしているのだろうが、それは全く言葉にはなっていない。
「体がつらいんですか?」
 彼が体の熱を持て余しているのは明白だった。何かおかしなものでも食べたんだろうか。それとも。
 触れるかどうか悩んだ。これは、彼の為になることなのだろうか。いくら子どもっぽいところがあると言っても、彼はもう18歳なのに。
「……ここが、つらい?」
 恐る恐る、服の上から撫でてみる。勃ち上がり始めたものは熱くなり、くっきりと形を誇示していた。
 男ばかりのユグドラシル。女性もいるが、既婚者や子どもばかりだ。若が『こういうこと』に疎いのは、仕方が無いことなのかもしれない。
「さ、さわんな、ばか」
 教える機会を、もう少し前に持つべきだった。困り果てて夜中に俺の元に来てしまうほど――その上泣いてしまうほど――悩んでいるとは。
「つらそうですね」
 何度か撫でていると、若は足を閉じようと足に力を入れ始めた。軽くのしかかり自らの体を割りこませ、若の体を固定する。
「痛いことはしませんよ」
 下衣を下げて触ろうかとも思ったが、直接触れられることに抵抗を覚えるかもしれない。汚れたら洗濯すればよいか、と思い、その場所に唇を近づけていった。
「ひ、あ……!」
 白い布ごと、熱を咥える。唇で挟むようにして、ゆるゆると扱く。
「シ、シグ、シグ……ッ」
 甘い声が、俺を呼ぶ。理性が掠れそうになる。
 彼の指先は俺の髪を掴み、快楽を覚える度に何度も何度も震えた。「出ちまう、よぉ……っ」と、上ずった声をあげる彼が――――いとおしくて、考えてはならぬことを考えてしまいそうになる。

 二年ほど前からだろうか。若は、俺に触れられるのを嫌がるようになった。髪を撫でると硬直するようになり、引き攣った笑顔を浮かべるようになった。彼が大人になっていくのを喜ぶ反面、素直に喜べないでいる俺がいた。
 愚かな話だ。
 その時まで、俺は、いつまでも彼を抱きしめていられると信じ込んでしまっていたのだ。

「出してください」
 俺の声は、情欲に濡れてはいないだろうか。淡々とした響きを持てているだろうか。
「あ……ん、ん……だめ、だから、でる、から……っ」
 出るから放して、と震える声。舌を出し、彼の熱に這わせ、顔を離す。今度は、手でそっと握った。彼の顔を見ていたかった。
「見ない、で、俺、へんなかお、して」
 首を横に振る、その仕草さえも可愛い。「可愛い」だなんて口にしたら、嫌がられるのだろうけれど。
 両掌で顔を隠し、びくん、と一際大きく震えた。
「あ……っ……あぁー……」
 直後、全身が弛緩する。
 躊躇いつつ抱きしめると、俺の耳に嗚咽が届いた。


***


 何故こんなことをした、と訊けば、「若がつらそうだったので」と返されることは分かっていた。
 どこまで行っても子ども扱いしかされない俺は、どうにも惨めだ。
 はあはあと息が上がる中、シグは黙って俺を見ている。だめだ、涙が止まらない。
「若……」
 決して叶わない想い。好きだからこそ、この関係を壊すことを恐れてしまう。
 忘れなければ諦めなければと思うほど、想いはどんどん膨らんで収拾がつかなくなっていく。
「…………俺には……好きなやつがいて……」
 口に出さなければつらくて。
「でも、そいつは、俺のことを何とも思っていなくて……」
 きっと、俺のことを子どもとしか思っていなくて。
「でも……諦めきれなくて」
 悲しそうな目をして、シグはこちらを見つめている。
「誰なんです?その女性は―――」
「女じゃ、ねえ」
「え?」
 シグが目を丸くする。
「男なんだよ。だけど、そいつは男の俺のことなんか……」
 泣きながら、ベッドを降りる。「若、お待ちください!」という声。俺を首を横に振る。濡れてしまった下半身が少し気持ち悪かった。
 早く部屋に戻ってシャワーを浴びて、このことは忘れてしまおう。
 早く――――早く、この想いを捨てなければ。







Story