水色の瞳は、私を映さない。彼の視線は、真っ直ぐ、鏡に向けられていた。
 薄ぼんやりとした蝋燭の灯りだけが、この部屋を照らしている。彼の白い肌が、静かに浮いていた。
「…………ケフカ」
 名を呼ぶ。呼び慣れている筈なのに、息苦しさを覚えながら。
「……食事を、持ってきた」
 細い肩が震える。しかし、彼はこちらを見ようともしない。ぶつぶつと何事かを呟き、少年の形をした人形を抱きしめ続ける。
「ケフカ」
 食事を載せたトレイが手から滑り落ちた。それを放置し、ケフカに近づく。乱れた髪をそっと撫で、しゃがみ込み、後ろから優しく抱きしめた。
 体温も同じで、体臭も同じで、それなのに、もう彼は彼ではない。
 こうなると事前に知っていたら、あんなことはさせなかったのに。悔やんでも仕方がないと分かっていながら、頭の中で懺悔する。
 脳裏で閃く、ケフカの怯えた目。血まみれの部屋。
『助けて』と私を呼んでいたのに、助けてやれなかった。
 失われた笑顔は、戻ってこない。




「皆のためになるのなら、構わない」
 そう言って、彼は微笑んだ。
 彼の方が年上の筈なのに、その表情はあどけなく、真っ直ぐだった。
「しかし、どんな副作用があるのか、どんなことが起こるのか……何も分からないんだぞ」
「うん」
 言いつつ立ち上がり、ケフカは窓辺に向かった。私も後に続いた。
 ついに明日だ。明日、ケフカはあの実験室に入る。魔導は一ヶ月間に渡って注入されるのだという。
 魔導を注入された人間がどんな風になるのか。それは、誰にも分からない。
 ケフカは空を見上げている。星が綺麗だよ、と呑気な声を出している。
「やめる気はないのか」
「ない」
「どうしてもか」
「どうしても」
 振り返り、こちらを上目遣いで見上げてくる。
「……レオ」
 首に手を回され、頭を引き寄せられる。痩身を抱き、誘われるように唇を重ねた。
 愛おしくて堪らなくなって更に強く抱きしめると、彼は笑った。
「レオ……好き」
 口づけの合間に、甘い調子で告げられる。水色の瞳は潤み、眦には朱が刷かれていた。
 心臓が激しく鳴った。胸が熱かった。
「私も好きだ。ケフカ……」
 明日への不安を心に纏いつつ、もう一度口づけた。


 “魔導注入”とは、一体、どのようにして行われるものなのか。
 行ってくるよ、と微笑みながら兵士と共に扉の向こうへ消えたケフカにすら、それは知らされていないらしかった。
 閉じられた扉は私を拒んでいて、まるでケフカが遠い者になってしまった気がして、私は自室に戻ってから、小さく溜息をついた。仕事の間もケフカも事が頭から離れず、注意力散漫だと注意されるほどだった。
 ひと月もの間、ケフカに会えない。子どもっぽい感情が、私の胸を苛んでいた。

『皆のためになるのなら、構わない』

 この帝国のために、繁栄のためにというのがケフカの口癖だった。
 しかし、私にはこの帝国が分からなくなっていた。新しく建てられた魔導研究所に引きずり込まれていく幻獣達は血塗れで、それは到底“良いこと”だとは思えなかった。
 窓の外には星があった。星が綺麗だよ、と言った彼は、今夜は不在だ。やけに静かな部屋は、私の心を掻き乱してやまなかった。


 ケフカがあの部屋に入って一週間程経った。
 魔導実験で死者が出た。そんな話が飛び込んできた。
 魔導を注入されたのは、何も、ケフカだけではなかった。老若男女問わず、ケフカを含む十人の被験者が選ばれ、実験をうけていた。
 そのうちの二人が死んだのだという。
 もしや、死んだのはケフカなのではないか。拳を握りしめながら、私は同僚に問うた。
「死んだのは、爺さんと女だそうだ。ケフカじゃない」
 私は余程酷い顔をしていたらしい。同僚は苦笑していた。
 私の中で、実験への不安が大きな塊となっていく。
 命を落とすかもしれない実験だと、頭では理解していたはずだった。なのに、私は衝撃を受けている。理解していなかったという、何よりの証拠だった。
 最後の晩に抱きしめた時の、あの細い体の感触を思い出す。薄い唇が、上気した頬が、やけに真摯な水色の瞳が脳裏を過った。
 あの時、彼は何かを隠していたのではないか――そんな考えが、私の頭を支配し始める。
 ケフカは嘘をつくのが上手かった。人を傷つける嘘はつかないが、優しい嘘は得意だった。




 僕は初めて、彼に嘘をついた。
 仕方がないことだった。そうだ、これは仕方がないことだったんだ。自分に言い聞かせるようにしながら、僕は前にいる男を見上げた。
「どうした、ケフカ」
 皇帝は笑っていた。暗めの照明が、彼の顔をやけに恐ろしいものに仕立て上げていた。
「何を考えている?」
 この実験室に入ってから考えることといえば、彼のことばかりだった。
「……レオのことか?」
 皇帝の笑みが、下卑たものになった。頬が熱くなるのが分かる。唯一つ自由になる首を横に振り、「卑怯者!」と叫び、男を睨みつけた。
 腕は椅子の肘掛部分に固定され、足も太い紐で縛られてしまい、どうにも身動きが取れない状態だった。
「この、卑怯者!!」
「誰に向かって、口をきいているっ」
 言葉と共に、思いきり殴りつけられた。びりりと頬が痺れ、口の中が、血の味でいっぱいになる。唇を少し開くと、だらりと血が垂れていくのを感じた。
 今日も昨日と同じように、彼の部屋で、他愛もない話をしているはずだった。なのに、僕はこんな場所で、一か月も過ごさなくてはならない。
「…………まあ、いい。そろそろ魔導注入を行うとしよう。シド、準備はできているのか」
 奥の部屋で、老人らしき者の返事が聞こえた。べろりと血を舐めとる。錆びの味がする。胸糞が悪くなった。
『皆のためになるのなら、構わない』なんて、嘘っぱちだ。この実験が皆のためになんてならないことを、僕は知っていた。
 争い事は嫌いだ、人が死ぬのも嫌だ。魔法なんていらない。戦いを生み出すだけだろう。
 レオ、ごめん。何度目だろう。この言葉を唱えるのは。
 心の中で思う。幾度となく思う。
 嘘をついてごめん、と。
「無理矢理、実験につき合わせて、悪いとは思っているんだぞ」
 皇帝が言った。投げやりな調子だった。
「……どうだか」
「国民の血液を検査した結果、一番素質がある可能性があるのがお前だったというわけだ」
「素質、ね……」
「抽出した『魔導』を無駄にしたくはない。だから、どうしてもお前が必要だった」
「……レオのことを持ち出してでも?」
「ああ」
 初めは、実験につきあう気などなかった。けれど僕は、つきあわざるをえなくなった。皇帝は「レオが死んでもいいのか」と言って僕を脅した。「お前が実験に協力しないというなら、レオを殺す」と言い放った。
 レオのことを持ち出されれば、従う他なかった。
「準備ができました」
 暗い顔で、シドと呼ばれていた男がこちらにやってきた。この男も脅されているのかもしれない。よく分からない機械を持つ手がぶるぶると震えていた。
 隣の部屋に待機していたらしい兵士達が三人、僕を取り囲んだ。「口を開けろ」と言われて躊躇っていると、兵士に抉じ開けられた。掌程の大きさの機械についている大きな突起を、シドによって銜え込まされる。思わず呻きが漏れた。
「じっとしていろ。全部飲むんだ」
 兵士が僕の顎を押さえつけながら言った。と、突然、口腔に苦みのあるものが満ちた。
「う、う……っ!」
「飲め」
 そのあまりの苦さに、目尻に涙が滲む。舌先が痺れた。
「飲み込め」
 兵士が嗤っている。馬鹿にした目で、僕を見ていた。




 苦い液体を飲み込む、食事をする、排泄をする、体を清める、寝る。そんな日々がどれ位続いただろう。
 液体を飲み込む度に、僕の頭はぼんやりと霞みがかり、思考が上手く働かなくなっていった。
 心臓が喧しく鳴り、指先が震える。突然、足の紐が解かれた。
 そうか、ひと月経ったのかもしれない。僕は安堵の溜め息をついた。
「――――ほっとした顔をしているな」
 そう言ったのは、皇帝だった。足の紐を解いたのは、いつもの兵士ではなかったらしい。そんなことにも気付かぬほど、僕はぼんやりしてしまっていた。いつもの兵士達は、部屋の隅の方で何やら談笑していた。
 途端、皇帝が僕の下衣を引きずり下ろしたので、ぎゃあっと悲鳴をあげてしまった。片足を持ち上げられ、抵抗しようとするのだけれど、全く力が入らなかった。
 シドが走り寄ってきた。久しぶりに見る。少し痩せたような気がした。
 皇帝はシドをちらと見、こちらに視線を戻した。
「大した効果がないようなんでな、今日はこちらから入れることにしたんだ」
「こちら……って…………あ、ああぁっ!!」
 信じられない場所に激痛が走った。目の前に白い何かが瞬く。力任せに押し込まれていくそれを、凝視することしかできない。
「あ、あ……あ……っ」
「……被験者が死んだ。昨日は二人、今日は七人だ。皆、魔導の力に耐えきれずに死んでいった。生きているのは、お前だけだ」
 押し込まれたのは、いつもは口に押し込まれている、あの機械だった。滑った感触がする。何か潤滑油のようなものが塗られているようだが、それは殆ど意味をなしていなかった。
 被験者が死んだ?何人だって?
 腹の中に生温い物が流れ込んできて、背に寒気が走る。まさか、こんなことまでされるとは思わなかった。
 レオのことが脳裏を過る。彼を思うだけで、胸が痛くなった。
 彼は、僕を待ってくれているだろうか。無性に彼に会いたくなった。堪えていた感情が、溢れだしてしまいそうだった。
 僕に告白してきた時の、彼の表情や言葉を思い出す。

『こんなことを言ったら、貴方は呆れるか気持ち悪がるかするかもしれませんが……』

 そうだ、数年前まで、レオは僕に敬語を使っていた。やめさせるのが大変だった。「貴方の方が年上でしょう!」と言って聞かなかった。

『私は……貴方のことが好きです。貴方の優しい笑顔が好きです』

 レオの方が優しい笑顔をしていると思う。そう返すと、彼は首を横に振った。
 僕は幸せだった。彼の優しい笑顔と温かな腕があれば、他には何もいらなかった。
「ケフカ」
 幸せな思い出から、現実へと引き戻される。
「もう一度、注入してみようと思うんだが」
 皇帝の言葉に、僕はゆるゆると首を横に振った。頭がぐちゃぐちゃで、どうにかなりそうだった。現在と過去が混じり合い、まともな状態を保てない。
「わしは急いでいるんだ。お前に拒否権はない」
 首を横に振った。「レオ」と名を読んだ。二度と会えないような、彼の笑顔を見られないような胸騒ぎがして。
 何故だろう、もう戻れないような、そんな気がする。
 ねえ、レオ。早く、君の所へ帰りたい。




 近頃、彼の夢ばかり見るようになった。
 夢の中で、彼はいつも笑っている。淡く、濃く、弱く、強く、まるで夜空に浮かぶ星のように、様々な表情を見せながら微笑んでいた。
 本物の彼を、一目見たい。
 ケフカ以外の被験者は皆死んだと聞かされた。
 ただ、彼に会いたかった。彼の無事を確かめたかった。
 引き留めようとする同僚を振り切って、私は研究所へ向かった。


 普段の真面目さが、こんなところで役立った。見張りの兵士は簡単に私を奥へ通してくれた。
 実験室の扉は閉ざされている。その隣の部屋の扉が少しばかり開いていることに気づき、そっとそちらへ歩み寄った。
「……――――で――……だから――――」
「そうだな――……――それで…………――」
 兵士達が、何かを話している。話し終えたらしく、扉を開く音の後、部屋は静まり返り、そうして何も聞こえなくなった。
 私は、実験室に入ったことがない。その為、この建物がどういった構造をしているのかも知らない。この隣の部屋は、実験室へと続いているのだろうか。
 迷った末、私はそっと扉を開いた。ぎいぎい、と軋む戸の向こうには、一人の老人が椅子に腰かけていた。
 魔導の研究をしている男が一人、研究所にいると聞いている。とすれば、この老人が『シド』なのだろうか。しかし、『シド』はもっと若い男だと思っていたのだが。
 もしかしたら、研究が原因で老けこんでしまったのか、それとも、老けこんでしまうほどに心労が溜まっているのか。
 緩慢な動作で、老人が振り向く。
「貴方が、シドですか?」
 聞けば、彼は真っ青になった。
「そ、そうだ。……み、見張りは……いなかったのか」
「ええ」
 シドが立ち上がる。と同時に、硝子でできた器が手から零れ落ちた。割れ、床に散らばる。
「ああ、そうか、見張りは……」
 ぶつぶつと何かを呟きながら、首を横に振り、
「とにかく、出て行ってくれ。ここは立ち入り禁止なんじゃ……」
「ケフカに会いたいんです。一目見るだけでも構いません」
 シドが、ひゅっ、と喉を鳴らした。
「だ……、駄目じゃ!」
 シドが目を泳がせる。彼の視線が行きついたのは、私の右手にある茶色の壁だった。それはよくよく見てみれば不自然な代物で、他の壁は何らかの凹凸があるのに対し、その壁はやけにまっ平らだった。
「ここから、実験室に行けるんですね?」
 シドは項垂れた。「すぐに入るのは無理だ」と呟いた。
「実験室には魔導が溢れてしまっている。空気に混ざっているから、普通の人間は入ることができないんじゃ」
「……ケフカは」
 喘ぐように、彼の名前を口にした。彼は普通の人間ではない、ということか。
 私の表情で何かを悟ったのか、シドは自嘲じみた表情で唇の端を上げ、首を横に振った。壁掛けの装置に近付き、右手を持ち上げる。
「ケフカは普通ではない。普通の人間なら、もう、今頃」
 振り降ろされた右手が、大量にあるスイッチの中の一つを押した。
 壁が、茶色から薄茶色へ、そうして透明へと変化していく。そして透けて見えた光景に、私は悲鳴をあげることもできずに体を震わせた。
 椅子に腰かけているケフカの痩身に、男が覆い被さっていた。床に転がる鎧や兜から、その男が兵士なのだということが分かった。ケフカの顔は、男に遮られていて見えない。
「……もう、や……いや、だ、いやだ!!」
 弱く響く、ケフカの悲鳴。透明の壁があるというのに、どういう仕組みでそうなっているのか、声は鮮明に私を貫いた。
 体中の血が沸騰するかのような感覚に陥る。叫び出しそうな体を叱咤した。男の陰に隠れて細部は分からないが、それでも、何をされているのかは分かる。
 男が腰を動かす度に、ケフカは悲鳴混じりの喘ぎをあげる。白く細い足が揺れ、すすり泣く。もう一人の男は、隣に立ち、下卑た声で笑っていた。
「早く、やめさせろ!!」
 シドに向けて叫ぶが、シドは青い顔で立ちつくしているだけだった。
「魔導が漏れる……開けることはできん。抜けるまで、しばらく待たないと……」
「あの兵士達は入っているじゃないか!!」
「あいつらはもう駄目じゃ、魔導で頭がおかしくなってしまっている。好奇心から魔導の満ちた実験室に入り、快楽だけを追い求めるようになってしまった」
「漏れてもかまわん、早く……!!」
「急に抜くと、ケフカの体にも良くない、わしやお前も死ぬことになる!!」
 私はおし黙った。自分はともかく、ケフカの体をこれ以上傷つけるわけにはいかなかった。
「……あっ、あ、あ、あ、あぁっ」
 ケフカを犯している男の動きが速さを増す。濡れた音と、肌を打ち付ける音が響く。
「……いやだ、気持ち悪い、いやだ……っ」
「うるせえ!!」
「あぁ…………!」
 ぶるり、男が震えた。絶望に打ちひしがれた響きを持った悲鳴が聞こえ、
「……レオ……」
 彼が、私の名を呼んだ。
 胸が、焼けつくように痛んだ。
「レオ、レオ……ッ」
 男がケフカの体から退くと、精液が椅子を汚し、床まで垂れているのが見えた。
 指先が痺れ、やけに喉が渇く。
 ぱさついた金の髪。瞳は曇天のように暗かった。
 まさか、こんな目にあっていたなんて。どうしてもっと早く気付いてやれなかったのか。
「ケフカ」
 こちらの声は聞こえないようになってるらしい。ケフカはぴくりとも動かなかった。
「まだ、中に入ることはできないのか!」
 シドに問うと、
「もうすぐじゃ、もうすぐ――――」
 さっきケフカを犯していた兵士とは別の兵士が、ケフカに覆い被さろうとしている。
「いやだ!」とケフカが首を振ると、兵士は下卑た笑い声をあげながら彼の足を大きく開いた。
 ケフカが、わけの分からない悲鳴をあげる。断末魔にも似たその声は部屋中に響き渡り、そうして突然、辺り一面に電流が走るのが見えた。
「あああああああっ!!」
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
 電流が走り、火の手があがる。風がびゅうびゅうと吹き荒れ、瞬間、兵士の首が私の足元に転がっていた。硝子が割れている。ケフカが、虚ろな瞳で私を見つめていた。
「……レ…………オ……」
 血の臭いが充満する。気付けば部屋中血塗れで、二人の兵士の体は真っ二つになっていた。いや、真っ二つどころではない、とにかく無茶苦茶だった。シドはというと、外傷こそ殆ど見られないものの、気を失い、地面に突っ伏していた。
 硝子に飛び散った血がぽたぽたと垂れ、濡れた音を放つ。静かな部屋に広がる音はやけに現実的で、この光景は嘘ではないのだと私の頭に教えていた。
 これは、一体どういうことなんだ。
 心臓が早鐘を打つ。ケフカの周りに光が集まり、それは徐々に強さを増し、同時に、彼が遠くへ行ってしまうような気がした。
 足を前に出す。床は酷く滑り、赤黒く染まっている。彼が見せていた笑顔を思い出す。

『星が綺麗だよ』

 唐突に、あの夜の彼の声が蘇った。彼は、幸せそうに笑っていた。私の指に指を絡ませ、嬉しくて堪らないという顔をしていた。
 胸が苦しくて、堪らなくなる。彼は、もう一度あの笑顔を見せてくれるのだろうか。彼はどうなってしまうのだろう。
 近づき、手首の拘束を解いた。水色の瞳は、『死んでいる』という言葉を連想させる。元々痩せ気味だった体は更に痩せ、骨が浮いていた。彼の目線の高さまでしゃがみ込み、強く強く抱きしめた。
「……ケフカ」




 兵士の胴体が落ちている。
 胴体が。手が。足が。天井に血が着いている。そうだ、着いている。レオの頬にも。
 レオが、レオの幻が、僕をぎゅっと抱きしめる。僕は悟る。
 ああ、これは夢だ。
 こんな夢なら、何度も見た。レオが僕を抱きしめてくれる夢、とても悲しい、幸せな夢。

『私は……貴方のことが好きです。貴方の優しい笑顔が好きです』

 彼はいつだって優しく、僕に笑いかけてくれていた。
 彼の匂い、彼の体温、彼の真面目なところ、本当に、その全てが大好きだった。
 目の前の幻の背に手を回す。力が入らず、指先がするりと滑り落ちた。体の中には力がたぎり、なのに、指すら上手く動かすことができない。
 喰われる――――そんな考えが頭を過った。
 力に喰われる。僕が僕でなくなる。世界が闇に染まる。心と身体が引き裂かれてしまう。
 レオ、助けて。僕は口にする。いや、口にすることもできなかったのかもしれない、思っただけだったのかもしれない。
 闇は僕の頭を喰らい、力は僕の手と足と胴を喰らう。美味しそうに舌舐めずりをして、だらだらと涎を垂らす。
 僕を抱きしめている、その腕の力が強くなった。
「ケフカ!!」
 レオ。
 もう僕は駄目なんだ。何が駄目なのかはよく分からない。でも、駄目なんだ。多分、二度とレオのところへは戻れないと思う。
「私の声が聞こえるか、ケフカ……!」
 聞こえるよ。
 聞こえるのに、返事ができない。
 感情が死んでいくのが分かる。僕の中が魔導に侵されて、空っぽになっていくのが分かる。僕は魔導の入れ物になる。硝子のコップの中に満たされていく水を想像する。いつか溢れる、溢れてしまう、その水を。
 僕はどうなってしまうんだろう。
 レオは泣くだろうか。空っぽの僕を見て泣くだろうか。
 僕は彼を守れたんだろうか。彼を守るために、僕はこの部屋に入ったというのに。
 目を閉じると、真の暗闇に包まれる。
 夢かもしれない。なのに、幻に抱かれて、僕は幸せだった。




 ケフカは無表情を保ったまま、生クリームの乗ったパイを鷲掴みにする。
 白い指が生クリームで更に白くなり、パイをぱくりと一口含んだ後、彼はちらりと人形を見遣った。
 少年の人形を持ち上げ、パイをぐいぐいと押しつける。
「美味しい?」
 何もかもを諦めたような微笑で、
「ねえ、美味しい?」
 白く汚れた人形に話しかける。
「ねえ、レオ……美味しい?」
 息苦しくなる。彼の声に、震えが止まらなくなる。
 今の彼にとっては、あの人形こそが『レオ』なのだ。彼の水色の瞳に、私は二度と映らない。
 生クリームで汚れた口元と頬が、まるで化粧を施したように白く染まっている。
 唇の端を上げ、何とも表現し難い表情で、彼がわらった。




End


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