セシルを殴りつけた腕が痛かった。
闇のクリスタルを握る手が、痺れている。
どうしてこんなことをしてしまったのか、考えても考えても分からない。
辺りは闇に包まれていた。
「……お前があの男に抱いていた想いは、その程度だったということだ」
闇の中から重い声が響いてきて、同時に頭に鈍い痛みが走る。座り込んだまま、顔を上げた。
「言っただろう?他の人間に期待などするな、と」
淀んだ空気の中、黒い甲冑の男が立っていた。
男の言葉に、首を横に振る。
違う。俺の気持ちはそんなに軽いものではなかった筈だ。
小さい頃から、あいつの隣を歩いてきた。その傍にはローザもいて、これからもそれは続いていく筈だった。
俺達はずっと一緒に歩んでいくのだと、何の疑問も持たずにいた。
けれど、ローザの目がセシルの背を追っていることに気づいたとき、全ての均衡は崩壊した。
俺は、崩壊した世界から目をそむけ、今まで通りでいれば良いのだと自分に言い聞かせた。その行為は自分の心に深い傷を負わせるだけだったが、他に行くべき道も見つからなかった。
世界はぐらつき、俺は道を失い、暗闇の中に取り残されてしまった。
そこにいたのは、闇の色をした男だった。
男は闇と同化しかけていて、同じ闇の色になりかかっている俺を見て、「興味深いな」と笑った。
男は、新しい玩具を見つけた子どものように、俺の体と心で遊んだ。
俺の脳を締めつけ、洗脳し、手首を縛って中を犯した。
――他の人間に期待などするな。
男は、口癖のように言った。
――お前は、私だけを見ていれば良い。
この男は、俺の全てを知っている。
汚いところも、誰にも見せたことがない場所も、余すことなく知っている。
その事実に、“この男には何も隠さなくて良いのだ”と、俺は安堵感を覚えてしまっていた。
囚われてはいけないことは分かっていたはずなのに、俺はまだ、この男に囚われ続けている。
その証拠に、俺はここにいる。セシルの手に納まっているはずの、闇のクリスタルを持って。
「…………カイン。私は、わざとお前を手放したのだ。必ず帰ってくると分かっていたからな」
「……そ……んな……」
「辛かったんだろう?二人の傍にいることが」
「お、俺は」
「聞いていたぞ。頭の中で、独り、悲鳴をあげていただろう?私のところへ帰ってきたがっていただろう?」
「違う!違う、違うっ!!そんなこと、思うわけがない!!」
歩み寄ってきた男が、俺の腕をとり、捻じりあげた。
クリスタルが落下する。
「離せ……っ」
「この闇のクリスタルが何よりの証拠だ。何故、あの時セシルを殴った。あの時、お前は何を思っていた?」
静かで、暗い声。
何もかもを知る声に、冷たい手袋の指先に、神経が集中する。びりびりと頭が痺れる。目の前にあるのは黒い兜だ。勿論、表情はない。
「……ゴル…………ベーザ……」
「私だけを見ていろ。そうすれば、お前は傷つかないで済む」
傷つかないですむ、という言葉に、心が揺れる。
男が腕を離す。次は顎に触れてきた。男が笑う。震えている俺を嘲笑っているのだろう。
この指が優しく動くことを、俺は知っている。
ぞくり、何かが背を這い上がり、恐ろしくなって耳を塞いだ。
この男の声を聞いては駄目だ。戻れなくなってしまう、この優しい指先なしではいられなくなってしまう。
息があがる。自らの呼吸音だけが、耳の中を支配する。頭が割れるように痛い。
逃げなければ。この場所から逃れて、セシル達の元へ――――と、そこまで考えてはっとする。裏切り者の俺が、彼らの場所へ戻れるはずもない。
男の親指が、俺の唇をなぞった。頭の中に、直接、声が響いてくる。
“分かっただろう。私の傍以外に、お前の居場所はない”
ああ、もう後戻りはできないのか。
絶望に塗れた俺の体を、男は強く抱きしめてきた。胸が喚く、痛いほど鳴る。
“私だけを見ていろ。他のものを、目に映すな”
彼の声が上ずっているように感じたのは、気のせいなのだろうか。
まるで愛の告白のようだ、という愚かな考えが頭を過った。
End