『そんな事をしなくても、俺は逃げたりしませんよ。どこへも行きません。貴方の傍を、離れません』
耳を撫でる彼の声はなく、指先の温もりは、酷く遠いところにある。
「眠れんのか」
起き上がり、伯父は父に似た顔で微笑んだ。彼は父に似ていた。私は曖昧に笑い返し、頷いた。
周囲には多くのカプセルがあり、中では月の民達が眠っている。どこか落ち着かない気分で、私はぶるりと首を振った。
「それなら、空を眺めに行くといい。……そろそろ、青き星の軌道を外れる頃だ」
彼の言葉に、胸がずきりと痛む。
軌道を離れると、もう、思念波の欠片すら届かなくなってしまうだろう。
脳裏に、寂しげに眉を歪めて唇の端を上げる弟の顔が過った。
彼を森に捨てた時のことは、私の中で暗い闇として残っている。
あの日。母を求めて大きな声で泣く弟にミルクを飲ませ、眠らせた後、私はそっと家を出た。
満腹になった弟は、幸せそうな顔で眠っていた。なのに、地面に寝かせた途端、ぎゃあっと大きな声をあげて泣き出してしまった。
怖くなった私は、何も考えずに駆け続け――――そうして次の日森を訪れたときには、弟の姿は消えていた。
耳にこびりついている、あの泣き声。きっと弟はモンスターに殺されてしまったのだ、と私は思い悩み続けた。
けれど今は、あれで良かったのかもしれない、と思う。私といたら、彼もゼムスに利用されていたかもしれないからだ。
何より、彼にはかけがえのない仲間達ができた。それは何ものにも代え難いものに思えた。
そう、何ものにも代え難いもの。
ぞくりと何かが背を駆け抜ける。指先に残る感触を思い出し、身を震わせた。
強く手首を握ると、彼は笑った。金の髪を揺らし、仕方がないな、とまるで子どもをあやすような表情で笑った。
『そんな事をしなくても、俺は逃げたりしませんよ。どこへも行きません』
カプセルを出、歩き始める。地上を目指し、足を動かした。
指先に残る、手首の感触。骨ばった手は白く、血管がうっすらと青く透けていた。
『貴方の傍を、離れません』
あれは、あの言葉は、優しい嘘だった。いつか別れる日が来るということを彼は知っていた。
いや、私も知っていたのかもしれない。だが、認めたくなくて見ないふりをしていた。
彼を抱きしめているとき、私はとても幸せだった。抱きしめられていたのは、私かもしれなかった。
地上に出ると、青き星はとても小さくなっていた。
無数の星の中に浮かぶ青き星は、一際美しく輝いて見えた。
セシル。
カイン。
思念波で呼びかけようとして、躊躇う。
名を呼んで、それから何と言うつもりなんだ。自分でも、分からなかった。
――セシル。
心の中で呼びかけた。
お前には、もう一言だけでいい、別れの言葉を言っておきたかった。
――さよなら、セシル。お前の幸せを願っている。
ただ、セシルの幸せを願う。彼が笑顔でいてくれれば、それでいいと思った。私が願うまでもなく、彼はあの少女と幸せに暮らしていくのだろうけれど。
この言葉が聞こえているかどうかは分からない。それほど、青き星は遠くなっていた。
静かに息を吸う。意識を集中させた。
セシルは幸せに生きていくだろう。
では、あの青年は。どういう風に生きていくのだろう。
――カイン。
祈るように、呼びかけた。
――カイン、私の声が聞こえるか。
●
あの男を想うとき俺が思い出すのは、淫らな手つきでなければ、甘い口づけでもない。
氷のように冷たい、長い指先だった。
今夜は風が冷たい。まるで彼の手のようだった。
兜を地面に置く。立ち上がった瞬間、焚き火がふっと掻き消えた。
「……っ!」
モンスターかと思ったが、殺気はどこにもない。何故か槍をとる気にもなれず、導かれるようにして空を見上げた。
月がやけに遠く見えた。
「…………ゴルベーザ……?」
俺を縛りつけている男の名が、口を滑り出た。
どうして、あの男の名を呼んでしまったのか。心臓が激しく鳴る。喚き散らしたい気分に襲われた。
――カイン。
幻聴か、それとも。
耳を塞いだ。目を閉じた。
――カイン、私の声が聞こえるか。
思念波だ。小さいが、間違いない。
耳を塞いでいるから、外部の音は殆ど聞こえない。目を閉じているから、何も視界に入ってこない。
あるのは、この男の声だけだ。ゴルベーザの、声だけ。
――お前の傍には今、誰がいる?
俺は一人だ。
返答し、俺は少し笑った。
――お前は誰と笑い合っている?
俺の返答が聞こえていないのか、彼は至極真面目にそう言った。
きっと、俺に声を届けることはできても、受け取ることはできないのだろう。
徐々に小さくなっていく彼の声を聞くために、俺は心を研ぎ澄ました。
――永遠なんて存在しないと、お前は知っていたんだろう?
ああ、知っていたよ。
聞こえないと知っていながら、答える。
永遠にお前の傍にいられるだなんて、そんなこと、ある筈がない。
お前は信じていたのか?ゴルベーザ。そんな夢のような話を本気にしていたのか?
本当であれば、どんなにか幸せだったろう。
――私は、ずっと、お前を抱きしめていたかったよ。……けれど、私は青き星に残ることはできなかった。私にとってもお前にとっても、良くないことだと思ったからだ。
そうだ、お前はそういう奴だったな。
ゼムスに操られている時でさえ、心の内にある真っ直ぐな部分を覗かせていた。
ゴルベーザの声は遠く、微かなものになっている。
目蓋を上げると、小さな小さな月が見えた。
あの場所に、彼がいる。
月は更に遠くなっていく。理由は分からないが、月が見えない場所へ行こうとしているのは分かった。
――私は、お前のことを……――――――。
最後の方は、聞き取ることができなかった。必死で聞こうとするのだが、願いは叶わない。
「……ゴルベーザ」
もう一度目を閉じる。
鮮やかに蘇る、冷たく長い指先。
腕を辿り、肩を、首を辿る。細められた切れ長の目元、薄紫の瞳、思い出の中の彼は、幸せそうに微笑んでいた。
胸が痛い。痛くて、どうしたらいいのか分からない。
カイン。
そう言って俺の手首を掴む彼の不器用さが、ただただ恋しかった。
End