セオドアが行方不明になった、と聞いたのは、朝起きてすぐのことだった。狼狽えるローザとセシルが、視界に飛び込んでくる。
 とにかく手がかりをと思い、ローザの顔を覗き込んだ。
「……心当たりは?」
「わから、ないの……」
 首を横に振り、
「昨夜も、おかしな様子はなかったわ。少なくとも、私にはそう見えた。セシル、カイン。貴方達は、どう思う?」
 問われ、俺は首を横に振った。セシルも同様だった。ここは、よく見知った青き星ではない。月だ。何が起こるか分からない。何しろ、見たこともないような魔物達がうろうろしているのだ。もしかしたら、何らかの事件に巻き込まれてしまったのかもしれなかった。
「……皆で、手分けして探そう。早く見つけてやらなければ」
 俺がそう言うと、皆は深く頷いた。



 上の階層は他の者達に任せ、下の階層へと向かう。今までよりも強い魔物が現れるかもしれないと気を引き締めながら、セオドアのことを想った。
 セオドアは、四六時中見守ってやらねばならぬような、幼い子どもではない。何も言わずにどこかへ行ってしまうような少年ではなかった。だとすれば、彼はどこに行ってしまったのか。
 彼が普段携帯していた非常用の食料は、テントの中にそのまま残されていた。彼は、着の身着のまま出ていったのだ。
「……セオドア」
 胸がざわつくと同時に、獣の声が聞こえた。
 慌てて振り向くと、数体の魔物がこちらを睨みつけ、牙を剥こうとしているところだった。これで十体目だ。
 やはり、この場所は危ない。セオドアのことが気にかかる。
 槍を振るい、魔物を倒す。視線をうろうろとやって、魔物の口や牙にセオドアが流した血の痕がないか確認する。魔物達にそれらしき血痕はなく、安堵する頃には、魔物は一体残らず地面に突っ伏していた。
 体についた傷を白魔法で回復してから、頬に飛んだ返り血を手の甲でぐいと拭った。
 大きな溜息をつき、ゆっくりと歩みを進める。視界は薄暗く、足元に広がる地面は傷んでいた。古ぼけたそのさまは、まるで廃墟だ。忘れ去られて捨てられて、埃が積もっていた。それなのに、空気はやけに澄んで冷えている。大きく息を吸えば、喉の奥に冷たい空気がきいんと入り込み、肺までも冷やしていった。
 傷んだ道、今にも倒れてしまいそうな柱。危険はこんなところにもあった。今頃、転んで身動きが取れなくなって、どこかでべそをかいているかもしれない。どこか暗い気持ちになり、俯いた。
「――――カイン」
 呼ばれ、声のする方を見た。そこに立っていたのは。
「ゴルベーザ……?」
 男は、真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていた。
 胸の高鳴りを抑えられず、拳を握り締める。
「お前、セシル達と一緒に上の階層へ行ったんじゃなかったのか」
「セシル達に頼まれたのだ。『心配だから、様子を見てきて欲しい』と」
「……そうか」
 セシルとローザらしい話だ、と思った。一人で行くと言った俺を止めはしなかったけれど、心の中では心配していたのだろう。
「お前が来てくれて良かった。さっきから、見たことも無いような魔物に襲われ続けていて、一人では少し心許無いと思っていたところだ」
 俺は、普通の『仲間』らしい態度をとれているだろうか。
 俺の話を聞き、ゴルベーザはゆっくりと頷いた。
「確かに、未知の魔物が多い。気をつけねばならんな」
「ああ」
「さあ、行こう」と声を続けようとしたその瞬間。耳の奥に、違和感が響いてきた。
 何かの音がする。どくん、と心臓がはねた。
 それはゴルベーザも同じだったようで、「カイン」と焦った声を出す。
 途端、足元がぐらりと傾いだ。
「ゴルベーザッ!」
 唐突に、足元が崩れ始めた。クッキーのようにぱっきりと割れた地面の下には、暗闇が広がっているばかりだった。すんでのところでよじ登り、ゴルベーザの姿を探す。彼は、崖のようになった地面を片手で掴み、その場所に留まっていた。今にも、落ちてしまいそうだ。
「ゴルベーザ、手を」
 彼の腕を引こうとした。が、重くて持ち上がらない。ゴルベーザの体を引き上げようとするその間にも、足元はぱらぱらと音をたてて少しずつ崩れ続けている。掌が、汗で滑る。これ以上踏ん張ったら、地面が思い切り崩れてしまうかもしれない。
 ゴルベーザはテレポを使うことができない。そこまで考えてはっとした。そうだ、俺はテレポを使えるではないか、と。
 唇を開き、テレポを唱えようとした。
「…………っ!」
 視界がぶれたようだった。そこで初めて、魔力が底をついていることに気がついた。さっき使った回復魔法で、魔力を使いきってしまっていたのだ。懐を探ればエーテルがあるはずだが、エーテルを飲んでいる間に、ゴルベーザは落ちてしまうだろう。
 ゴルベーザは、「もうやめろ」と首を横に振った。彼の手は力を失いかけている。俺が離せば、彼は地面の裂け目に真っ逆さまだ。
「その手を退けろ。お前まで落ちる」
「馬鹿なことを言うな!」
「いいから離せ」
「離すものか!」
「カイン……」
 俺は必死だった。
 この手に触れたのは、久しぶりだった。ずっと昔、ゾットの塔で暮らしていた頃は、何度も触れていたように思う。いや、触れられていたと言った方が正しいのかもしれない。
 再会したばかりなのに、話したいことの欠片ですら話せていないのに、この手を離せるはずがない。
 ゴルベーザは、『仕方のない奴だ』とでも言いたげな目で、ただ、静かに優しく微笑んでいた。
「……お前は、変わらんな」
「な、何を言って……っ」
「褒めているんだ」
 ゴルベーザの手に、光が凝る。その鮮やかな紫色に目を奪われ、一瞬息が止まった。
 光が瞬き、目が眩む。あっと思った時にはもう遅く、ゴルベーザの手を離してしまっていた。
「……ゴルベーザッ!」
 慌てて地面を蹴った。蹴られた地面は砂糖菓子のように簡単に崩れ落ちてしまった。
 落ちて行く男に、手を伸ばす。彼の手をもう一度掴もうとする。
 もうすぐ掴める、と思ったその時、後頭部に大きな衝撃が走った。
 嫌な音がした。ぱちぱち、と目の前に光が散る。
「う……っ!」
 痺れるような痛みと共に、視界が、真っ黒になった。

***

 カインの頭に、崩れ落ちた岩が当たったのが見えた。
「カイン!」
 衝撃で意識を失ってしまった彼は、目を開かない。金髪の一部分が、真っ赤に染まっている。
 このままでは、二人とも死んでしまう。
 落下の速度が早まって――――目の前が、鮮やかな青に変わった。
 冷たく痛い、何かが体に突き刺さった。今にも凍えてしまいそうなほど冷えているそれは、磨き抜かれた宝石のように澄んだ、水だった。
 こんなところに泉が? と思う暇もない。水の中、たゆたい沈んでいこうとするカインの体を、必死で手繰り寄せた。
 カインを助けるためにと光を放ったはずだったのに、結局、カインを危険な目に合わせることとなってしまった。これは、私の落ち度だ。
 どうにか、カインの手首を掴むことができた。槍と共にそのまま引き寄せ、腕の中に抱く。揺れる私達の懐から何かが零れ出て、泉の底へと沈んでいった。
 水を吸った布と濡れた鎧は重く、ぽこりぽこりと唇の端から漏れていく空気を横目に、地上を目指し、泳ぎ続けた。
 淡い光が見える。揺れる水面が、どんどん近づいてくる。それでもまだ遠い。空気が欲しくて堪らなかった。何より、カインのことが心配だった。ひどく冷たいこの水の中では、彼の体温を感じることができない。透明な水の中に、血の色が混じった。
 水面だ。水面が近い。カインを胸に抱き寄せ、水面に向かって手を伸ばした。
「……っ!」
 ああ、呼吸することができる。地上だ。
 くらくらする頭を叱咤し、カインを地面に横たわらせた。
「カイン!」
 当然のように、返事はなかった。
「カイン……返事を」
 唇が真っ青だ。慌てて鎧を剥ぎ、胸元を寛げた。抱き上げ、きつく背中を叩く。激しくむせながら、彼は水を吐いた。
 青い瞳が、震える瞼の隙間から覗いた。
「……ゴル、ベーザ……」
「カイン」
「お前は、無事、か……?」
「……私のことは気にするな。それより、お前の方が――――」
 彼の頭を抱えると、指先に血のぬめりが触れた。傷は浅いらしく、大した出血はない。泉の中ではもっと出血があるように見えたけれど、あれは水のせいだったのだろう。
 それよりも、カインの体温が気になった。氷のように冷たい体を、温めてやらねばならないと思った。辺りを見渡せば、小さな森と洞窟があった。
 これなら、何とかなるかもしれない。
 カインは、再度気を失っていた。本当なら回復薬を与えてやらねばならないところだが、私達の手元には何もなかった。私の荷物も彼の荷物も、既に水の底だ。
 水が滴っているカインの体を抱き上げ、洞窟の中へと足を踏み入れた。



 もしかしたら魔物が潜んでいるかもしれない、などと、最初は考えていたのだけれど。洞窟の中の空気はとても澄んでいて、ここが魔物の棲み家ではないということを、私に教えていた。
 何故、魔物の気配がないのだろう。疑問に思いながら、カインを休ませる場所を探す。
 あたたかい何かが、足に触れるのを感じた。
「これは……」
 足元にあったのは、魔方陣の一部だった。よくよく見てみれば、魔方陣は洞窟の外まで続いている。魔方陣はあたたかく、体力を回復させる力を持っているようだった。誰が設置した魔方陣なのかは分からなかったけれど、心の中で、見知らぬ誰かに礼を言った。
 カインをそっと寝かせ、外に向かう。火を起こさねばならない。彼の体を温めなければ。
 落ちた木の枝を拾い集めて洞窟に戻り、ファイアを唱えた。
 水の滴る音が、天井から降ってくる。雫は、不規則に何度も何度も滴り続ける。その音に重なって、火が燃える音がぱちぱちと響く。橙色の灯りがカインの顔を照らしても、彼は目を覚まさなかった。
 濡れた服を脱がせれば、彼は寒さに身を震わせた。青白い顔は、死者を思わせる。嫌な妄想にとり憑かれ、頭の奥が痛くなる。
 何かで体を包んでやれれば良いのだけれど、生憎ここには何も無い。この魔方陣の上で一晩休めば、傷口は塞がるだろう。だが、彼の体を温める方法を見つけられずにいた。焚き火だけでは、不十分だ。
「カイン……」
 思わず、彼の体を強く抱きしめた。こうすれば温もりを与えることができるのではないか、と考えたのだ。
 濡れた金髪に鼻を寄せ、きつくきつく瞼を閉じた。
 彼に触れることができなくなってから、どれだけの時間が流れていったのか。
 十数年前。私は、青き星を離れ月に残ると決めた。思念波で「すまなかった」と繰り返す私に、彼はただ、「忘れろ」と答えた。「あれは、悪い夢だったんだ」と。
 私は、カインの体を悪事に利用した。いや、体だけではない。弱り果てていた胸の奥を暴き、彼の中にある何もかもを得ようとした。体を支配するだけでは満足できなかった。体の下に組み敷き口づけを交わしながら、「私だけを見ろ」という囁きを繰り返していた。
 あの頃の私は、洗脳で得られぬものを力尽くで得ようとしていた。決して得ることのできない、彼の心を。
 ――――胸が、酷く痛んだ。
 月で眠り始めても、彼への想いは消えなかった。その感情が愛情なのだと気づいたのは、いつのことだったか。
 私は、彼の優しく寂しい心に惹かれていた。優しい心の中には、寂しさと悲しさがあった。カインなら、私の心を理解してくれる――――そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれなかった。
 カインの言うとおり、何度も『悪い夢だ』と思おうとしたけれど、そう思うには、彼の存在は鮮やかすぎた。ゼムスの言いなりになっていた日々は確かに悪夢だったけれど、カインと過ごした日々を悪夢と思うことはできなかった。
 弟を――――セシルを置き去りにしたあの時、私の世界は灰色に変わった。何もかもが色褪せて見えるようになり、そのまま、色を持つことなく命を終えるはずだった。
 灰色の世界に一滴の色を与えたのが、カインだったのだ。ミストで初めて目にした時の、あの金と青の色合いを忘れることはないだろう。
 彼と再会することができるだなんて、思ってもみなかった。私の想いは、彼に伝えられることなく腐っていくのだろうと思っていた。それなのに。
「……カイン」
 微かに、カインの瞼が震えた。青い瞳がちらと覗いたその瞬間、私の心臓は大きな鼓動を刻み始めた。
「……ゴル、ベーザ……?」
 夢現、というような表情で、彼は私の名を呼んだ。
「ここは、一体……?」
「……地面が崩れたことは覚えているか?」
 まだ本調子ではないのだろう。ぼんやりと記憶を辿るような目をしながら、カインは「ああ」と小さく頷いた。
「ここは、あの崩れた地面の底だ」
「俺は……溺れたのか?」
 湿った体を見て、カインは小さく唇を歪める。
「岩が頭に当たり、お前は気を失ってしまった。そのまま、泉の中に……」
「……そうか」
「この場所には、魔方陣が張られている。この場所にいれば安全だ。ゆっくり休め」
 寒さに身を縮め丸め、微かに震えてから、カインは「すまない」と私の首筋に顔を埋めた。
 一人下層に向かったカインを、セシルとローザは心配していた。カインには「セシル達に頼まれたのだ」と言ったけれど、様子を見に行きたいと言い出したのは私だった。ただ、カインのことが心配で、どうしても気にかかって――――だが結局、彼を危険な目にあわせてしまった。私の腕にぐったりと身を預けている彼を見ていると、ミストで出会った時のことを思い出さずにいられなくなる。
「裸でいることは恥ずかしくないのか」と問うと、彼はやわらかく微笑む。「今更だろう?」と言う彼の上目遣いに射抜かれ、慌てて体を離そうとした。何か、別の感覚が目を覚ましてしまいそうだった。
「ゴルベーザ」
 呼ばれ、息が詰まった。彼の額に落ちた金の髪を掻き上げると、甘える仕草でそっと瞼を閉じる。冷たい額だった。冷たいはずなのに、じっとりとした汗をかいている。
「もう少しだけ、このままでいてくれないか。……少しだけでいいから」
 焚き火の音に、耳を澄ます。時間が止まったように感じられた。やわらかい彼の表情が、ただただ眩しかった。寒さに耐えかねて、私の体にしがみついているのかもしれない。だが、それでも構わなかった。彼に必要とされているということが、嬉しかった。
「お前は……」
 彼の唇が、掠れた声を発した。
「……お前は、後悔しているんだろう?」
 声の中に、切なさが混じっていた。
「後悔?」
 問いかけられた言葉の意味が分からず、同じ言葉を繰り返す。私の胸に頭を預けている彼の体温は、低いままだ。その体温に不安を感じながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「俺とのことを、後悔しているんだろう?」
 声が震えている。それは、恥ずかしさをおぼえている、というような声だった。もしかしたら間違っているかもしれないと考えながら、私は問い返した。
「俺とのこと……とは? お前を、抱いたことか」
『抱く』という言葉に反応したのか、彼は口をぱくぱくさせた。その様が愛おしくて、心が震えた。
「そうだ……」
 唇を引き結んで、彼は頷いた。
『後悔なんてしたこともない』と言えば、嘘になる。後悔したことなら、何度もあった。
 彼を不幸にしたのは私だった。仲間を裏切るよう仕向け、彼の居場所を消そうとした。それは、ゼムスの洗脳のせいだけではなかった。私は、カインを欲しがっていた。彼を不幸にしてしまったという考えが、私の胸を苛んでいた。拾わなければ良かった触れなければ良かったと、彼の寝顔を見つめながら何度も何度も思った。
 あの時出会わなければ、ミストで彼を拾わなければ、私は、寂しさや孤独を感じずに生きていくことができた。一度温もりを知ってしまえば、その温もりを手放せなくなってしまう。カインに執着し、温もりを求め、彼を抱きしめずにはいられなくなってしまう。
 それは、自分勝手で酷く醜い感情だった。
「寒い……」
「カイン」
 カインは、寒さに震え続けていた。
 魔力が全く無い状態、しかも頭に傷を負った状態で冷たい水の中に飛び込んだのだから、無理もない。
「……すまない。セオドアを、探しに行かねばならないのに。早く探してやらなければ、セオドアは」
 嫌な考えばかりが頭を過る。
「セオドアは、私が一人で探しに行く。お前はここで休んでいろ。だが……」
 セオドアを探しに行かねばならないことは分かっていた。けれど、カインの体が心配だった。このまま寝かせておく気にはなれなかった。
「カイン。……私に触れられるのは、嫌か?」
 僅かな間があった。
「嫌じゃ、ない」
 彼は、静かに首を横に振った。嫌ではないと言う彼の言葉が、嬉しかった。
 彼の唇に、唇を近づけていく。拒まれるかもしれない、と覚悟していたのに、彼は私を拒まなかった。それどころか、瞼を閉じて口づけを待っている風でもあった。
「ん……」
 吐息が触れ合う。頭の奥がじんじんと痺れる。触れた場所から、彼の体温が上がっていくような気がした。『体を温めるためだ』という言い訳を、自分自身に言い聞かせる。
「カイン。私は、お前とのことを後悔していた。お前に出会わなければ良かった、と思ったこともあった」
「ゴルベーザ……」
 悲しげな表情を隠そうともせず、彼は俯いた。彼の髪に口づけて、私は言葉を続けた。
「私は、お前の存在を恐ろしく思っていた。空虚な私の心に簡単に入り込んできたお前を手放せなくなることが、ただ、恐ろしかったのだ」
 言葉と共に、首筋に唇を押し当てた。驚いた声をあげた彼の手が、私の背中に爪を立てる。久しぶりの感触だった。求め、焦がれ続けていた彼のにおいがした。
 ゾットの塔では、何度も抱き合ってお互いを確かめ合っていた。そうしなければ、自分が立っている場所を確かめることすら出来なかった。
「ゴルベーザ……俺は……」
 私の耳に唇を寄せて、呻くように呟いた。それは、聞いたことのない響きを持った声だった。笑顔も、怒った顔も、甘い喘ぎ声ですら、彼の何もかもを知り尽くしたつもりでいたのに。
 彼はどんな表情をしているのだろうと顔を覗き込めば、潤んだ瞳で、こちらを見つめ返してきた。青い瞳が揺れるその光景は堪らなく扇情的で、同時に、胸を抉るほど悲しかった。
 肩の辺り、背筋、指の先にまで、甘い痺れが走った。
「……お願いだ、下ろしてくれ……お前に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」
 視線が泳いでいた。どういう意味なのか、と問うよりも早く、カインは大きく身を捩った。私の腕から滑り落ち、地面に崩れ落ちてしまう。
 やはり、私に触れられるのが嫌だったのだろうか。
 岩場についた膝が痛そうだった。再度抱き上げようとすると、軽く手を振り払われた。カインは、涙目になっていた。
「俺はいいから、早くセオドアを」
 彼は、私の手から必死で逃れようとしていた。上体をどうにか起こして後退り、足を閉じている。その足の格好はどこか不自然で、彼が『迷惑』と言った意味を知った。
 逃れようとした体は、いとも簡単に捕まってしまう。彼の背が、洞窟の壁面に触れた。
「あ、あ……っ!」
 足を開かせると、彼のものは反応し始めていた。軽く握れば、更に芯を持ち始める。彼は、感じていることを知られたくなかったのだろう。
「……さ、さわら、な……っあ……っ!」
 上ずった声ですら、懐かしくて。
 昔は、傷口を拡げるような抱き方しか出来なかった。カインが傷つく言葉を探し、わざとらしくその言葉を囁き、傷ついた表情を浮かべている彼を、手酷く犯した。「やめてください」と乞う声を封じ込める為に声を出すことを禁じたこともあった。手や足を縛りつけたこともあった。
 優しくする方法が分からなかった。それは、優しくされたことがなかったからだった。ゼムスに操られていた私の中には、『優しさ』というものは存在していなかった。
 どう接すれば良いのか、何をすれば、カインは自分の思い通りに動いてくれるのか、そんなことばかり考えて、カインの気持ちなどこれっぽっちも考えていなかった。
 駄々をこねる子どものようだった私に、カインは優しさを教えてくれた。
「出る、から……手を……やめ……っ」
 彼は、両手で顔を隠している。
 親指で先端を抉り、先走りを舌先で舐めとる。あえかな喘ぎが洞窟内に響き渡り、カインの体を熱くしていった。
 呼吸が、浅く早くなっていく。
「い……っ、ああぁっ!」
 口腔に溢れた精液は、とても多かった。全てを飲み込もうと、最後の一滴まで吸い出す。吸う度に震える彼の反応が、堪らなく私を煽った。
「……ゴルベーザ……お前は……?」
 彼の手が伸びてきて、私の頭を撫でた。赤くなった眦が、劣情の炎を大きくさせる。
 苦く塩辛い液体を飲み込もうとして、やめた。
 これで終わりにしようと思っていたのに、そんなことを言われてしまっては、どうしても我慢できなくなってしまう。
 口の中にあるものを、カインの太腿に垂らした。
「……っ!」
 そんなことをされるとは思っていなかったのだろう。目を見開き、「ゴルベーザ……?」とカインは首を傾げた。
 太腿に垂らしたものを、舌で内腿まで拡げていく。
 再度硬度を持ち始めているものに舌を這わせてから、自らのペニスを取り出した。
 カインの太腿同士をぴったりと合わせ、その間にある僅かな隙間にペニスを潜り込ませた。
「んっ! あ……っ!?」
 ずる、とペニス同士が擦れ合った。カインの精液が潤滑油となり、くちゅくちゅといやらしい音をたてる。カインは「挿れても良かったのに」と息も絶え絶えになりながら言ったけれど、彼の体力を奪うことは避けたかった。
「カイン」
 熱くなった彼の体に安堵しながら、閉じさせていた足を開いた。カインのものと自らのものを一緒に握り、空いている方の手で彼の体を抱き寄せる。私の首に腕を回し、カインは甘い悲鳴を漏らしていた。
「気持ち良いか? カイン……」
「い、い……気持ち、い……っ」
「……そうか、良かった」
 耳元にかかる、彼の吐息が堪らない。私の名を小さく呼びながら、カインは悦楽を追っている。肌を合わせた場所から、彼の体温が伝わってくる。
「もう……」
 もう出てしまう、と言う声に、頷いた。
「私も、もう……」
「あっ! ゴルベーザ、あ、あ……っ!」
 温い精液が、互いの腹を濡らした。
 交わした口づけは激しく、けれどどこか優しい。
 身を離し難くなり、彼が眠ってしまっても、長い間彼の体を抱きしめていた。

***

「――――ゴルベーザ?」
 目を覚ますと、ゴルベーザの姿はなかった。
 洞窟の中だから、朝なのか昼なのか、それとも夜なのか、それすら分からない。後頭部に手をやると、傷はすっかり塞がっていた。体が冷えすぎたがために感じていた手の痺れも、ない。
 体の上には、乾いた俺のマントがかけられていた。焚き火は、今にも消えそうになっている。
 体に残る、彼の指の感触。体は綺麗に拭かれていて、何の痕も残されてはいなかったけれど――――ただ、その感触だけが残っていた。ゴルベーザは、俺の体を温めるためだけに俺を抱いたのだろう。それでも良かった。彼の気持ちが嬉しかった。
 俺を心配して、追いかけてきてくれた。俺の体を温めるために、抱きしめてくれた。それだけで十分だった。
 身を起こし、洞窟の中を見渡す。俺の服や鎧は、焚き火から少し離れたところにきちんと置かれていた。やけに几帳面な置き方のそれに、思わず笑みが溢れる。
 服や鎧を身につけ槍を握る。そうすると、不思議と力が湧いてくるような気がした。
 ゴルベーザは、一人でセオドアを探しに行ったのだろう。
 確かに、この魔方陣の上に魔物はいない。だが、この場所を離れたら、どんな魔物が居るのか、それすら分からない。早く後を追わねばならない、と思った。
 洞窟を出ると、小鳥の囀りが聞こえた。澄んだ泉が目の前に広がる。その美しさに、思わず感嘆の声が漏れた。俺は、こんなにも美しい泉を見たことがなかった。バロンの近くにある泉は、こんなに澄み切っていない。
 辺りを見回してみるのだけれど、ゴルベーザの姿はどこにもなかった。
「ゴルベーザ!」
 ピィ、という声をあげて、小鳥たちが飛び立っていく。
 彼はどこにいるのだろう。もう、この近くにはいないのかもしれない。
「ゴルベーザ! 近くにいるなら、返事、を――――」
 木々を掻き分ける音が、耳に届いた。
「……ゴルベーザ……!」
 現れたのは、ゴルベーザだった。
「カイン。もう、動いても平気なのか」
「ああ。お前のお陰だ。……ありがとう」
「いや、礼を言われるようなことはしていない」
「そんなことはな――――」
 俺が大きな声を出そうとした瞬間。不器用な笑みを浮かべ、ゴルベーザは唇に人差し指を当てた。それから、何かを背負い直す。
「今、やっと眠ったのだ。起こしたくない」
「セオドア……」
 ゴルベーザの背には、セオドアが居た。ゴルベーザの背が大きすぎて、正面からはセオドアの姿が見えなかったのだ。セオドアは、安堵の表情を浮かべ、小さく寝息をたてている。大きな背中に寄りかかっている少年の姿がやけに小さく見えて、思わず笑った。
「見つかって良かった」
 俺が言うと、ゴルベーザは大きく頷いた。
 幼い寝顔を見せているその頬を撫でてから、ゴルベーザを見上げた。
「私達と同じように上から落ち、一晩中この森の奥をうろうろしていたらしい。落下した場所がやわらかい草の上だったからか、怪我もなかった。泉の中に落ちていたら、お前のように凍えてしまっていたかもしれない」
 ただ、上に戻る方法を見つけられずに迷い歩いていた、ということらしい。剣を構えて泣きそうになっている所を発見した、とゴルベーザは笑った。
「どうやら、私のことを魔物だと思ったようだ。だから、剣を構えていたのだな」
「お、お前を?」
「大きな熊のような魔物だと思ったらしい」
 俺が笑うと、ゴルベーザはまた、人差し指を唇に押し当てた。慌てて頷き、ゴルベーザの武器を預かる。ゴルベーザは非力ではない。とは言え、セオドアは赤ん坊ではないから、それなりに重いに違いなかった。
「あ」
 あることに気づき、ゴルベーザの頭に手を伸ばした。
「……どうした?」
「葉が」
「葉?」
 青々とした葉が、彼の髪に絡まっていた。一生懸命手を伸ばしてみるのだけれど、頭の頂上にあるせいで、どうしても届かない。
「絡まっている。屈んでくれ」
 頷き屈んだ彼の髪に触れた。自然と、顔が近づく。葉を握り締めたまま、いつの間にかゆっくりと瞼を閉じていた。
 落とされたのは、触れるだけの優しい口づけだった。
「カイン」
 薄紫色の瞳が、俺の瞳をじっと見つめている。
 何故だろう、体の奥を探られるよりも恥ずかしい。
「ゴルベーザ。……昨日は、本当にすまなかった。お前にあんなことをさせて」
「あんなこと?」
 近い場所にある瞳にどきりとして、目を逸らした。
「……私は、お前に触れられて良かったと思っている」
 信じられない言葉を聞き、再度、ゴルベーザの瞳を見た。
「お前の方こそ、嫌だったのではないか? 体を温めるためとはいえ、お前を操って支配しようとしていたような男と仕方なく……」
 驚いて、首を横に振った。
「俺も、お前に触れられて良かったと思っている。ずっと、お前のことを忘れられずにいたから」
 心が、想いが、やっと交わったような気がした。心臓の音が、煩かった。
「カイン。私はまた、青き星を離れなければならない。フースーヤや月の民達がどうなったのか……この目で確かめ、彼らを救わなければならない」
 ゴルベーザなら、そう言うと思っていた。彼は、また去って行ってしまうのだと。もう二度と、会うこともできなくなるのだろう、と。
 だが、ゴルベーザは思いがけない言葉を口にする。
「月の民達を救った後、私は、青き星に戻ろうと思っている。青き星で、お前と暮らしたい。お前と、生きていきたい」
 息が詰まった。
 返事をしなければならないと思うのに、何も言えない。喉の奥が苦しくて、言葉にならない。
 視界が、滲む。
 何度も頷いて、ゴルベーザの胸に顔を埋めた。




End


Story

ゴルカイ