水滴の音が、虚しく響く。溜め息を一つついてから、目の前の鉄格子を見つめた。
 頑丈で、到底出られそうにない。出られたとしても、鉄格子の向こうにいる魔物に殺されてしまうだろう。
 愛用していた刀も苦無も、取り上げられてしまっている。手裏剣一つ持っていない。こんな状況で、魔物に勝てるはずがない。
「……ちっ」
 舌打ちは、想像以上に大きく響いた。



 大きな火の魔物を――――ルビカンテを追いかける日々が続いていた。
 爺や民達に止められても、俺はあの魔物を追いかけずにはいられなかった。
 両親を殺した魔物は強く、俺一人がかかっていって倒せる相手ではないという事は分かっていたのに、それでも動かす足を止めることはできなくて。
 憎かった。殺してしまいたかった。ただ、あの魔物の太い首筋に刀を突き立てたくて堪らなかった。振り上げた刀を突き刺す――――そんな夢を何度も何度も見て、俺はなんて愚かなんだろうと思った。

『私が憎いのか?』

 震える足を叱咤して魔物の前に立ちはだかったその瞬間、そんな言葉を投げかけられた。
 膝ががくがくとわらっていた。『これは親父とお袋を殺した魔物なのだ、強かったあの親父を簡単に殺してしまった相手なのだ』と思うだけで、俺の足は竦み上がってまともに動かなくなる。
 魔物は、そんな俺のことなどお見通しだったのだろう。微かに笑いを含んだ声で、続けてこう言った。

『お前は、私を殺せない』

 ――――分かっていた。馬鹿みたいに震えているこの足で、一体何ができるというのだろう。
 握り締めている刀の柄が、汗でずるずるとぬめっている。踏みしめた足の感覚が無い。視界がぶれる。魔物の背後にあるのは、嫌になるくらい美しい満天の星空だった。
 俺は、この男に勝てない。
 それでも、やらなければいけないような気がした。
 刀を振り上げ、地面を蹴る。
 同時に感じた炎の熱さに焼かれ、視界が急速に暗闇へと変わっていくのを感じていた。



 そうして俺はルビカンテに捕らえられ、檻の向こうで生活することになった。
 することもなくできることもない牢の中で、ただぐるぐると、懐かしい夢を見続けている。
 ――――幸せだった頃の夢を。
 親父とお袋が笑っている。そんな親父達を見上げて、俺も笑う。眩しい笑顔を眺めながら、俺は、この平和な日々が永遠に続くのだと信じ切っている。『いつかはお前が王になるんだ』と親父に告げられても、現実感はまるでなくて。
「―――――……あ……っ!」
 温いものが頬を伝い、その感触に引き摺られ、瞼を開いた。
 誰かが、俺を見下ろしている。けれどその姿は、涙に遮られてよく見えなかった。
 そっと眦を撫でられる。優しい手つきだった。慰める手つきだった。覚醒しかけた意識が、再度、深い場所へと沈んでいく。
 何かの魔法をかけられている。優しい手は高熱に侵されている者のように熱かった。
「……誰、だ…………?」
 問いかけても答えはない。分からない。
 眠気に抗えぬまま、そっと意識を手放した。


***


 夢を見ることもできなくなる程深い眠りを与えるために、スリプルを重ねて唱えた。
 普段減らず口ばかり叩いている王子が、あんな顔をして泣くなんて。
「…………参った」
 私の腕の中で静かな寝息をたてている人間に、視線を落とした。人間の――――エッジの目元には、涙の跡が残っている。
 見張りの交代を命じるつもりで、この牢に来た。中に入るつもりも話しかけるつもりもなかったのに、牢の中で涙を溢しながら眠るエッジの姿を見たら胸がざわついて止まらなくなってしまい、気がついた時には指先で涙を拭ってしまっていた。
 きっと、彼は悲しい夢を見ていたのだろう。
 腕の中で眠るエッジの体は、驚くほど細く小さかった。こんな小さな体一つで国を守ろうとしていたのか。そう考えた瞬間、己の心臓が嫌な音を立てて軋んだような気がした。
 私は何故、エッジを牢に閉じ込めたのだろう。
 ゴルベーザ様には、『殺せ』と命じられている筈なのに。
「…………エッジ」
 彼の強い心と瞳が、私の心を掴んで離さなかった。ぱさついてしまっている銀の髪に指を通す。
 きつく抱きしめると、甘く芳しい人間のにおいがした。
 血がぐつぐつと煮え滾る。彼の体に齧りつきたくて堪らなくなる。魔物とは、なんて浅ましい生き物なのだろう。自らの体を呪いながら、ゆっくりと身を離した。
 エッジが身動ぐ。床に下ろすと、胎児のように体を丸めた。
「さみ、い……」
 彼の寝言に弾かれ細い首に掌をあてると、私の腕に、彼の腕が巻き付いてきた。
 私の腕を抱きしめて眠る彼の手を、振り解くことなどできそうにない。
「…………本当に、参ったな」
 そう呟いた私の声は、微かに震えていた。


 End


Story

ルビエジ