硝子屑をばら撒いたような星空が空を覆い尽くし、薄桃色をした花の群れが足元で揺れる、そんな夜のことだった。
 さくさくと花畑の中を歩く、二つの影がある。一つは大きく、一つは小さく。それはとても対比的な影だった。
「もう、ここでいいよ。ここからは一人で行けるから」
 小さな影が口を開き、そう言った。小さな影は少年だった。少年は神妙な面持ちで、大きな影―――大男を見つめていた。
「テレポも使えるようになったし、大丈夫だよ」
「……しかし」
「大丈夫だから、ここで待っていて欲しい」
 掴まえようとした男の手をすり抜け、少年はテレポを詠唱し始める。
 有無を言わさぬその態度に諦めたのだろう。男は少年の頭を撫でると、唇に薄い笑みを浮かべた。
「ひと目見るだけですよ。見たら、すぐに帰ってきてください」
 頷く少年の体が、淡い光を放ち、ふわりと消えてゆく。すっかり形を失くしてしまうその前に、彼は上目遣いで呟いた。
「ちゃんと隠れていてね。ルビカンテ」
 言葉尻がぼやけ、今度こそその姿が見えなくなる。
「……はい。セオドール様」
 ぽつり、誰もいなくなった宙を見ながら、ルビカンテは呟いた。




 テレポを唱えて着いた先は、木の上だった。
 赤い実が生っている。熟した果実の色鮮やかさに心惹かれながら、セオドールは葉と葉の隙間を覗き見た。
(兵士が……四人か)
 門の前には、兵士が四人、前を見据えて立っていた。木の上から降りるのは危険だと判断したセオドールは、もう一度テレポを唱えて別の場所へと移動することにした。
 小声で詠唱し、灯りの点いていない高台に移動した。
 瞬間、背を丸める。そこは、バルコニーの上だった。
 塀に覆われていて、誰もいない。ここからなら移動しやすいかもしれない。
 そう思い、ほっと胸を撫で下ろした途端、目の前にある大きな窓がカタカタと音をたてだした。
「…………っ!」
 ひ、と喉を鳴らし、体を縮こまらせる。窓は相変わらずカタカタと鳴っていた。テレポを唱えることも忘れ、ただただ、セオドールは震えた。
 窓の向こうにあるクリーム色のカーテンが、ゆらゆら揺れている。
(見つかる……!)
 思わず叫びだしてしまいそうなほど、セオドールの胸は早鐘を打ち続ける。
 カーテンの隙間から、肌色の何かが覗いた。同時に、青い何かが光る。セオドールはぎゅうっと目を瞑った。窓がきいと鳴り、開いたのが分かった。
 唇を両手で覆う。叫びを堪えるので精一杯だった。
 温かい何かが、手の甲に触れてきた。

 その時、セオドールの頭の中を駆け巡ったのは、薄暗い牢屋の映像であった。
 捕らえられてしまう。拷問されるかもしれない。こんな子どもにそんなことをする筈はないのだけれど、とにかく、少年の頭はそのことで一杯だった。

「……にいちゃ?」
 高い声が、セオドールに語りかけてきた。舌っ足らずな声は、幼子のもので。
 可愛らしいその声に、セオドールは震えている両手を口から剥がし、ゆっくりと目蓋を開いていた。
 大きな青い瞳が、セオドールを射抜く。
「にいちゃ」
 無邪気な笑顔を浮かべている。
 金色の髪が、月光を反射して煌いていた。
「……だ、れ」
 からからに乾いた喉に唾を送り込みながら、セオドールは呟いた。逃げなければと思うのに、青と金のコントラストから目を離せない。
 幼子は小さくジャンプして、自分を指差し、
「カイン」
と言った。
「…カ、イン」
 セオドールが復唱すると、カインは嬉しそうにセオドールの膝に飛び乗った。
 驚いて抱きとめた彼の胸に両手を置いて、
「だれ、だれっ?」
と連呼する。名前を訊かれているのだろうと判断したセオドールは、
「セオドールだよ」
と、声を潜めて名乗った。
「セオろール?」
「セオドール」
「セオ…ドール?」
「うん」
 屈託のない微笑みに、自然とセオドールの心は穏やかなものになっていく。弟と同じくらいの歳だろうか、と思い、胸が熱くなるのを感じた。
 ぷっくりとした手首を撫でて手を繋げば、温かさが伝わってくる。
(あ、そうだ)
 あることを思い出し、セオドールは懐を探った。小石ほどの大きさをした、銀の包み紙を取り出す。胸の体温で蕩けかけたそれは、チョコレートだった。包み紙を開き、カインに差し出す。
「チョコレート!…あーん!」
 瞳を輝かせながら開かれたカインの口に、ぽい、とチョコレートを放り込んだ。
「おいひぃー」
「…美味しい?……良かった」
「せおろーる、だいすき!」
 裏表のない告白に、どきまぎしてしまう。
 カインの口の周りは、チョコレートでべたべただ。自らの服の裾でそれを拭ってやり、「もう行かなきゃ」と言って、セオドールはカインを床に降ろした。
 顔を不満に歪め、カインはセオドールに追い縋る。
 セオドールは「ごめん」と呟きながら、当初の目的を思った。

 自分は、弟に会いに来たのだ。話せなくてもいい、触れられなくても構わない。その姿をひと目見たいと思い、このバロン城へ忍び込んだのだ。もたもたしている暇はない。

 手を振り解き、詠唱体勢に入る。テレポを唱えて正面のバルコニーに移動して後を振り向いた瞬間、塀の隙間から覗く悲しげな瞳とかち合った。
「セオドール……ッ」
「き、来ちゃ駄目だっ」
 バルコニーの隅に置いてあった壺によじ登り、塀から身を乗り出している。声をあげる暇もなく、カインの体がずり落ちた。セオドールの胸が鳴る。
(…カイン……!)
 その名を呼ぼうとして躊躇い、咄嗟に、
(誰か!)
と胸の中で祈った。
 途端、紫色の光と共に、カインの体がふわりと浮く。
 光に包まれたカインは、どうやら気絶しているようだった。

―――― 一体誰が。

 突然のことに頭を混乱させながら、そう思う。瞬間、


『私だ、セオドール』

 膝を震わせながら立ち竦んでいるセオドールの頭の中に、地を這うような低い声が響き渡った。
(お前は……っ)
 背に汗を滲ませて、セオドールは喉を鳴らす。セオドールが『悪魔』と呼んでいる人物の声だった。
 心の中で、どっか行け、どっか行け!お前なんかいらない!!と、セオドールが叫ぶと、『悪魔』は楽しそうに嗤った。

『この子どもを、助けたいんだろう?』

(それは)

 助けたい。助けたいけれど、『悪魔』には頼りたくない。

『助けたいのなら、私の言うことをきけ』

(……い、嫌だ!この星を焼き尽くすだなんて、そんなことはしたくない!)

『愚か者が』

 カインの体を包み込んでいる紫の光が瞬き、消えそうになる。セオドールは驚き、拳を握り締めた。

(や、やめろ!)

 緩んだ心の隙間を突こうと、強い思念波が送られてくる。食いしばった歯が、ぎりぎりと音をたてた。
 ずっと前から――――母が死んでから――――こうなのだ。気持ちを緩めると、『悪魔』の思念波に侵されそうになってしまう。以前一度だけ侵された時は、弟を捨てに行くという最悪な行為をしでかしてしまったから、もう二度と操られたくはなかった。

『この子どもが死んでも構わん、というのだな』

 『悪魔』の言葉に、心が揺らぐ。
 目を閉じているカインは、小さくて可愛らしい。花のように無邪気な笑顔を思い出せば、セオドールの胸はぎゅうっと締め付けられた。
 死なせたくない、と思う。

『ほうら、お前のせいでこの子が死ぬぞ』

 弾けるようにして、紫の光が消え去った。カインの体が落下していく。セオドールの頭は真っ白になった。心を引き締めていた何かが、ゆるゆると解けていく。

(嫌だ!!やめろ!!何でもするから、だから、やめて!!)

 光が爆ぜた。
 しまった、と思っても、もう遅い。

『そうだ。この子どもに関する記憶だけは、残しておいてやろう。何かの役に立つかもしれんし、な』

 セオドールの目の前が、白で埋め尽くされていく。後に残ったのは、金色の髪をした幼子の笑顔だけで。
 『悪魔』の笑い声が高らかに響き渡る。

『今日から、お前の名は、ゴルベーザだ』

(…………ゴルベーザ……)

 薄れゆく意識の中、カインの笑顔が見えたような、そんな気がした。




 ゴルベーザは、頻繁に夢を見た。
 とうの昔に大人になった筈なのに、ゴルベーザは夢の中で、十代の子どもとして存在していた。

 人々が歩きながら、誰かと話している。楽しそうに笑い、語り合っている。
 ただ、それらの顔は真っ黒に塗り潰されていて、誰なのか分からない。不吉に塗れた人の群れを、ゴルベーザはぼんやりと眺めている。
 視線の先にある顔は、老若男女関係なく、全てが真っ黒だった。怖くなり、ゴルベーザは辺りを見渡した。

『母さん』

と呼んだ声は、誰にも届かず消えていく。母の姿を探そうとするのだが、記憶の中にある母の面影は霞がかっていて、照らし合わせることすらかなわない。
 ゴルベーザの頬を液体が伝う。目元を拭って指先を見れば、液体の正体は、涙ではなく赤黒い血であった。
 指の隙間からぽたぽたと血が滴り落ち、暗い地面に影を落とす。見つめた指先は、血でしとどに濡れていた。
 すえた臭いが鼻をつき、体中が死臭に包まれる。真っ黒い顔をした人々が腐り落ちていくのが見えた。
 ゴルベーザは悲鳴をあげた。恐ろしくて恐ろしくて、どうにかなってしまいそうだった。後ずさりするゴルベーザの背中に何かが当たり、恐怖のあまり、彼は喉元を掻き毟った。

『……チョコレート、あげる』

 赤く濡れた目でゴルベーザが見上げると、金髪の幼子が、こちらにチョコレートを差し出していた。
 青々とした瞳は黒く塗り潰されておらず、日を反射したような輝きに満ちている。あんなにあった筈の死臭はどこかに消え、代わりに甘い香りがゴルベーザの鼻を擽った。
 新たな液体が彼の頬を伝い、今度こそ、それは正真正銘の涙だった。
 カイン、と幼子の名前を呼ぶと、あの日のように、幼子はゴルベーザの膝に飛び乗った。

『どうして、泣いてるの?』

 分からず、ゴルベーザは首を横に振る。彼が口を開けると、甘い塊が口腔を満たした。
 カイン、ずっと、ここにいて。そうゴルベーザが懇願すると、カインは満面の笑みを浮かべ――――――。


 そこまでだった。
 薄暗い部屋、見知った天井。びっしょりとかいた汗もそのままに、ゴルベーザは溜め息をついていた。
(また……あの夢…………)
 手のひらを見る。骨ばってごつごつしている手は、大人の男のものだった。勿論、血塗れでもない。
 黒い顔、顔、顔。記憶を失くしてから、ゴルベーザの世界は暗闇に閉ざされている。
 毎回のように夢に現れる『カイン』という幼子だけが、ゴルベーザの暗い心を照らす、一筋の光だった。
「……カイン」
 口にするだけで、ゴルベーザの心は酷く落ち着く。
 喉の奥にチョコレートの甘さが絡みついたような気がして、ベッドサイドに置いてあるグラスに手をかけた。




「報告を」
 玉座に腰掛け、足元に跪いている男をちらと見遣りつつ、ゴルベーザはそう口にした。男は淡々と報告する。
「赤い翼の団長が、ボムの指輪を持ち、ミストへと向かっています。幻獣を呼び出すことができる召喚士共は、これで一気片付くことでしょう」
「……そうか」
 ゴルベーザが頷くと、男の手がゆらゆらと揺れて異形のものへと変化し始めた。嬉しそうに笑っている男の両手の正体は、蛇だった。二つの蛇をうねらせながら、男は笑う。にたりと開いた唇の隙間から、尖った歯が生えていた。
「赤い翼の団長だけでなく、竜騎士団の隊長もミストへ向かっています。赤い翼も竜騎士団も、トップを失うことになりますね」
「そうだな」
 興味なさげに呟いたゴルベーザの顔を窺ってから、男は両手の蛇をしまった。
「…………報告は以上です」
「ああ」
 頭を下げて去っていく男を眺めながら、ゴルベーザは赤い翼と竜騎士団、それぞれのトップのことを思っていた。
 どんな人間なのか。少し、興味をそそられる。
「ベイガン」
「……はっ」
 驚きの表情を浮かべて、部屋を出ようとしていたベイガンがゴルベーザの方を振り向く。頬に笑顔が張り付いていた。
「赤い翼と竜騎士団のトップの名は?」
「……赤い翼団長の名はセシル・ハーヴィで、竜騎士団隊長の名は、カイン・ハイウィンドです」

――――カイン!

 思わず立ち上がる。
 ゴルベーザの鬱蒼とした心の中にある一筋の光が、強く光り始めていた。




 焼け落ち、地割れに見舞われた村の外れに倒れている青年は、死んでいるように見えた。
 ぴくりともせず、岩に背を凭れかけ、項垂れている。地面には血溜りができていて、大怪我をしていることが分かった。
 胸の高鳴りを抑えながら、ゴルベーザは青年に近づく。煌々と照りつける太陽が、その様を照らしていた。
 青年が被っている兜の後ろから束ねられた金糸が見えていることに気付き、ゴルベーザの胸は更に喧しく鳴った。

 あの『カイン』なのか。それとも、単なる同名の別人なのか。

 夢の中で、何度も会った。幼い頃の記憶を失くしたゴルベーザにとって、『カイン』は白黒の世界に居る、たった一つの極彩色だった。
 ゴルベーザが手袋を外して青年の首筋に触れると、弱々しい脈がとくりとくりと伝わってきた。
 兜を取り去る。金髪が、汗を含んで額に張り付いていた。
 大きな衝撃に、ゴルベーザは兜を地面に落としてしまった。
(カイン……!)
 年齢こそ違えど、彼は紛れもない、夢で見る『カイン』そのものだった。
 ゴルベーザはカインの後頭を支え、懐から取り出したハイポーションを、ゆっくりと口に流し込んだ。
「……ん、ん…………」
 呻き声をあげながら、カインは液体を飲み下していく。
 顔色を取り戻したカインを抱いて、ゴルベーザはゾットの塔へ戻ることにしたのだった。




 連れ帰って、それで、どうするつもりなのか。衝動的に行動したゴルベーザは、自分の気持ちさえ分からずに思い悩んでいた。
 カインは傷の処置をされ、ベッドで眠っている。「命に別状はない」と、ルゲイエが淡々と語った。
(そもそも、私の記憶に残る『カイン』の記憶は本当にあったことなのか)
 分からずに、ゴルベーザはカインの頬にそっと触れる。ううん、という声を漏らしてカインが薄目を開ける。目蓋の隙間から覗く瞳は、空にも似た青色をしていた。
「……セ、シル…………?」
 誰かの名前を呼び、カインがゴルベーザに手を伸ばす。透き通った青が、ゴルベーザの目を射抜いた。
 ぼんやりしていたカインの瞳が一瞬にして畏怖を纏った。左腕がシーツを弄り、得物を探そうとする。ゴルベーザは手首を握ることでその腕を制し、
「私はセシルではない」
と囁きかけた。
 その時、ゴルベーザの胸に在ったのは、暗く凝った嫉妬心であった。『セシル』と呼んだ薄い唇を塞いでしまいたい衝動に駆られ、掴んだ手首に思念を送り込む。途端、カインの体がびくりと跳ねた。
「……お、まえ…………っ」
 畏怖に混じる、怒りの色。もやもやした気持ちを抑えられぬまま、ゴルベーザは思念に力を籠めた。
「……おまえ、は、だれ、だ……!」
 正体不明の感情に支配され、返事をすることもままならない。

 当たり前の対話や、意思疎通の方法。そういったものが、ゴルベーザの頭からはすっぽりと抜け落ちてしまっている。幼い頃から人を操って生き、操ることで全てを手に入れてきた彼には、自分の心を理解することすらできない。
 ゴルベーザはカインを強く抱き締める。心が落ち着くような気がして、それでも思念を送ることは止められなくて。
 最後の足掻きのように、カインの指先がゴルベーザの背をぎりりと引っ掻く。
 呻き声が響き、次に静寂が訪れた。




 カインは従順な下僕となった。今、竜を模した兜の向こうにあるのは、死人のような瞳だけだ。
 話しかければ素直に答える。どんなことにも従い、ゴルベーザの足元に跪く。けれどそれは、ゴルベーザの求めている『カイン』とは全くの別人であった。
「お呼びですか、ゴルベーザ様」
 兜を外せと命じるとカインの髪が眩く光り、肩にかかった金糸が、とろりとその姿を現した。
「……来い、カイン」
 槍と兜を床に置き、感情を持たない機械にも似た動きで、彼は鎧を脱ぎ始めた。

 洗脳すれば、何もかも思い通りになる。女も、物も、人の命ですら、自分の思うままに操ることが可能になる。
 それならば、とゴルベーザは思う。
(この焦燥感は何だ。湧き上がる空しさの正体は、一体何なんだ)
 ゴルベーザの上に跨って、カインは自ら腰を振る。湿った音をたてながら、粘膜同士が擦れ合う。
 抉り、突き上げる。汗ばんだ背中が腕の中で震え始め、淫靡な嬌声を吐き出した。


 抱く度に、どんどん判らなくなっていく。夢に現れた少年を穢す自分が、酷く醜いもののように思えてくる。

――――ほうら、お前のせいでこの子が死ぬぞ。

 低くて暗い、男の声が甦る。男が大声で笑う。『人形を抱くのは楽しいか?』と。

(私は何故、カインを抱くのだろう。それに、この記憶は何なんだろう)

 何を迷うことがある、性欲処理の為だ、とゴルベーザは自分に言い聞かせた。今までに出会った女達は、皆そうして使用し、始末してきたではないか。
 心の中で頷き、傍に立て掛けてあった剣を手に取る。カインを床に寝かせ、切っ先を胸元で滑らせた。
 白い肌に、赤い血が滲む。しかしカインは動じずに、ゴルベーザの方を見つめ、ふ、と微笑んだ。
「……どうぞ、貴方の意のままに」
 微かな笛の音にも似た音で、ゴルベーザの喉が鳴る。ほぼ同時に剣が地面へ滑り落ち、硬い金属音を放った。
「う、う……う……っ」
 ゴルベーザは蹲り、震える手のひらで顔を覆う。
 震えがおさまるまで、彼はずっとそうしていた。




 カインが最初に違和感を覚えたのは、ファブールでセシルと対峙した瞬間だった。
 もしかしたらそれより以前に違和感を覚えていたこともあったのかもしれないが、とにかく、彼の心の分岐点はファブールにあった。

「カイン」
と呼ばれ、カインは主の顔を見上げた。
 彼の背は自分よりも幾らか高く、節ばった指を持っていた。薄紫の瞳は憂いに満ち、しかし、考えが透けて見えることは無い。
 不思議な雰囲気を持った、人間離れした男だった。
(俺は、何故ここにいるんだろう)
 セシルとともに、ミストに向かった筈だった。少女がいて、そして――――。
 考えるのだが、頭に靄がかかり、考えが遮断されてしまう。
 破裂音が頭の奥で鳴り響き、カインの頭を支配した。
「カイン?」
 不安げに呼ぶその声が、カインの思考を鮮やかにさせた。
(俺は、セシルを殺そうとして)
 頭を抱え、前を見据えながらカインは思った。
(ローザも、殺そうとして)
 靄が晴れていく。
 自分は何をしようとしていた。一体、何をしようとしていた?
 ゴルベーザの腕が、カインの腰に回される。雁字搦めになった思考の中、カインは男を突き飛ばした。額に汗が浮き、息切れがした。
「……俺は、俺はっ!」
 夜着の胸元を掴み、首を横に振る。立っていられなくなって、座り込んだ。
「……カイン」
「お前がそんな声で俺を呼ぶから!」
 蹲ったまま、頭を抱えてゴルベーザを見上げる。乱れた髪の隙間から覗く世界は、酷く歪んで見えた。
「……どうして、お前はそんな声で俺を呼ぶんだ。どうして、もっと邪悪な顔をしていないんだ」
 自分でも、何を言っているのか判らなかった。けれど、カインの口は止まらない。
「俺を抱いているときのお前は酷く悲しそうな顔をしている。まるで子どもみたいな――――そう、捨てられた子どもみたいな顔だ。セシルも昔、そんな顔をしていた」
 金髪を握り、引き毟る。ぶちぶちと音をたてて髪を抜く。正気の沙汰ではないその様を、ゴルベーザは呆然と見つめていた。束になった髪を床に放る。
「……違う。もっと昔だ。もっと昔から、俺はその目を知っていたような気がする……」
 カインの意識は、平常と異常の狭間にあった。震える指先をピンと伸ばし、立ち竦んでいる男に触れようとする。
 頭の中で再生される映像に、カインは声にならない悲鳴をあげた。



――とても月が美しい晩だった。
――窓を開けると、美しい少年が立っていて。
――薄紫色をした、優しい瞳。
――幼い声。
――あれは誰だった。
――あの悲しい瞳をした男は、何という名前だった?



「おにい、ちゃ……」
 記憶の中で甘く香る、チョコレートの香り。
 ゴルベーザは膝を折り、唇から呻き声を漏らす。床に着いたその手に、カインは必死で触れようとしていた。
 何かに縋るような瞳で、ゴルベーザは「カイン」と名を呼ぶ。這いずって、伸ばされた指ごと抱き締めた。二人で床に倒れ込む。
「お願い、助けて」
 男は呟く。
「カイン、僕を、助けて……っ」
「……セオドール……なのか……」
 記憶の奥底で眠っていた名前。
 カインは震える男の背を抱き締めながら、ゆっくりと意識を手放していった。




 目を覚ましたか、と言われ、ゴルベーザは慌てて身を起こした。
 カインは困ったような瞳と薄く笑んだ唇で、静かにこちらを見つめていた。
「カイン……」
 温もりが欲しくて、抱き寄せる。カインは一瞬躊躇った後、ゆっくりと背中を抱き返してきた。
「お前が、セオドールだったなんて」
 カインの言葉に、ゴルベーザは甦った記憶を辿る。
 遠い遠い、昔の思い出だ。
 カインを助け、自分は悪魔の――ゼムスの手の中に堕ちた。
「俺はずっと探していたよ。あの時出会った『お兄ちゃん』を。チョコレートをくれた、『優しいお兄ちゃん』を。でも、バロンにはいなかった。誰に訊いても、見たことも聞いた事もない、そう言ってあしらわれた」
一呼吸置いて、
「俺は覚えていたんだ。昔、お前に助けられた時のことを」
「……覚えていたのか」
「お前がチョコレートをくれたことも、覚えていた……おかしな声がしたことも」
 カインを抱き締めているゴルベーザの腕が震えた。
 彼は全てを覚えていたのだ。
(あの方の……いや、ゼムスの声を聞いていたのか)
「あの時、俺の頭の中に、低い声が響いてきたんだ」
 体を離し、目を覗き込んでくる。
「『お前のせいで、セオドールが死ぬぞ』と……」
 青い瞳は、泣き出しそうに揺れていた。
 死の意味は判らなかった、とカインは言った。けれど、何か嫌な感じがするのは判ったのだという。
「俺のせいで、お前はあの声に操られるようになってしまったんだろう?俺がお前の前に現れなければ、こんなことにはならなかったのに……」
 当時のカインは、まだほんの小さな子どもだった。責任を感じることはない。そう思い、そっとその金糸を梳いた。
「……私の意思が強ければ、操られることも、お前を操ってしまうこともなかった。全て、私のせいなのだ。多くの人を傷つけた……国を、滅ぼしてしまった。お前の仲間を、そうして、お前を傷つけてしまった」
「セオドール……」
「謝って許されることではない。だから、私は行こうと思う」
 立ち上がれば、ベッドが軋んだ。扉に向かう私の前に、カインが立ちはだかった。
「一体どこに行くつもりなんだ」
 これ以上、彼を巻き込みたくはない。振り払って進もうとすると、手首を強く掴まれた。
「一人で考え込んで、一人で突っ走って。……俺に気を遣っているんだろう?俺の手を握るつもりはないのか」
 私の手首に触れているカインの指先は、しなやかだった。彼は指先を滑らせて、私の指に自分のそれを絡めようとする。
「俺は、お前の力になりたい」
 胸が疼く。眉根を寄せた微苦笑が、優しく浮かんでいた。



 月に行き、一人でゼムスを殺すつもりだった。

「……セオドール、これは聞き流してくれてかまわないんだが、良かったら聞いてやってくれないか」

 つもりだった、のに。

「実は、俺の初恋の相手は――――」



 遠い日の甘い夢が、ふわりと微笑む。
 お前は一人ぼっちなんかじゃないよ、と。


 もう二度と、あの暗い夢は見ない。





End

Story

ゴルカイ