立て続けに起こった事件に、私は酷く疲れていた。
 ルゲイエが、何やらよく分からない機械を爆発させたり、カイナッツォとスカルミリョーネが喧嘩をして、床が水浸しになったり、その水浸しになった廊下にスカルミリョーネがサンダーを放って、感電騒ぎが起こったり、そして、その後片付けが全部私にまわってきたり……とにかく、今日は散々な一日だった。
 だから私は、普段絶対にする筈のない、『テレポの失敗』なんてことをしてしまったのだと思う。


 気付いた時、私は暗い部屋の中に立っていた。
 最初は、自室の電気が消えているのかと思っていたのだが、そうではなかった。
――――匂いが違うのだ。この部屋からは、人間の匂いがした。
 暗闇に目が慣れてくると、木でできた机や薄紫色の天蓋が見え始めた。

 天蓋?

 天井から床すれすれまで垂らされている薄布に、ゆっくりと近づいていく。中から、微かな寝息が響いてきた。そっと覗き込めば、それは人間の寝床であった。
 薄く筋肉のついた健康的な足が、無造作に投げ出されている。短い銀色の髪が、寝相の悪さのせいだろうか、ぴんと間抜けに跳ねていた。

 そうか、ここは人間の家か。
 どうして、私はこんな所に?

 そう思ってから、小さく溜め息をついた。……今日は色々ありすぎたのだ。集中力を保てなかったから、テレポを失敗してしまったのだろう。
 踵を返し、小声でテレポを唱えようとする私の耳の中を、すう、すう、という規則的な寝息が擽った。と思ったら、寝息はいつの間にかいびきへと変わり始めていた。
 興味を覚えて振り向くと、人間――――それは二十歳前後の青年であった――――は、ぐう、ぐう、と大口を開けていた。
 こんな風にまじまじと人間を見つめるのは、本当に久しぶりのことだった。
 そうして、じっくり見ているうちに私はあることに気が付いた。
 露わになっている太腿、肩、腰。
 驚いたことに、青年は申し訳程度に体に掛けられた薄布以外、何も身に着けていなかったのだ。
 癖なのか、それともたまたまなのか。テレポすることも忘れて、私はううんと首を捻った。
「……わるかった…………ってば……っ」
 静かな部屋に、大きめの声が響く。それは青年の寝言だった。
「……あー……もうっ…………もう……ったく、よお…………」
 それきり、青年は何も言わなくなってしまう。
 これ以上いたら見つかってしまうだろう。思いながら、私はテレポを唱えていた。




 あの青年は何に謝り、何に怒っていたのだろう?

 その疑問は、バブイルの自室に戻っても消えることはなかった。
 椅子から立ち上がり、窓の外を見下ろす。広大な景色の中に、小さな城が建っていた。
 もしかして、あの部屋はあの城のどこかにあるのではないか。ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
「おーい!」
 突然、扉の向こうから、間延びした声が聞こえてきた。
 低くて見かけ通りの湿っぽさをもつ独特な声は、カイナッツォのものであった。
「おーい、開けろって。いねえのか?おーい!」
「……喧しい。今開けるから、黙れ」
「おいおい、冷てえなあ。体は熱いのによお」
 くかかかか、とカイナッツォが笑う。笑い声が止んだのを確認してから、私は扉のロックを解除した。
 おっと、と言いながら、カイナッツォが転がり込んでくる。笑んでいる彼の顔を一瞥し、再度、私は窓の方へと向かった。
「なに?感傷にでも浸ってたのか?」
 からかう声を無視する。カイナッツォは、くかか、と笑い、私の背に何かを押し当ててきた。
「折角、上手い酒を持ってきたってのに」
 何か、は酒瓶であった。
 大方、昼の事件の詫びにでも来たんだろう。私が無言のまま席に着けば、カイナッツォも、正面の椅子に腰掛けた。
 荒々しく、酒瓶が二本、テーブルの真ん中に置かれる。
 グラスは?と思って眺めていたら、あろうことか、奴は酒瓶を傾け、直に飲み始めた。所謂『ラッパ飲み』というやつだった。
「下品だ」
呟けば、
「上品なのは嫌いだ」
と返ってきた。唇の端からぼたぼたと雫が垂れる。私は、小さく溜め息をついた。
 この亀男はいつだってこうだ。兎にも角にもだらしがない。
「飲まねえのか?」
「……直飲みするのは好きではない」
 立ち上がって、棚からグラスを取り出す。「ほんと、人間臭い奴だなあ」と言いながら、カイナッツォは頬杖をついた。
「てめえ、何悩んでたんだ?…………悩んでたんだろ?やけにぼうっとしやがって」
 悩んでいる?私が?
 余程、驚いた顔をしていたのだろう。カイナッツォは私の顔を見て吹き出した。
「おもしれえ顔!」
「……悩みなどない」
「そうかあ?相当間の抜けた顔してんぞ」
 私は酒瓶の栓を抜き、中身をグラスに注ぐ。一口飲むと、やけに塩っ辛い液体が口の中に広がった。
「……塩辛いな」
「な、美味いだろ?」
「あー……いや……」
 そうか、これがカイナッツォの好みか。
 眉を顰めながらグラスを傾ける。塩っ辛い酒が、喉をするりと通り抜けていった。




 数日後。私はまた、真っ暗なあの部屋の中に立っていた。
 薄紫色をしたカーテンがはためいている。隙間から、月が静かに輝いていた。
 殆ど無意識のうちにこの部屋にテレポしてしまっていた自分に、はぁ、と溜め息をつく。
 私は彼のことが気になって仕方がなかった。だから、再度この部屋を訪れてしまったのだと思う。天蓋の内を覗くと、以前と変わらず青年は眠りこけていた。
 月光に照らされて、彼の横顔が鮮明に見える。手を伸ばしそうになってはたと気付き、私はその手を引っ込めた。
 どうかしている。人間に触れようとするだなんて。
 間も変わらず、彼は暢気に寝息をたてている。そうしてむにゃむにゃと何事かを呟きながら、ごろりと寝返りをうった。その手元に一冊の本が見えて、思わず、 私はそっとそれを掴む。
 青い背表紙には、何も刻まれていない。恐る恐る開くと、乱れた文字が私の目に飛び込んできた。


『今日は、散々な一日だった。
爺に怒られるし、隠れて酒を飲んでいたことはばれるし。でも、晩飯の鶏肉は美味かった。』


『今日は、いいことがあった。
いつもは勝てない相手に、剣の勝負で勝てた。』


『今日は、親父に火遁を教えてもらった。
まだまだちっちゃい火だけど、頑張って大きくしていきたいと思う。』


 それは、あまりにも簡潔すぎる内容の日記だった。
 今日の分の日記を探してみたのだが、ページが破り取られていて、読むことは叶わなかった。
 何か、嫌なことがあったのかもしれない。
 日記から視線を外して青年の方を見れば、くしゃくしゃに丸められた紙くずが、枕元に転がっていた。
 拾い上げ、広げて見る。しかし、何かの液体で濡れたそれは、解読不能となっていた。
 目元に光る液体を見つけ、納得する。
 日記を元の位置に戻して、私は自室へと戻っていった。




「覗き見?ほほう、そりゃあまた、いいご趣味をお持ちで。……なあ、スカルミリョーネ。お前もそう思うだろ?」
 やっぱり、話すんじゃなかった。
 カイナッツォのにやにやした笑みを正面に見ながら、私は溜め息をついた。前回と同じ流れで、カイナッツォと呑むことになったのだ。今度は何故か、スカルミリョーネまで同席している。
 スカルミリョーネは金色の瞳をちろちろと揺らしながら、ふしゅう、と息を漏らした。
「……ルビカンテの趣味などどうでもいい」
 口ぶりから察するに、スカルミリョーネは無理やり同席させられているらしい。カイナッツォが不満げに、「つっまんねえなあ」と呟いた。
「そのガキはよう、泣いてたんだろ?で、前に寝言で怒ってたって言ったよな?」
 ぐいっと酒を呷り、笑う。床に垂れて零れた大量の酒に頭痛を覚えながら、私は曖昧に頷いた。
「てことは、だ。多分、嫌なことでもあったんじゃねえかなあと思うわけよ」
「それ位、判っている」
「え」
 私がカイナッツォの意見を一刀両断すると、無表情だったスカルミリョーネの瞳が緩く光り、彼は小さく肩を揺らした――――笑っているようだった。
 唇を尖がらせて、カイナッツォが呟く。
「で?今日も行くのか?」
「……ああ、まあ」
「今度は下着でも盗るの……かっ!うわっ」
 下世話だ、と呟いて、スカルミリョーネがカイナッツォにサンダーを落とす。全身に電流を走らせながら、スカルミリョーネはちいっと舌打ちした。
 見ていて飽きない奴らだ、と思う。
「何で、行くんだよ?人間に惚れたって、めんどくせえだけじゃねえか」
 思いがけない言葉に見舞われ、頭が真っ白になる。何とか「はあ?」とだけ返すと、カイナッツォはにやりと笑った。
「惚れてんだろ?そのガキに」
「……どうしてそういう見解になるんだ」
「それしかねえだろ。夜這いにいくんだろ……って!……いててっ!」
 サンダーが二連続で降ってきた。ふい、とそっぽを向いたスカルミリョーネが、「部屋に戻る」と口にして立ち上がった。
「下品な馬鹿には付き合ってられん」
 そのまま、部屋を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待て、スカルミリョーネ!」
 亀らしく這いながら、カイナッツォはスカルミリョーネの後を追いかけていく。
 嵐のような二人の後姿を見遣りながら、私は何度目になるかも判らない溜め息をついた。




 惚れている……とは。
 間も変わらず、ふにゃりと表情を崩しながら眠っている青年の姿を眺めながら、私は首を傾げた。

 惚れている?私が?この青年に?

 私はこの青年が起きているところを見たことがない。そもそも、彼の名前すら知らない。どこにどう惚れるというのか。
 誘われるようにして、机に備え付けられている本棚に在る、例の日記帳を手に取る。
 ぱらりと捲ると、


『雷迅が使えた!』


とだけ書き足されていた。心なしか、文字も弾んで見える。その喜びように、口元が綻ぶのが判った。
 日記を閉じて再度天蓋の方へ向かうと、青年はもぞもぞと身を捩り、寝返りをうっている最中だった。
 背中だけなら。
 そう思い、薄く日焼けた背中に手を伸ばす。陶器のような感触にどきりとした瞬間、青年の背が丸まった。翡翠色をした瞳と視線がかち合う。あっという間に起き上がった青年は、瞬時に苦無を取り出して私の胸元にその切っ先を当てていた。
 あまりの鮮やかさに、心臓が喧しく鳴る。
「……俺に何の用だ」
 薄い唇が動く様に、目を奪われる。動けぬままに見つめていると、青年は顔を顰めてぽつりと呟いた。
「人間じゃねえ……よな?やたらでけえし」
「……ああ。私はモンスターだ」
「だよな。で、何の用なんだ?俺の命でも奪いにきたってのか」
 物怖じしない男だ。普通なら悲鳴をあげて逃げ出すか、吼えて襲い掛かってくるかのどちらかだろうに。
 突きつけられた苦無を握り、青年の手から奪い取る。「あ!」と言って飛び上がった彼は私の傍をすり抜けて、天蓋の横に立て掛けてあった刀を手にした。刀身が露わになり、月光が反射する。
「今日は、服を着ているのだな」
思わず口にすると、
「て、てめっ!いつから覗いていやがった!」
青年は顔を真っ赤にして、刀をぶんぶんと振り回した。
 大人の形をしている癖に、妙に子ども臭い。その動きがまた、私の心を揺さぶった。
「……これで三度目になる」
 反応を見たくなって正直に答える。真っ赤だった青年の顔が、さあっと青ざめた。
「……こんなでけえのが忍び込んでんのに、気付かなかったなんて……」
 彼に尻尾が生えていたとしたら、それはだらりと垂れ下がっていただろう。すっかり戦意を喪失した彼に、「お前の名は?」と問いかける。俯き加減の顔から、ちらり、とこちらを窺うと、彼は面白くなさそうな声で、
「エッジだ」
と言った。
「そ、そんなことよりおめぇ!死にたくなかったら、さっさと出てけ」
刀をこちらの鼻先につきつけ、
「二度と来るな」
とすごんでみせる。けれどその瞳は酷く揺らいでいて、恐怖を感じていることが判った。
 震えながらも逃げようとはしない彼の態度を好ましく思う。心の奥底から獣じみた荒々しい何かが込み上げてきて、それを堪えるために踵を返した。
「……また来る」
「もう来んな!もし来たら、今度こそぶった斬ってやる……!」
 彼の声を背に聞きながら、私は部屋を後にした。




「……お前は何をやっているんだ」
 スカルミリョーネが床にどっかと座りながら、そう言った。
 カイナッツォの声が、その言葉に重なる。
「そうそう。お前は何やってんだよ。そういう時はガーッと押し倒してだなあ」
「違う!」
 スカルミョーネが吠えた。喧嘩なら、他の場所でやってくれないか。という言葉を飲み込む。
 スカルミリョーネの説教が始まる。そう感じ、窓へ向かい、夜空を見上げた。
「……人間の部屋に通うモンスターの話など、聞いたことがないぞ。足繁く通って、それでどうするつもりなんだ」
「交尾するんだろ?違うのか?」
「カイナッツォ、少し黙っていてくれないか。話がややこしくなる……」
 ローブを引き摺る音が聞こえてくる。マントの端を摘まれた。
「相手のことを思っているなら、さっさと手を引け。我慢がきかなくなる前に」
「んだよお、我慢がきかないのがいいんじゃねえか。壊して捨てちまえば、それで仕舞いだろ」
「カイナッツォ!」
 びりり、と部屋の空気が震える。
 部屋中を静寂を包んだ後、カイナッツォが部屋を去っていく気配がした。スカルミリョーネが溜め息をつく。
「……モンスターの理性ほど、あてにならないものはない。お前が強く気を引き締めていたとしても、いつかその人間を殺してしまう時が来るだろう」
 また訪れた静けさの中、私は何も言えず、月を見つめ続けていた。




 おめぇの相手は、俺一人で充分だ。

「人を呼ばなかったのか?」と問えば、そんな答えが返ってきた。二本の刀を握り締め、構えの姿勢をとっている。胸当て等を装着しているところをみると、彼は私を待っていたようだった。
「じ、じろじろ見んな!」
後ずさりしながら、
「俺を狙う理由は何だ!」
とまくしたてる。私がしゃがみ込んで目線を合わせようとすると、彼は口をぱくつかせ、しかし視線は逸らさなかった。
「なん、だよ……変な奴」
 口にし、刀を下ろした。
 何事かを考えているらしく、眉間に皺が寄っていた。
「武器を下ろしていいのか。私を倒すのではなかったのか?」
「……だって、全然殺気を感じねえし」
 確かめるように、少しづつエッジが近づいてくる。刀を床に置いて、私の頬に触れてきた。やや汗ばんでいるその指先は、小さく震えていた。驚きのあまり、私は息を詰まらせる。
「おめぇ、本当にモンスターなのか?変装とかじゃなくて?」
「……ただのモンスターだ」
「信じらんねぇ……殺気はどこへ置いてきたんだよ。おかしいだろ」
「こういうモンスターもいるということだ」
「……へえ」
 彼の体を覆っていた警戒心が姿を消していく。それと同時に、彼はぺたぺたと私の体のあちこちを触り始めた。鼻、額、頭、首。悪戯っ子のような顔をして、躊躇わずに触り続ける。
「何かやけにあちいな。おめぇ、熱でもあんのか?」
「元々だ。私は火を操るモンスターだからな」
「ふうん」
 新しい玩具を見つけたような、そんな瞳で、私を見る。
 この男は一体幾つなのだろう。アンバランスな彼の雰囲気に疑問を持った私は、「お前の歳は?」と訊いた。
「え?二十歳だけど」
「……てっきり、十七、八かと」
「てめぇ、そりゃどういう意味だ」
「いや、深い意味はないが」
「……嘘付け」


 それから毎晩、私は彼の元を訪れるようになった。
 口を開けば文句ばかり言う癖に、彼は毎晩のように私を待っている。
 最初のうちこそ刀と防具を装備して待っていたが、いつのまにか彼は夜着を着て私を待つようになっていた。
 彼とは色々な話をした。今日食べた物から昔の思い出話まで。
 表情をころころと変える彼と話していると、穏やかな心持になる。こんな気持ちは久しぶりのことで、それがとても嬉しかった。


 今日の晩はいつもと違う。私は、手にあるものを持って彼の部屋を訪れた。
 彼はベッドに腰掛けて、ぼんやりとした表情で窓の外を眺めていた。
「……遅かったじゃねえか。何してたんだよ」
 傍に寄った私の目をじっと見つめながら、
「今日はもう来ねえのかと思った」
とぼやく。
 そんな仕草が子どもっぽいのだと言ったら、彼はどんな表情をするのだろうか。想像して、私は少し笑った。
「すまんな。用事があって、少し遅くなってしまった。だが、お詫びに土産を持ってきたぞ」
「ん、何?」
 ベッドから飛び降りて、私の手元に視線をやる。
「……瓶?」
「酒だ」
「酒」
「嫌いか?」
「……好きだけどよ」
 差し出せば、胡散臭そうな表情で受け取る。
「こんな名前の酒、見たことも聞いたこともねえぞ」
「お前はこの国から出たことがないからだろう。それは他国の酒だ」
「他国の、か……俺も他の国に行ってみてえなあ……あれ?開かねえ」
 コルクを自力で抜こうとしている彼の手を制し、用意していたオープナーでコルクを抜く。まじまじとその様子を見つめていた彼は、笑いながら酒瓶を掠め取った。そのまま、中身を唇に流し込む。あっという間の出来事だった。
「……何か別の容器に移して飲むとか、そういう考えは――」
「ない。めんどくせえし」
 溢さないだけましか、と思いながら、カイナッツォと同じ飲み方をしている彼を止めることは諦める。あまりに美味しそうな顔をして飲んでいるものだから、余計に止める事など出来なかった。
「せめて座ったらどうだ」と提案すれば、彼は大人しく椅子に腰掛けた。頭が微かにゆらゆらと揺れている。まさか、という思いが私の頭を駆け抜けた。
もしかして彼は、もう酔ってしまっているのではないか。
「……エッジ」
「んん?何だ?ほんっとうめえなあ、これ」
「お前、酒を飲んだことはあるのか」
「前に一度、」
 ぐい、と瓶を傾ける。
「グラスに一杯だけ飲んだことがある」
「どんな大きさのグラスだ」
「ん」
 手を突き出し、親指と人差し指で隙間を作ってみせる。飲んだことがある、というにはあまりにも頼りない隙間の大きさに、私は「あー」と間の抜けた声をあげた。
「親父もお袋も、『家系的に酒に弱いから飲むな』って言うんだ。でも、やっぱ飲んでみてえもんは飲んでみてえしよ」
 頭のふらつきが大きくなり、ついには倒れこんでしまう。地面に着きそうになった頭を、すんでのところで受け止めた。瓶が倒れ、彼の上半身を濡らした。
 仕方なく、彼を抱き上げてベッドへと向かう。酒など持ってくるのではなかった、と私は少し後悔していた。
 シーツの上に降ろし、目線を合わせながら話しかける。緑色をした瞳が、ゆらゆらと揺れていた。
「ほら、シャツを脱げ」
「ええ?……面倒くせえ……」
「風邪をひくぞ」
「うーん……」
「……万歳をしろ」
「うーん?」
 蕩けた瞳のまま、彼は万歳をしてみせる。その隙に、シャツを引っ張り上げて脱がせた。
「着替えはどこに置いてあるんだ?」
 立ち上がり、箪笥に向かおうとすると、
「そんなのいいから、ほら、ここ、ここ」
 エッジは自分の隣をぽんぽんと叩いてみせた。ここに座れ、ということらしかった。

『絡み上戸』

 そんな言葉が、脳裏を掠める。
「ここだよ、こーこ」
 エッジは激しく布団を殴りつけている。いつの間にか、その手は握り拳になっていた。溜め息をついて傍に座れば、エッジが頭を傾けてくる。膝枕の形になった。
「……おめぇの太腿、太っといなあ。高くて、首がいてえよ」
 へへ、と笑って、こちらを見上げてくる。
「なあ、ルビカンテ」
 指先が、躊躇い気味にマントを引いた。
「どうやったら、もっと冷静になれる?」
「冷静?」
 緑色をした瞳が、やけに真っ直ぐにこちらを見ていた。口元は微笑んでいるというのに目元には別の感情が浮かんでいて、酷く切ない気持ちにさせられた。
「おめぇはいっつも冷静だろ?それに比べて……俺はすぐに感情で動いちまう。かあっと熱くなったり、苛々したり。悲しいことがあったら凹んで、身動きがとれなくなって。……こんなんじゃ駄目なんだ」
「どうして、駄目だと?」
「忍びの者は、いつだって冷静でいなきゃならない。冷静に敵を倒したり、計画を遂行したりしなきゃいけないんだ。だから俺は、冷静になりたい。おめぇみたいに、落ち着いた奴になりたい」
「エッジ……」
 確かに、エッジの表情は天気のように変わりやすい。明るく照っていたかと思えば、いきなりのにわか雨に見舞われたり、雷が落ちてきたりする。
 しかし、それが彼の持ち味なのだ。私は言葉を選びながら、ゆっくりと語りかけた。
「悲しいことを悲しいと思う。怒りに震え、楽しい時に笑う。……お前は、そうして生きていればいい」
「でも、それじゃあ……っ」
「お前の表情には、とても不思議な力がある。私のようになって、お前の明るい笑顔がなくなったら、きっとお前の友人や親は悲しむだろう」
「で、でも……っ」
 否定の言葉を吐こうとする、薄い唇に触れる。親指でなぞれば、ぴくりと震えた。
「お前らしくあればいい。こっちだ、と思う方向に進めばいい。お前の勘は鋭いから、きっと上手くいくに違いない」
くすぐったそうに身を捩って、彼は私の親指を除けた。そうしてその親指を握り締めたまま、不安げに見上げてくる。
「……それでも、もし上手くいかなかったら?」
「……その時は、私がお前の話を聞いてやろう。愚痴でも相談でも自慢でも、何でも聞くぞ」

 だから、お前が思う方を信じ、見つめていて欲しい。

 翡翠色の瞳が、太陽のように笑った。




 あの夜から、私達の距離はとても縮まったように思う。
 彼は浜辺に座り、黒い海をぼんやりと眺めていた。
 外に行きたい、と言い出したのは彼だ。「少しだけだぞ」と言い、私は彼と共に浜辺へテレポで移動したのだった。
「……どうした?」
 沈黙を破り、こちらを見上げてくる。
「今日は、何も話さないんだな」
 それは彼も同じだった。何かおかしな空気が、私達を包み込んでいた。おかしな空気の正体は判らない。けれど普段と何かが違うことだけは判った。
 膝を抱え、その膝に顎をのせ、海から目を逸らさぬまま、彼はぽつりと呟いた。
「……俺って、変なのかな」
 波音が聴こえる。
「最近、変なんだよ、俺」
 月明かりに濡れた瞳を私に向ける。翡翠が、震えて光った。
「姉ちゃん達と遊んでる時より、おめぇと二人でいる時の方が……楽しいんだ」
「それは――そうだな、親友のようなものだからだろう。話も合うし、それに、」
「違う」
 立ち上がり、彼は口元を覆っている布を外した。マントや下衣が砂で汚れていることも構わずに、彼は私をただただ見つめ続けていた。
「……エッジ?」
 泣きそうな瞳だった。唇が戦慄いていた。
「エッジ?」
「……そこで、立ってろ」
 彼は片膝を後ずさりさせ、地面を蹴り上げ、高く跳躍した。首に絡みつく両腕が、私の顔を引き寄せる。彼の顔が近い。思わず背中に手を回して抱き寄せると、唇に何か温かいものが触れた。
「……ああ、やっぱり…………」
上ずった声で、
「やっぱり、違う」
腕の中の存在が、目蓋を閉じて口づけてくる。
 胸の熱さに拍車がかかり、同時に、私の中の何かが崩れ落ちていく。
 頭のどこかで、私はこうなることを知っていたのではないか。こうなることを望んでいたのではないか。
 そうだ、以前から、こうして彼を抱き締めたいと思っていた。
「……おめぇのことが好きだ、って言ったら……笑うか?」
「笑いはしないが……私はモンスターだ。お前とは別世界の生き物で、何もかもが違う」
「判ってる」
「なら、どうして」
「難しいことは嫌いだ。俺は俺が信じた道を進む」
 上目遣いに射抜かれて、身動きがとれなくなって。
「なあ、おめぇは、俺のことをどう思ってる」
 甘い香りが、辺りに満ちた。


 私達と人間は別世界の生き物で、交わりあうことが出来ないもの同士だ。
 私達モンスターは闇の中で息を潜め、生ある者を喰らい尽くす。その血を啜り、瞳を光らせ、獲物を狙う。
 人間は、太陽の下で笑っている。風を抱き、明るい日の光を浴びて生きている。
 そう、私達は、こんなにも違う。

 何処かの子どもが作ったらしい砂の城が、波にさらわれて、少しずつその姿を消していく。周りが削り取られる。溶ける、なくなる。何かに似ている。

――――あれは私の理性だ。

 腹の奥底から湧き上がる衝動が、荒々しく牙をむき始める。指先が痺れるのが判る。短く揃えられていた筈の爪が、伸びて尖りだす。
 彼を縊り殺したくなる。愛情と共に胸に押し寄せるのは、支配欲と醜悪なまでの本能だ。
 彼が欲しい。彼の血と心臓が欲しい―――。

 首筋に噛り付けば鮮血が滲む。震える体を抱き締めて、私は牙を食い込ませた。
「ルビカンテ……何を……っ」
 遠くに聴こえる彼の悲鳴を、腕の中に閉じ込めた。彼は、身を固くして小さく震えている。もっと強く抱き締めたら折れてしまいそうだった。それ程に、彼の体はひ弱なもののように思えた。骨の折れる音を聴きたいと思った。
 小声でテレポを唱えてから、滑らかな首筋を堪能する。彼の喉がひゅうと鳴った。
「……ひっ…………!」
 赤く染まった首筋を舌で撫で上げている間に、バブイルにある自室へと辿り着いていた。彼が身動ぎをし、私の腕から逃れようとする。それを制そうとしたところを、するりと避けられてしまった。床に膝をついてこちらを見上げている彼の片腕が、だらりと垂れ下がっていることに気付く。彼は眉を顰めながら、額に汗を滲ませていた。
「ルビカンテ……、一体、どうしちまったんだよ……それに、ここは一体……」
 歯を食いしばり、右肩を押さえる。目尻に涙を浮かべて、彼は肩を首の方に引き寄せた。
「へへ……これ、結構痛てえんだよな……っ」
 関節を外して逃れたのか。激情が引き始めた頭の端で、ぼんやりとそう思った。
「おめぇのことが好きだって言ったのが、そんなに気に入らなかったのか?」
 関節を戻し終えたらしい彼は、今度は血の滲む首筋に手をやりながら、
「……自信過剰かもしれねえけど、おめぇも俺のことを想ってくれてるんじゃないかと……思ってたよ」
苦笑して、呻くように言う。
 私もお前のことを想っている、と告げようとした唇が、獣のような唸り声をあげた。
「……ルビカンテ?」
 頭が割れるように痛む。思わず床にしゃがみ込んだ私は、頭を抱えて目を見開いた。酷い激痛に思考が霞む。血が逆流しているような感覚だった。
「どうしたんだよ……おい……」
「ち、近づく、な……っ」
 衝動を抑えようとするのだけれど、ばらばらになっていく心の部品を繋ぎとめておくことができずに、地面を掻き毟る。
「……に、にげ、逃げろ……っ、エッジ……!」
「何言って――」
「私から……離れるんだ、はや、く、は……や、く…………」
 言葉とはどういうものだったか。理性とはどのような形をしているものだったのか。何も判らなくなる。何も、何も、何も。
 顔を上げた先にあったのは、疑問と不安に満ちた青年の姿だった。彼は後退りしながら、ゆるゆると首を横に振っていた。
 彼の首筋から漂う、甘い血の香り。今の私にとって、それは獲物の匂いでしかなかった。
「何がどうなってやがる……」
 そう口にする彼の体を捕らえる為に私は立ち上がった。素早く手を伸ばすのだが、軽い身のこなしでかわされてしまう。それを何度か繰り返した後、駆けて逃げようとしたのだろう、彼は私に背を向けた。
 今だ、と思った。
 手に力を籠める。彼を捕えるために。愛しい獲物を手にするために。
 橙色をした炎が私の手から放たれ、彼の両手首と両足首に絡みついた。身動きをとることができなくなった彼の両手首を掴み、壁と向かい合わせにして縫いとめる。炎は消えたが、焼け落ちた籠手は私の手のひらの中で塵となり果て、床に散った。
「やめろ……っ!」
 彼の手首を片手に纏め、マントをたくし上げ、邪魔な下衣を破る。流石に何かを察したらしく、彼は足をばたつかせて暴れだした。後から羽交い絞めして、うつ伏せにしたままで、彼の体をテーブルの上に乗せた。
「ルビカンテ、やめろ、やめてくれ……っ」
 硬く猛ったものを、柔らかい尻たぶに押し当てる。
「ひ、あ」
 先走りに濡れた先端を窄まりに滑らせると、彼の背がぶるぶると震えた。
「いやだっ、こんなのは、いやだ!」
 上ずった声が、理性を擦り切れさせていった。
 恐怖を感じている彼のことを、堪らなく愛おしく思う。絶望に歪み、苦しみ、涙を流す様をもっと見たいと思った。
 最悪なことに、私の思考と体は既に獣に成り果てていた。
 彼の顔の前に回り込む。片手を脇の下に、もう片方の手を後頭部に置いて、彼の顔を引き寄せた。
「何す……―――っ」
 すっと通った端正な鼻を摘み、口が開いた瞬間を狙って、自らの欲望を捻じ込んだ。
「ん、う、ううっ」
 限界まで開かれた唇が、怒張したものを飲み込んでいく。大きすぎる性器は小さな口腔には入りきらない。
「う、ぐ」
 先端が、軟らかい場所に触れる。喉の奥まで蹂躙されて、彼は涙目で小さくえずいた。暴れている両手を無視し、顔を無理矢理に前後させる。喉の奥で笛の音のような悲鳴をあげながら、彼は私の腰に爪をたてた。
 飲み込めない唾液が、テーブルや彼の首筋を汚す。堪らない眺めだった。
 彼の頬に一筋の涙が流れ、瞬間、私の胸がずきりと痛んだ。それでも、私の衝動は治まらない。
 涙に濡れた翡翠の瞳が、絶望の色を纏い、こちらを仰ぎ見た。下腹部に疼きが走る。彼の頭をきつく固定し、欲望を吐き出した。
「んっ、んん……っ!」
 目を大きく見開き、眉を歪ませる。雄を引き抜くと白濁した液体がだらりと垂れ、彼は咽ながらテーブルに突っ伏した。
「……っ、げほっ……」
 抱き起して仰向けにすると、彼は掠れた声で私の名を呼んだ。
「…………ルビ……カン、テ……」
 彼は懐から苦無を取り出し、それを私に突き付ける。苦無の先は定まらずにゆらゆらと揺れ、涙に濡れた頬は薄らと上気していた。
「な、んだ、これ……」
 足を大きく割り開けば、日に焼けていない白い肌が赤く染まっている。
 急に無抵抗になった彼の手からは苦無が滑り落ち、床に落下していくそれを無視して、私は頭を胸元に抱き寄せた。猛りを秘部に押し当てても、彼は身動ぎ一つしない。
 先を埋めていくと、彼は私の胸元に縋りつき、荒い息を吐いた。



 腰を打ちつける度に、彼は甘い声で啼く。
 蕩けた瞳は熱に浮かされたように上目遣いで私を見、薄く開かれた唇の端からは、唾液がとろりと流れ落ちていた。
 交わってしまえば、こうなることは明確だった。モンスターの精液には強い催淫作用があり、人間の頭を狂わせる効果がある。
 彼の口からは抗議の声は勿論、睦言が漏れることもない。私達は互いを貪りあうだけの獣だった。
「あっ、あ、あぁ……あっ!」
 秘部には血が滲んでいる。抜き差しを繰り返す度、何度も注ぎ込んだ精液が掻き出されて零れた。

 愛おしい。殺してしまいたい。この生き物を、自分だけのものにしてしまいたい。
 どうすれば、私だけのものになる?どうすれば。
 そうだ。燃やしてしまえばいい。燃やしてしまえばいい。燃やしてしまえば――――。

「やめろ、この馬鹿っ!」
 私の手の中に凝った火の塊が、突然降ってきた水によって掻き消された。それと共に、腕の中の存在が消える。前を見れば、スカルミリョーネがエッジを抱いて立っていた。
「……俺は放っておけって言ったんだけどよお、こいつがぎゃあぎゃあと煩いから」
 スカルミリョーネの前を塞ぐように、カイナッツォが立ちはだかる。
「おうおう、まさに『ケダモノ』そのものって感じだなあ。……お前とは一度、戦ってみたいと思ってたんだよ。覚悟しろ、ルビカンテ」
「や、やめろ、カイナッツォ!この人間を連れて逃げる手筈だったろう!勝手なことをするんじゃない!」
 スカルミリョーネが叫び、カイナッツォにサンダーを落とす。カイナッツォの体の周りに在った水が消え、「お前!」と彼は怒鳴り声をあげた。
「私達は争うためにここに来たわけではないだろうっ!大体、貴様はいつもいつも……」
「ああもう、うるせえ!黙れ黙れ!俺に説教をたれるのはやめろ!」
 喧嘩し始めた彼らからエッジを取り返そうと、私はカイナッツォの頭を殴りつけ、火を放った。ぎゃあっという悲鳴をあげて、彼は地面に転がった。
「カイナッツォ……ッ!う、あああああああっ!」
 カイナッツォに駆け寄ろうとしたスカルミリョーネの体を炎で焼いて、私はエッジの体を掠め取った。
「ル、ルビカンテ……き、さ、まあ……っ」
 茶色のローブが焼け焦げ、腐った皮膚や肉が露わになり、腐臭が充満する。骨だけになった指先でばりばりと地面を掻き毟りながら、スカルミリョーネは呻いた。
「いい、のか。ほんとうに、いいのか。その人間のことを、想っているのではなかった、のか……」
「……そう、だぞ……、人間の良さなんて、俺にはさっぱりわかんねえけどよお……でも……お前は……お前には……」

 お前には分かるんだろう?と。

 頭が急激に冷めていく。
 改めて腕の中に視線を落とすと、顔面蒼白になったエッジが静かに目を閉じ、気を失っているのが見えた。
「…………エ、ッジ……」
 膝を折って床にうずくまる。がたがたと震えながら、私は彼を強く抱き締めた。
「……まだ息はある……さっさとそいつに回復魔法をかけてやれ……」
 声のする方へ目をやると、カイナッツォが、皮肉な笑みを浮かべていた。
「俺は、この腐った馬鹿をルゲイエの所へ連れて行ってくる。……ほんっと、こいつってば火に弱えぇのな」
 尖った歯の並ぶ大きな口を開き、カイナッツォは茶色のローブをばくりと銜えた。ずるずるとスカルミリョーネを引きずりながら、彼は部屋を出て行こうとする。
 一度だけ振り返った彼は呆然としている私を一瞥し、唇の端を上げ、そうしてまた前を見、部屋を後にした。彼の這った後には、赤黒い血が線状に残されていた。
 仲間を傷つけて、愛する者を傷つけて、私は一体何をしているのだろう。
 彼の傷を癒そうと、頬を撫でて魔力を送り込む。頬に赤みが差し始め、銀色の睫毛が震えた。
「…………あ……ぁ……」
 緑の瞳が覗く。一瞬驚きの色を湛えたその瞳は、次の瞬間、穏やかな光に満ちた。
「……いつもの……ルビカンテ、だ……」
 胸が締め付けられる。「すまない」と言って首筋に顔を埋めると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「エッジ?」
「……いいんだよ、もう…………いい……んだ……」
 彼はどんな表情をしているのだろう。疑問に思い、顔を上げて瞳を覗き込むと、潤んだ瞳とかち合った。唇には自嘲が浮かんでいた。
「俺のことが嫌いだから……こんなこと、したんだろ……?本当は、俺のことが…………嫌い……なんだろ?」
「それは違う、エッジ」
「殺したくなるほど嫌われてるなんて……思っても、みなかった…………っ」
 溜まった涙が溢れ、彼の頬を滑り落ちていく。
 こんなにも彼を愛おしく思うのに、愛おしく思えば思うほど、彼の心を、体を傷つけてしまう。
 そうだ、それならば、いっそのこと。
「……エッジ」
 静かに涙を流し続けているその目を睨みつけ、私は彼の髪を鷲掴んだ。彼の顔が、驚愕に歪む。手首を押さえつけ、床に押し倒した。
「お前の言う通り…………最初から、私はお前を殺すためにお前に近づいたんだ」
 切なくて堪らなくて、彼を抱きしめて離したくなくて。けれど、願いは叶わない。
「だが、気が変わった。お前など、殺す価値もない」
 本当に殺してしまうその前に、彼から離れなければならない。
「今までのことは、全て、悪い夢だったと思え」
 首を横に振り、「そんなの嘘だ!」とエッジが叫んだ。手をかざし、テレポを彼の体にかける。
「……何もかも、忘れるんだ。いいな」
 透けて消えていく彼の姿を目に焼き付けて、言い聞かせるように囁いた。




 月日は流れ、ゴルベーザ様の計画が本格的に動き出した。

『人が変わったようだな……いや、そもそも、お前は人じゃねえけどよお』

 カイナッツォは言い、それが、彼と交わした最後の会話となった。
 カイナッツォは、もうこの世にはいない。スカルミリョーネもバルバリシアも、人間達の手で葬り去られた。

 エッジを手放したあの日から、私の世界は変わった。
 私は自分でも分かるほどに冷酷になり、人間との関わりを避けるようになった。ゴルベーザ様の命に従い、町や城を襲った。
――――その中には、エッジの住むエブラーナ城も含まれていた。
 手のひらを月に翳せば、私のそれはべっとりと血に濡れていた。滴った雫が城の床に赤黒い影を落とし、折り重なるようにして事切れている人間達を汚す。
 エッジはどうしただろう?そんな疑問を頭の中から掻き消そうと、緩く頭を振る。瞬間、足元に何かが縋りついてきて、私は咄嗟に、その『何か』を持ち上げた。
「……う、うう……っ……ば、ばけもの、め…………!」
 『何か』は、この城の兵士であった。兜が割れ、乾きかけた血が、男の額に額にべっとりと張り付いていた。私は男の首根っこを掴み、焦点の合わない男の瞳をぼんやりと眺めた。
「よくも、よくも……王と、王妃、を……」
 男が、ごぼごぼ、と泡混じりの血を吐く。
「今直ぐ、楽にしてやる」
 空いている方の手で、男の喉元に手をかける。熱を送り込もうとした瞬間、私の手の甲に鋭利なもの――それは手裏剣だった――が突き刺さった。痺れるような痛みに襲われ、私は男を床に落とした。
「おめぇの相手は、この俺だ……!」
 恨みのこもったその声に、息ができなくなる。恐る恐る振り向くと、全身に怒りを纏った青年がこちらを射抜いていた。
 自分の心の奥底にしまい込んであった出来事が、次々とよみがえってくる。

 初めて出会った日、天蓋の隙間から覗いていた白い肌。月光に照らされていた鼻梁。彼の性格がよく分かる、簡潔な日記と、そして。

『難しいことは嫌いだ。俺は俺が信じた道を進む』
『……おめぇのことが好きだ、って言ったら……笑うか?』

 甘く、屈託のない笑顔。そう、私は、あの笑顔を太陽のようだと思った。
 今の彼に、あの笑顔は無い。当たり前だ。私が彼の心を黒く染め上げてしまったのだから。
「……何かの間違いなんじゃないかと……思ってたのに」
 兵士の元へ歩み寄り、彼は呻くように口にした。しゃがみ込み、赤黒く濡れた兵士の体を抱き起こす。兵士はぴくりとも動かず、既にその命を失っていた。
「ごめん……守ってやれなかった…………俺が、城を離れてたから……」
 重くなった体を抱き、神に祈るかのように兵士の手を握りしめてから、
「本当に、ごめんな……」
 薄く開いた瞼を手のひらで撫で、そっと閉じさせた。そうして兵士の体を床に横たわらせると、エッジは素早く立ち上がり、刀を構え、私の方を見上げた。
「爺から報告をうけた時は、ただの間違いだろうと思った。赤くて大きな、火を使うモンスター……そんなのは、他にも沢山いるじゃねえかって、そう思ったんだ」
 静かな声だった。月明かりが、彼の翡翠の瞳を輝かせる。まるであの日のようだと思った。
「……でも、違った。報告は間違いなんかじゃなくて、城を襲ったのはおめぇで…………」
 彼の瞳が輝くのは、月明かりのせいだけではなくて。
「ずっと、ずっと…………おめぇのことを忘れられなかった俺が……馬鹿みてえじゃねえか……」
 煌めく雫が彼の頬を伝い、頤の先を流れ落ちていく。

 私も、お前のことを愛している。
 今も昔も、変わらず、お前のことを想っていたよ。

 涙を拭ってやりたい衝動を抑えつけながら、無表情の仮面を装着し、愚かな自分を嘲笑った。



End


Story

ルビエジ