「ちゃんと言わないと、カインは誤解したままでいると思います!」
カインのそれとはまた雰囲気が違う、艶やかな金髪を乱してバルバリシアが喚く。
廊下にわあんわあんと声が反響した。
自室に入ろうとしたところをいきなり呼び止められ、ヒステリックに叫ばれる。これはどういうことなのか、と首をひねる。
「カインはきっと、夜伽を命じられただけと思い込んでいるに違いありません」
「……夜伽?」
「そうです、夜伽です!抱いたんでしょう?カインを」
何故、お前がそれを知っている。訊くより早く、バルバリシアが捲し立てる。
「カインが私のところへ聞きにきたんですよ。『ゴルベーザ様に満足していただけたかどうか不安だ』、『あの晩一度、呼び出されたきりなんだ』って」
カインが、そんなことを。
彼を抱いたのは、彼の全てを見てみたかったからだ。組み敷いたらどんな風に乱れるのだろう、そう思ったからだ。
私は、部屋に呼び出した彼を心のままに抱き、澄んだ空のような瞳や白い肌、甘い声を思う存分貪った。
快楽に身を委ねている彼は酷く淫らで、それでいて綺麗だった。
そう、思わず溺れそうになるほどに。
溺れるということに恐怖を感じて、私はカインを二度と抱かないでおこうと決めたのだ。
「…単なる性欲処理の為に、カインを抱いたんですか?」
バルバリシアの率直な物言いに、静かに首を横に振る。
「だったら言ってやって下さい。お前を愛している、と」
「……私は…」
「彼への気持ちを自覚するのが怖いんですか?」
脳裏に映し出される、絡み付くような眼差し。彼以外のものが全く見えなくなる、熱っぽい時間。
『ゴルベーザ様…っ気持ち…いい、ですか……?』
躊躇うように訊ねられ、頷けば、眉根を寄せながら微かに微笑む。
その表情に、胸が張り裂けそうなほど高鳴ったのを覚えている。
「…そうだな。自覚するのが怖かったのかもしれない。私は彼を操って、意のままにしているだけなのだから」
そう、彼から与えられる笑顔は全て幻なのだ。
バルバリシアはそれを訊いた途端、大きな溜め息をついた。
「……術は解けかかっていますよ。ゴルベーザ様の迷いが影響しているんです。ファブールでセシルを殺せなかったのも、そのせいでしょう。お気づきでなかったんですか?まったくもう、ゴルベーザ様はカインの事となると…」
苛々しているのだろう、バルバリシアは足を揺らしながら頭を掻いている。
「しかし、お前は何故、私にそんなことを言いに来る?元来世話焼きというわけでもなかろうに」
明後日の方を向いている彼女に問うと、
「単にもどかしいからです」
という端的な答えが帰ってきた。
「とにかく!カインに早く言ってやって下さいね」
「いやしかし、そんな急に」
「ほら、復唱して下さい!『あいしている』…こうです」
「おい、お前、自分が部下だってことを忘れてやしないか」
「…恋愛に部下云々は関係ありません。さあ早く」
今度はこっちが溜め息をつく番だった。
「『あいしている』……」
瞬間、何かが駆けていくような音が聞こえた気がして、振り向いた。しかしそこには誰も居らず、気のせいか、と私はバルバリシアに向き直った。
彼女はうんうんと頷きながら笑っている。
「これでいいのか」
「それでいいんです。…さあ、さっさとカインのところへ行ってやってください」
無理矢理に背中を押され、カインの元へと向かうことになった。
●
「…愛している」
焦がれていた人が放ったその言葉は、俺に囁かれたものではなかった。
甘い言葉は、金髪の彼女に贈られた言葉だ。一気に血の気が引く。
あの人の部屋を訪ねてみようだなんて、そんな勇気、起こさなければ良かった。
あの優しい調子で細められる薄紫の瞳が俺のことを好きだと言っているような気がして、俺は都合よく勘違いをしてしまって。
踵を返し、走り出す。
胸が痛い。痛い。痛い。
口づけも、抱き締めてくれたあの腕も、ただの気紛れの産物だったんだ。
――― 一度だけした、セックスも。
いつの間にか廊下を抜け、エレベーターの中に飛び込んでいた。
胸を覆い尽くす虚無感と絶望。
あの人は俺のものにはならない。あの人は彼女のものなのだ。
また、あの頃と同じだ。
ローザを想っていたあの頃と、同じ。
胸に走り続ける激しい痛み。
この痛みには慣れることができない。
エレベーターを転がるように出て、廊下を走り、自室のベッドに突っ伏した。
「……ど…して…」
どうしてあの時俺を抱いたんですか。
そう彼に問う自分を想像しただけで酷く虚しくて、俺は無理矢理考えを押し込める。
忘れもしない。ファブールの一件から帰ってきた、あの夜のことだった。
深夜に呼び出され、部屋に入った途端、強く抱き締められた。
部屋は薄暗くて彼の表情などはよく見えず、しかし、その手つきが優しいことだけは分かった。
「ゴルベーザ様…っ」
唇に触れられ、びくりと体を揺らす。心臓が煩くて、息が苦しかった。
顔が、近づく。
薄紫の双眸が、濡れたように光って、こちらを見つめていた。
「ゴルベーザ様…あの」
彼は何も言わずに、俺のシャツをたくし上げて胸元をまさぐる。
唇を食まれ、漏れそうになった悲鳴を飲み込んだ。
その後はただただ必死だった。
丁寧に施される愛撫や甘い口づけに、全身が痺れて、何も考えられなくなって。
すがりついた背中が逞しいことに気付いて、彼の息遣いにさえ意識を揺さぶられた。
幸せな時間だった。
だって、俺はあの人を愛していたから。
普段、俺に作戦を指示したりする時はきびきびとしているくせに、兜を取り去って俺の方をみる時のあの人は、いつだって困ったような笑顔を浮かべているばかりだった。
黒くていかにも邪悪そうなその鎧の下は酷く人間じみていて、いつの間にか俺はそんな彼のことが気になって仕方がなくなっていた。
ベッドに俯せたまま、彼の手管を辿る。
あの晩彼に抱かれてから、何度も何度も繰り返している、虚しい行為。
口腔に指を入れ、濡れたそれで乳首を引っ掻いた。
「あ、ぁ」
快楽で、ちかちかと目の前が瞬く。部屋に卑猥な空気が満ちたような、そんな気がした。
下肢を覆う布を下げ、手淫に意識を集中させる。
「ゴルベーザ様……っ」
愛しい人の名を呼ぶ。先走りの液で滑ったそこを、何度も何度も擦りあげる。
浅ましいと思う、虚しいとも思う。それでも手を止めることができない。
「……う…っ」
腹の奥が、ずんと重くなっていく。今にも出してしまいそうだ。
「ゴルベー…ザ、様…っ!」
主の名を口にする。
『カイン』
途端、頭の中に思念波が流れ込んできた。驚き、思わず手で口を塞ぐ。
『カイン、お前に話がある』
声を聞いただけで、爆ぜてしまいそうだった。答えるわけにはいかない。おかしな声が漏れてしまう。彼に聞かれてしまう。
『…カイン、どうした?』
落ち着いたその声に誘われ、手淫を再開する。
駄目だと分かっているのに、止められない。せきを切ったかのように溢れそうになる言葉や想いが、ぐるぐると脳裏を駆け巡った。
「ん、ん…っ」
『……カイン?』
喘ぎを抑えられない。
「は、ぁ……あ」
『カイン』
「ゴルベーザ、様、ぁ……っ!」
背筋をぞくぞくと走り抜けるものに追い立てられ、白濁を吐き出し、ベッドに沈み込む。
体中を包み込んでいた熱が落ち着いてくると、代わりに、背徳感と焦りが俺の体を支配し始めた。彼に聞かれてしまったかもしれない。浅ましい想いを、凝った欲望を、知られてしまったかもしれない。
べちゃり、と粘ついた白い液体が手の中で鳴った。どうしていいのか分からなくなって、シーツに包まる。
体が震える。必死で言い訳を考える。
扉を開く音が聴こえ、怖くてシーツを更に手繰り寄せた。
「……どうしたんだ」
声と共にシーツを捲られる。
こちらを覗いている薄紫色を見た瞬間、息が止まってしまったかと思った。
「申し訳…ありませ……ん…っ」
口をつく謝罪の言葉。
「どうか、どうか聞かなかったことにしては…いただけませんか…」
真っ直ぐな瞳がこちらを見つめ続けている。いたたまれなくなって頭を垂れた。
「それは、無理だな」
不意に何かが耳たぶをくすぐり、それが彼の唇なのだと気付く。耳元に低い囁きが落ちてくる。ぞくぞくと肌が粟立った。
「…お前のこんな姿を見せられて、無視できると思うか」
「……ゴルベーザ様…?」
耳に触れていた唇が頬に這わされ、
「…ん、ん……っ」
優しく口づけられる。
全てが真っ白になってしまったような、そんな感覚に襲われて、俺は強く目蓋を閉じた。
●
ゆっくりと、カインの息があがるまで口腔を舐る。おずおずと胸元に縋りついてくる彼の指先は、精液で濡れていた。
「自分で、していたのか?」
唇を離し、答えを知りつつ問いかける。金色の睫毛が震えている。
「私を想って、していたんだろう?」
「……はい」
蚊の鳴くような声だった。
「申し訳、ありませ…」
「謝るな」
「しかし、」
「いいから、私の話を聞いてくれないか」
「…は、い」
上体を起こそうとする彼を制止して、顔に散らばっている金糸を上へ撫で付ける。青い瞳は恐怖に揺れており、それを拭ってやりたくて、私は髪を何度も梳いた。
心の中で何度も呟いていた言葉を口にした。
「私は、お前を愛している」
カインの体が硬直する。
恐怖を湛えていた目が見開かれ、青い瞳がゆらゆらと揺れた。
「……嘘です」
彼は首を横に振る。声は悲鳴に似ていて、私の胸を締め付けた。
「貴方は、バルバリシアを」
「え?」
「バルバリシアを愛しているんでしょう?」
唇が震えている。どうしてそんな勘違いをしているんだ。
そっと、目尻に浮いた涙を拭う。
「……貴方が、バルバリシアに『愛している』と言っているのを聞きました。立ち聞きして、申し訳ありません……」
その瞬間、私は全てを理解した。
私がバルバリシアに『愛している』などと言ったのは、後にも先にもあの一回だけだ。
まさかカインがあの場に居たなんて、気付きもしなかった。
「カイン、あれは違うんだ。バルバリシアと私は」
弁解する為に言うが、カインは両手のひらで耳を塞いでしまう。
「聞きたく、ありません」
「カイン、聞け、私はお前を」
「聞きたくありませんっ!」
叫びと共に、揺れていた涙が頬を流れ落ちる。
いつも沈着冷静なはずの彼が見せる本性は、酷く脆くて危なっかしいものだった。
「……処理で、構いません」
細い声。濡れた睫毛が瞬いた。
「俺にもう一度だけ、貴方を下さい……」
首に手を回され、ベッドに転がり、カインが私を押し倒す格好となる。
焦って起き上がった私の腿に指を這わせると、彼は私の下肢を覆っている布を剥ぐ。そうしてしばらく躊躇った後、四つん這いの体勢で、勃ちあがっていない雄を頬張った。
「カイン……ッ」
思わず呼ぶと、上目遣いでこちらを見上げ、瞳をちらちらと揺らした。
ぞくりと寒気にも似た快感が、背筋を走り抜ける。
「ふ……んぅ…」
拙い動きで顔を前後に動かして、舌を絡めてくる。指は茎と太腿それぞれを愛撫していて、しかしその動きは酷くぎこちないものだった。
カインの行う口淫に、既視感を覚える。思い出したかのように、彼は裏筋に舌を這わせ始めた。
ああそうか。これは、私がカインのものを口で愛撫してやったときの手順なのだ。
どうすればいいのか分からず、私の手管を真似ているらしい。
「……カイン、無理をするんじゃない」
頭を退けようと髪を緩く掴むと、雄を含んだまま、彼は首を横に振る。
その動きのせいで唇に隙間が出来、とろとろと唾液が垂れた。カインは上目遣いでこちらを見上げてくる。
告げなければならない、と思った。
「私は、お前を処理で抱きたいなどと思ったことはない」
たちまち、カインの顔に絶望の色が浮かび上がる。その表情を見て驚き、息を詰まらせた瞬間、彼は滅茶苦茶に出し入れをし始めた。
「ん、ぅ…っん、んんん!」
「カイン…!」
濡れた音とカインの呻きだけが部屋を支配し、私の耳にこびりつく。
「やめろ、カイン…っ」
限界が近かった。カインはえずきながらも、必死で口淫をし続ける。しかし我慢し切れなかったらしく、口の周りを唾液塗れにして、雄を吐き出した。
しまった、と思う。しかし、止めたくても止める事などできない。目の奥が真っ赤に染まり、気が付くとカインの顔目掛けて白濁した液体を撒き散らしていた。
「ん…………っ!」
目蓋を閉じて静止したまま、彼は小さく身震いし、涙を溢す。
彼の顔を拭ってやりたくて、シーツの端を掴んで白く汚れた顔に手を伸ばした。
「俺なんて……抱く価値もありませんか…?」
答えずに、頬と顎を拭う。
一通り清めた後、彼の顎をこちらに引き寄せた。
「私は、お前とは処理などではなく……気持ちを込めて抱き合いたいんだ」
だから、
「洗脳を解いてやる。逃げたければ、逃げるがいい」
ばちり、と私の手の中で紫色の光がはぜた。
彼の目が驚愕に見開かれる。
「う、…ああぁっ!!」
悲鳴をあげながら、カインがこちらに倒れこむ。彼の香りが鼻を擽り、思わずその痩身を抱きしめた。
彼は私の体を突き飛ばすだろうか。
それとも、抱きしめ返してくるだろうか。
「カイン」
首筋を流れる金糸に顔を埋める。胸がきつく締め付けられ、指先まで痺れたように動かせなくなった。
彼の芳香が私を狂わせるのだ。彼を見つめていると、他の存在は全て色を失ってしまう。
頭の血管が焼き切れそうなほど痛む血の色をした夜も、自分が何者なのかも分からずに呻く暗い夜も、淡く光る月の光でさえも無色と化し、私の瞳は彼だけを映す。
腕の中で、カインが僅かに身動ぎした。
「…………ゴルベーザ……」
涙に潤んだ声が聞こえてくる。
「…聞いて欲しい」
カインは顔を胸に押し付けたままの体勢で呟く。
「…ローザは、俺ではなく、セシルを選んだ。セシルに嫉妬した俺は……暗い感情に溺れ、お前に洗脳されてしまった」
金色の頭が揺れる。
「最初こそお前を憎らしく思っていたけれど、お前が時々浮かべる悲しげな表情に、いつの間にかそんな気持ちは消え失せていて」
言葉と共に、背に腕が回される。
「…すまない、ゴルベーザ……少しの間でいいんだ。このままでいてくれないか…」
彼は掠れた声でそう言うと、背に爪を立て、服を鷲掴む。
「愛してくれだなんて、そんな贅沢なことは言わないから」
諦めきったその言葉に、今まで感じたことのない程の切なさが私の胸を襲った。
「……私は、本当にお前を愛している。信じてくれ」
「だって、お前は……」
「カイン、私はバルバリシアとは何も」
突然、荒々しい調子で扉が開いた。部屋が暗いせいで、扉を開けた人物の顔は逆光になっていてよく見えない。
空調が制御されている筈の室内に、びゅうびゅうと風が吹き荒れた。
「バルバリシア!」
自らが放つ風に髪を靡かせながら、彼女がこちらに歩み寄ってくる。
「もう!あんた達!鬱陶しいのよ!」
ベッドサイドのテーブルに置いてあった書類が、天井に舞い上がって散らばる。カインは、と思い見てみれば、呆然とその光景を眺めているばかりだった。
人差し指をこちらに突きつけて、バルバリシアは言い放つ。
「カインはゴルベーザ様が好き、ゴルベーザ様はカインが好き。それで何の問題も無いじゃない!分かった?分かったらもうこの話は終わり!さっさといちゃつくなりなんなりしなさいよ!」
ふう、と溜め息をつくと、早足で部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まり、静寂が訪れる。
カインがぽつりと、
「…何だったんだ」
と呟き、私もはっと我に返った。
あまり考えたくない事なのだが、多分バルバリシアはこの部屋を覗いていたのだろう。それでも結局もどかしさに耐え切れず、またお節介を焼いてしまったらしい。
首を傾げているカインの表情がやけに可愛く見えて、頬に口付けを落とす。ひゃあ、とおかしな声をあげながら、カインが肩を揺らした。
「これで分かったろう?私とバルバリシアはそういう関係ではない、と」
「ま、まだ分からない」
顔を真っ赤にして、カインは青い瞳を逸らす。今更口付けくらいでどうしてこんなに恥ずかしがるのだろう。彼は続けて言う。
「お前が俺を愛しているかどうか、証明する方法なんてないだろ」
先程までの悲愴感が消え失せた彼の上ずった声に誘われ、今度は唇に唇を重ねた。
そして唇を離した直後、
「…私がお前をどれだけ愛しているか、じっくりと思い知らせてやろう」
と囁く。
「お、お前…っ!」
言葉とは裏腹に、私の指が胸元に向かっても何の拒絶もしてこない。
バルバリシアに心の中で礼を言ってから、私はもう一度彼の唇に口付けた。
End