雨が降っている。静かな雨だ。
 滴った水が、不規則にぴたぴたと音をたてる。瞼を閉じて、ただその音の数を数えていた。
 バルコニーに背を向ける。ベッドがぎしりと鳴った。
 あいつはどうしているだろう、と考える。
 あいつは、こんな雨の中でも試練の山にいるのだろうか。テントの中で蹲り、雨が止むのを待っているのだろうか。
 あいつは馬鹿だ。馬鹿で意地っ張りで、見た目以上に子どもで。俺よりでかい図体をしているくせに、時々捨てられた動物みたいな目をこちらに向けてくる。

 数ヶ月前――――試練の山のてっぺんで別れたときもそうだった。
 俺が訪ねていったって、あいつは冷たい顔をして俺を追い払うばかりなのだ。「帰って来い」「山を下りろ」と迫っても、決して下りようとはしない。心をがちがちに固めて守って、俺から目を逸らし続ける。
 腹が立って仕方がなかった。だから、俺はあいつの兜を『盗んだ』。力や身長では負けるかもしれない。だが、素早さでは俺の方が優っていた。奪われた兜を驚いた表情で見つめて、あいつはただ呆然と立ち尽くしていた。
 久方ぶりに見るカインの素顔。背筋に何かが走るのを感じた。
 金色の睫毛の真ん中にある青い瞳が揺れて、濡れていた。今にも泣き出しそうだった。置いてきぼりにされた子どものそれと同じ色を纏っていた。
 おめぇが決めたことじゃねえか。おめぇが置いてきぼりにされたんじゃない、俺達が――――俺が、おめぇに置いてきぼりにされたんだよ。それなのに、この山に篭るって決めたおめぇ自身が何でそんな瞳をしてるんだ。
 息が詰まって何も言えなくて、兜を突き返すしかなかった。
 あいつは無表情だった。ただ、瞳だけが生きてるみたいに月灯りを反射して微かに光っていた。

「……はあ」
 何度目かも分からない溜め息をついて、寝返りをうった。時計を見る。いつもならとっくに眠っているような時間だ。この状態では、今夜は眠れそうにない。
 雨脚が強くなってくる。風も出てきたようだ。大きな雨粒が硝子を叩いた。
 先程までよりもずっと気温が下がったように思え、毛布を手繰り寄せた。
「…………ん?」
 何者かの気配を感じ、バルコニーをじっと見つめた。立ち上がる。雨に遮られているせいで、気配の正体は分からなかった。
 魔物、だろうか。立てかけてあった刀を手に取り、気配の方へと歩み寄る。
 大きな『何か』の気配にぞくりとした。おそるおそる、バルコニーの硝子戸を開く。
 空から何かが降りてきた。
「な……っ!?」
 咄嗟に構えの体勢をとった。大きな何かは、バルコニーに降り立つつもりらしい。
 体勢を崩さず、何かを睨みつける。瞬間、金色のものが視界に飛び込んできた。
 ――――人間の髪。
「……………………エッジ……」
 飛竜の背から、男の体が転げ落ちる。


***


 即席の屋根をバルコニーに作り上げ、カインの診察をし、「お大事に!」と爺達は部屋を飛び出していった。
「……本物の大馬鹿だな」
 俺のベッドを占領している男の鼻を摘み上げた。
「おめぇは本当に馬鹿だ」
 額に氷嚢をのっけている男は、俺の声にも気づかずに荒い寝息をたてている。酷い熱だった。
 バルコニーでは、老いた飛竜が眠っている。即席の屋根のお陰で濡れずに済んでいるようだ。
 飛竜をこの目で見たのは初めてだった。
 高熱で意識が朦朧としているカインを、飛竜が俺のところまで連れてきた。現状分かるのはそれだけだった。当の本人は眠ったままだし、追求することもできやしない。
 カインの呼吸と雨音が混ざる。それ以外、何も聞こえない。
 そうだ、寝よう。ベッドは占領されてしまっているから、ソファで寝よう。朝になれば、カインもきっと目を覚ますだろう。
 立ち上がってベッドに背を向ける――――と、何かに引っ張られて思いっきりすっ転んだ。
「うっ!」
 夜着の襟が喉元を締め付ける。後ろを振り向くと、カインが俺の服をぐいと引っ張っているところだった。
「……エッ……ジ……」
 掠れた声を聞き、立ち上がる。締められた喉を掌で撫で摩ってから、カインの顔を覗き込んだ。
「目が覚めたか。……ひでえ声だな」
「……す、まな…………突然……来て……。飛竜は……?」
「気にすんなって。飛竜はおめぇよりも元気だよ、そこでぐっすり眠ってる。ほら、水」
「ありが、と……う……」
 身を起こす手伝いをして、頭をぽんぽんと叩く。
 グラスを傾け、嚥下し、カインは小さな溜め息をついた。ぐらりとまた倒れそうになったので、慌ててベッドに横たえる。
「……にしても驚いたぜ。おめぇが飛竜と一緒にエブラーナまで来るなんてな」
 カインの額に再度氷嚢をのせた。かしゃんと鳴ったそれは溶けかけている。額にはりついた毛を撫でつけてやりながら、俺はカインの目を見た。
 まただ。また、あの瞳で俺を見ている。髪を梳いてやると、じっとりと汗をかいているのが分かった。
 カインは酷い声のまま、何があったのかをぽつりぽつりと話し始めた。
 雨に降られてしまい、高熱が出たこと。テントに戻ってくることはできたけれど、動けなくなってしまったこと。カインの危機を察知したらしい飛竜が、カインを迎えに試練の山まで来たこと。
「なるほどな。……でも何でエブラーナに来たんだ? エブラーナの方が近いってんなら分かるけど、バロンに行ったほうが良かったんじゃねえか?」
「バロンには……帰れないと思ったんだ。今はまだ帰れない」
「…………頑固ジジイみたいな奴だな、おめぇ」
「な……っ!」
「年下のくせに背も高くて力も強くて頑固ジジイみたいで、可愛くねえ」
 カインが何事かを吠えようと口を開く。すかさず鼻を摘んだ。
「んんっ!」
 ぶるぶると頭を振り、俺の手を振りほどき、鼻の頭を真っ赤にしてカインはこちらを見上げた。
 捨て猫みたいな瞳が、俺の思考を絡め取る。
「バロンには帰れないと思って――――思った瞬間、お前の顔を思い浮かべていたんだ。何故だろうな」
 カインが微笑む。
 どくんと心臓がはねた。血液が、とてつもない速さで全身を駆け巡っていく。




 End


Story

エジカイ