美しくて眩しくて、刺すような冷たい色をした月だった。
 夜の闇は全てを覆い尽くし、何もかもを黒く染め上げている。
 その闇の中に、二つ、緑色が光っていた。
「――――おい、ルビカンテ! 逃げるのか!」
 まただ。
 素早さを取り柄としている男が、私の目の前に立ちはだかった。
 どこをどういう風に探しているのか、この男はすぐに私のことを見つけ出し、正面から立ち向かってくる。
 エブラーナの周囲を視察しに行く度、私はこの男と戦わなければならなかった。
「……また、お前か」
「俺で悪かったな」
 変わった形をした武器を構えながら、男はこちらを見上げている。
 夜は、魔物が凶暴になる時間だ。その夜に森に来るにはあまりにも軽装すぎる男の格好に、思わず顔をしかめた。
「何故、そんな格好で来る? もう少し、身を守ることができる格好に変えたらどうだ」
「そんなの、おめぇには関係ねえだろ」
「そうだな」
「そうだなって……」
 魔物が人間の心配をするというのも、おかしな話だ。納得し、頷いた。
 沈黙が辺りを支配し、互いに睨み合う。月が眩しく足元を照らす。
 緑の瞳を見つめながら、呪文を唱える。男は飛び退き、「またあの魔法を使ってくるつもりか」と防御の体勢をとった。
「逃げないのか?」
「……逃げてたまるか。俺は、おめぇを追いかけてここまで来たんだぞ」
 真っ直ぐで一点の曇もない美しい瞳を、眩しく思う。
 この男は、死んでも構わないと考えているのだろう。
 何度追い払っても、瀕死の状態に持ち込んでやっても、この男は私を追いかけてくる。――――両親の仇を取るために。
 呪文を唱え終えれば、辺りに熱風が渦巻き、炎が立ち昇る。男は、防御の体勢をとるばかりで逃げようとしない。彼は、この攻撃を避けることはできないということを、経験から学んだらしい。攻撃に耐えて、私に攻撃を仕掛けてくるつもりなのだろう。
「う……っ!」
 細い体が、熱風に煽られ吹き飛んだ。地面に這い蹲りながら、それでも、果敢に立ち上がろうとする。無茶の塊のような行動に、息を飲んだ。
「……自殺志願者のような真似をするな」
「うるせえ……」
「お前は、私に勝てない」
「うるせえっつってんだろ!」
 がくがくと体を震わせながら、彼は立ち上がる。今にも倒れこんでしまいそうな空気を纏ったまま、武器を構えた。
 以前、この攻撃を受けた後は、立ち上がることはおろか話すことすらできなかったのに。
 本人なりに鍛えて再度挑んできたということなのか。彼は、以前より強くなっているようだった。
 手裏剣が、私の頬を掠めた。
「手元が狂っているぞ」
「く……っ! この……っ」
 視界が霞んでいるのだろう。彼の瞳は不安定に揺れ、震え、一点を見つめることができなくなっていた。
「諦めろ」
 背後の木に突き刺さった手裏剣を抜き、彼の方に投げ返す。悔しげに顔を歪め、彼は手裏剣を拾い上げた。
「う……っ」
 再度手裏剣を投げようとした男の手が、力を失いだらりと垂れた。虚ろな瞳が、瞼に隠れていく。ゆっくりとした調子で地面に倒れた彼は、もう動かなかった。


 エブラーナの王子と出会ったのは、私がエブラーナ城を襲い民達が逃げ出した、その直後のことだった。
 王子が城の惨状を目にした瞬間見せたあの表情を、決して忘れることはできないだろう。

『……なん、で……こんな……』

 震える声に、胸がずきりと痛んだことを覚えている。刀を構えようとする手は震え、瞳は微かに潤んでいた。
 なめらかな銀の髪、しゃんと伸ばされたまっすぐな背。他の者とは少し違う上等そうな布でできた服に身を包んでいる彼の姿は、まさに王子そのものだった。
 夕陽に照らされた彼の瞳には橙色が混じり、複雑なその色に惹きこまれていく自分自身を感じながら、『お前が王子か』と問いかける。彼は『そうだ』と頷いて、『おめぇの名前を教えろ』と刀の切っ先をこちらに向けた。
 私の名を教えてやると、『殺してやる』と彼は言い、私に飛びかかってきた。
 それは、本当に素早い動きだった。瞬間、この男はお飾りの王子ではないのだと、本能で悟った。
 ただ、実力不足のため、私に勝ったことは一度もなかった。


「……全く……」
 抱き起こせば、焼け爛れた皮膚に触れた。この傷を抱えたまま立ち上がろうとするなんて、もしかしたら彼は本物の愚か者なのかもしれないと思った。
「……馬鹿な男だ」
 軽い体だった。ゆったりとした服の中から生えている足の細さには、不安を覚えてしまうほどだ。もう少し食べて太れば良いのに、などと考えた自分自身におかしさを覚え、苦笑した。
 私は何故、人間の心配をしているのだろう。
 回復魔法を唱えながら、ゆっくりとその頬を撫でていく。酷い傷は、簡単に姿を消していった。
 脂汗が浮いている額を、マントでそっと拭ってやる。
 おそらく二十歳前後なのだろうが、「ううん」と呻いて身を捩るさまはどこか子どもっぽく、彼が何歳くらいなのかが分からなくなってしまうほどだった。
 彼を送り届けるため、森の外を目指す。
 彼の棲み家は、洞窟の中にあった。
 私達魔物に城を襲われ住む場所をなくした彼らは、エブラーナ城の外れにある洞窟に身を寄せていた。
 何故、私はこの男を殺せずにいるのか。両親を殺したときには、何の抵抗も葛藤も覚えなかったのに。
 小さな人間の微かなぬくもりに、何かおかしな感情を抱いてしまいそうになる。
 人間への情なんて、もうとっくに消え失せてしまったものと思っていたのだけれど。
 洞窟の少し手前、エブラーナの民達に見つからぬ場所に彼を横たわらせ――――そこまでしてから気がついた。このままここに放っておいたら、魔物に食われてしまうのではないか、と。
 今までにも何度か寝かせて去ることはあった。だがそれは彼がすぐに覚醒してしまいそうな程の浅い眠りの中にいたからで、今の彼は、深い深い眠りの中に落ちてしまっている。正直、目覚める気配すら見せない。
 仕方なく、軽く頬を叩いた。だが、目覚めない。額に触れやわらかい髪に触れ、この男の名はなんという名だっただろうかと考えを巡らせながら、布越しに彼の唇に触れた。
「……エッジ。起きろ、エッジ」
 瞼がぴくりと動いた。薄い唇だった。親指でそっと、形を確かめるようになぞる。
「エッジ」
「ん……」
 瞼がうっすらと開くと同時に、テレポを唱え、その場を後にした。


***


 勢いをつけて起き上がった時には、ルビカンテの姿は消えてしまっていた。
 最後に見たルビカンテの顔は穏やかで、優しかった。それが腑に落ちなくて、がじがじと唇を噛む。
「何なんだよ、ったく……」
 頭を抱えた。倒すべき敵に救われたことが情けなくて悔しくてならなかった。

『お前は、私に勝てない』

 ルビカンテの言葉が蘇る。
 そうだ、分かっていた。今の俺では、あの魔物に勝つことはできない。それでも、挑まずにはいられなかった。奴を倒したかった。仇を討ちたかった。
「若! わーかー!」
 俺の姿を見つけ、駆けてくる者達がいた。
「爺……」
 空は白み始めていた。
 爺と何人かの民達が、俺をぐるりと囲む。
「また無茶を! 一人で行ってはなりませぬと、あれ程……!何度無茶をすれば気がすむのです!」
 爺は俺の肩をぐいっと掴み、前後に揺さぶった。視界がぶれる。
「ちょ、や、やめ……っ! 無茶なんかしてねえって!」
「ルビカンテに一人で挑んではなりませぬ! その行為そのものが無茶なのです!」
 耳元で叫ばれて、耳の奥がきいんと鳴った。
「年寄りなんだから、あんまでかい声出すなって。な?」
「若っ! 若は、王と王妃の忘れ形見なのですから、自分の体を大切に――――」
「ああもう分かった! 分かったから! それは何度も聞いたって。分かってるから」
「……本当に分かっておられるのなら……どうか、無茶だけは……」
 小さく呟き俯いて、爺は視線を地面へやった。俺の肩に置かれていた手から、力が抜けてしまう。
 爺だって、辛いのだ。悔しいのだ。それでも俺のことを心配して、「無茶をするな」と叱ってくれる。両親を失った今、俺を叱ってくれるのは爺だけだった。
 爺の怒声が嬉しいと言ったら、爺はまた怒るのだろうか。
「……爺、ごめん、悪かった。帰ろう」
 爺の頭をぽんぽんと叩いたら、「年寄り扱いするな」と殴られてしまった。


 その後、俺は皆の声を聞いて顔を見て回った。
 怪我人達の傷はだいぶ癒えてきてはいるけれど、いつまで続くのかも分からない洞窟での生活に、皆は疲れ切っていた。
 こんな生活を、どれだけ続ければ良いのだろう。出口の見えない迷路に迷い込んでしまったような気がした。
 皆を救いたい。その為にも、ルビカンテを倒さなければならなかった。
 夜になり、爺に「外出してはなりませんぞ!」と怒鳴られながら、部屋に向かった。
 俺に与えられた洞窟の一室には、毛布とクッションが置かれていた。爺は「ベッドを運び入れましょう」と言ってくれたけれど、ベッドは病人と怪我人達に使って欲しかったから、断った。
 この洞窟からは、月が見えない。蝋燭の明かりをじいっと見つめながら、毛布に包まった。
 どこからか、水の滴る音が聞こえてくる。音楽のように響くその水音に耳を澄ませた。
「…………どうして」
 声は、嫌というほどわあんと響いた。
 何故、ルビカンテは俺を殺さないのだろう。毎回、俺の傷を癒したりするのだろう。馬鹿にされているのだろうか。
 悔しくて堪らない。
 力が、欲しい。


 次の日も、その次の日も、俺はルビカンテを探し、挑み続けた。呆れ顔をするルビカンテに挑み、その合間に鍛錬をする。仇を討つことができるのなら、体が傷だらけになっても構わなかった。
 俺の体はぼろぼろで、そのぼろぼろの体を見て、ルビカンテは笑った。馬鹿にしている、という顔ではなかった。ルビカンテの顔に切なさが滲んでいることに、俺は気がついてしまった。気づかなければよかった、と後悔した。
 ルビカンテのあの表情の意味が、分からない。
「もう、やめろ」
 何度目かも分からぬほど挑み続けたある日、ルビカンテは静かに言った。切ない声音だった。
「もうやめろ。エッジ」
 俺は、首を横に振った。誰がやめるものかと、ルビカンテに刀の切っ先を向けた。
「……このままでは、お前を殺さなくてはならなくなる」
「殺せばいい!」
「お前を殺したら、エブラーナの民達はどうなる?」
「……親父とお袋を殺したおめぇが、それを口にすんのか。俺は、民のためにも、そして俺自身のためにも、おめぇを倒したいんだ」
 ルビカンテは、唇の端を歪めて俺から目を逸らした。
 逸らした先にあったのは、淡く美しい月だった。
「――――私は、お前の両親と戦うことができて良かったと思っている。二人は、素晴らしい戦士だった」
 言葉を紡ぐことができなくなる。ルビカンテの言葉に、優しい瞳に、あまりにも落ち着いたその声音に、息を詰めることしかできなくて。
「無茶をするところはあるけれど……お前も、あの両親の子どもらしい、素晴らしい戦士だと思う」
 嗚咽が漏れそうになって、口元を押さえた。刀が落ちる。
 何故、そんなことを言うんだ。
「だが、今のお前では、私に勝てぬ。諦めろ」
「……い……いやだ……!」
 胸に満ちたのは、複雑に入り組んで自分でも何だか分からない、ぐちゃぐちゃした感情だった。
 ルビカンテは、俺の心を惑わそうとしているのだろうか。
 わけの分からぬ中、ただ一つ、分かったことがあった。
 俺は、ルビカンテを単なる『魔物』だとは思えなくなっていた。
 頭の中が、ぐるぐる回る。
 ルビカンテが何かを唱えているのが見えた。体をまともに動かせなくなる。全く動けなくなり地面に膝をついて初めて、ストップをかけられたことを知った。
 俺はどうしてこんなにぼんやりしている? 油断している? どうして、ルビカンテの言葉に衝撃を受けてしまっているんだろう。
 指一本動かせぬまま、去っていくルビカンテの背を眺めた。ストップはすぐに解ける。ならば、解けた後追いかければいい。
「く……っ!」
 土を掴んだ。同時に草も掴んでしまったらしく、青臭さが鼻をつく。少しずつ動けるようになってはいくのだけれど、歩けるようになるにはまだ遠い。
 あの魔物を倒して何になる?
 勝てないことは分かっているだろう?
 自問して、涙を堪える。
 ルビカンテを倒したって、何も変わらないのかもしれない。でも、一度決めたことは曲げたくない。
 無理矢理に立ち上がる。膝が震えた。落とした刀を拾い上げ一振りし、汚れを払う。
 ゆっくりと足を進め、奴が消えた方を目指す。
「ルビカンテ……ッ!」
 ルビカンテが消えた方向。それは、以前も対峙したあの森の中だった。
「ルビカンテ、返事しろ!」
 梟の声がする。それから、獣の気配も。暗闇の中、ルビカンテの大きな体を探す。
 ふと、何かがつま先に触れた。
「な……っ?!」
 緑色をした植物の蔓が、ぐねぐねと蠢いていた。見たこともない植物だった。正直、気味が悪い。
 後退りをしようとした途端、足元を掬われた。
「う、わあっ!」
 尻餅をついてしまう。同時に、足首に緑色のそれが巻き付いた。どこからか、無数の緑色が伸びてくる。木から垂れ下がっているその緑色――――触手――――は蛸のような形をしていた。
 しまったと思った時にはもう遅かった。
 触手は俺の刀を器用な動きで取り上げて、両手首を一纏めにする。
「火遁!」
 焦りながら、叫んだ。火遁の火が触手を伝って自分に燃え移ってしまうかもしれないとは思ったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
 触手が燃える。だが、火は燃え広がらない。どうやらこの触手には俺の術が効かないらしかった。焦げ跡一つついていない。
「くそ……っ!」
 服の隙間から、触手の先端が侵入してくるのが分かった。両足首に巻きつき、俺の足をみっともない格好に開かせる。必死に閉じようとするのに、とてつもない力に阻まれてしまって敵わない。
「う……っ! や、やめろこのっ!」
 触手の先端からは、得体の知れない粘液が出ている。粘ったそれは淡いピンク色をしていて、気味の悪さに拍車をかけていた。
「あっ!」
 一本の触手が、俺のモノに巻きついた。思わず反応してしまった自分が恨めしい。ねっとりとした触手に荒々しく扱かれて、思考が曖昧になっていく。
 おかしい。体が熱い。
 嫌だ、と思うのに、無意識のうちに腰を揺らしてしまう。
 口元の布を引き下げられた。叫ぼうとした瞬間、触手は口の中にまで入り込んできた。
「んんんっ! んう……っ!」
 噛むこともできない程、太い。舌で押し退けようとするのだけれど、その舌すら満足に動かせない状況だった。
「ん、うう……!」
 触手が小刻みに震え始め、俺の口の中に粘った液体を吐き出した。気持ち悪くて仕方がなくて吐き出そうと思うのに、口を閉じることも触手を追い出すこともできないから、飲み込むしかない。
 喉の奥に、どろどろとした粘液が絡みつく。
 このまま、殺されてしまうのだろうか。
 頭が働かない。


***


 しつこい彼のことだ。もしかしたら追いかけてくるかもしれない、とは考えていた。だがまさか、こんなことになっていただなんて。
 放っておけば良いのだということは分かっていた。「もう追いかけてくるな、諦めろ」と、私は彼に何度も忠告したではないか。
 それでも彼を放っておけなかったのは、私の心が揺れ動いているからだった。
「ん……んう、う……っ」
 虚ろな瞳が、ぼやけた輪郭のままこちらを見た。
 太い触手に口腔を犯されている姿を間近で見た瞬間、心が焼けついてしまいそうになった。
 よく知った感覚が襲い来る。
 それは、醜い嫉妬だった。
 普段見ることのできない彼の口元が、全てあらわになっている。一度だけ撫でたことのある薄い唇が、限界まで開かれていた。
 彼の体を持ち上げている触手はあらゆる場所から侵入し彼を犯していて、紅潮した頬を見れば、彼が何らかの毒にやられてしまっていることは明らかだった。
 ――――毒? いや、違う。これは、催淫効果だ。この触手の粘液には、催淫効果があるらしい。
 彼の口を犯していた触手が、ずるりと抜け出た。唾液と粘液が混じり合い、糸を引く。
「……ルビカン、テ……」
 微かな、切ないほど悲しい、暗い声だった。触手は彼の耳の中にまで侵入し、おそらく彼の頭の中を引っ掻き回していて、それは、『寄生』とも取れる光景だった。
「苦しいか? エッジ」
 じわり、彼の眦に水の玉が浮いた。けれど、私の言葉に頷く気はないらしい。彼は頑固だった。小さく体を震わせながら、ただただ耐え続けていた。
「……今、お前を助けられるのは私だけだ。ここには、他に誰もいない。二度と私の命を狙わぬと約束するなら、助けてやっても良い」
 話している間も、触手は彼の体を支配し続ける。あえかな喘ぎをあげながら、「嫌だ」とエッジは首を横に振った。
「嫌だ、いや、だ……っ!」
「……本当に、お前は……」
「俺は、おめぇを倒すんだ……! 何度負けたって、諦めねえ。勝つまで挑み続けてやる! だから……っ!」
 持ち上げられ大きく開かれている足の間に、太い触手が迫った。逃れようとする彼の体は何本もの細い触手に拘束されてしまっていて、逃げることなどできる筈もない。
 怯える顔を私に見せるのが嫌なのだろうか。やせ我慢を瞳に浮かべながら、エッジは耐えに耐え抜いていた。
「お前は、愚かだ」
「……知って、る……」
 ぬめった先端が、狭い場所をこじ開け押し広げようとしている。他のものとは比べ物にならないくらい太い。
「俺は、愚かだ……分かってる。けど、諦めるのは、嫌だ」
 悲鳴にならぬ声をあげながら、首をゆるゆると横に振る。
 諦めを知らぬそのさまに、腹が立った。
 早く諦めて降参し、私に縋れば良いのに、と思った。
 だが同時に、諦めて欲しくないとも思った。
 私は、彼の真っ直ぐな心が好きだった。諦めを知らない強い心を、堪らなく甘美なもののように感じていた。まるで少年のようなその心は、遠い昔に私が失ってしまったものだった。彼を見ていると、人間だった頃の記憶を思い出さずにはいられなかった。
 触手を掴み、挿入を阻む。
 エッジが、驚いた顔でこちらを見た。
「なん、で……?」
 触手を掴む掌に力を入れると、それはぶつりと千切れ地面に落ち、呪文を唱えれば、それらは炎に巻かれ地面でのたうち灰になった。
 支えを失い、エッジの体が落下する。
 彼の手足を拘束しているもの以外の触手を引き抜き引き千切ると、「俺は降参するって言った覚えはねえぞ!」とエッジは声を荒らげた。
 このまま逃せば、彼はまた、私の後を追いかけてくるようになるだろう。それは避けたかった。
 追いかけられることは怖く、同時に嬉しかった。彼に惹かれていく自分自身を止められなくなることが怖かった。彼の視界に私という存在が映り込んでいる、ただそれだけで私の胸は熱くなった。
 私は、彼に怯えていた。このままでは、彼を殺すことができなくなる。
 ゴルベーザ様の命令は絶対で、あの方はこの星を燃やし尽くすことを目標としていて、エッジを守るということは、ゴルベーザ様の意志に反するということだった。
 見下ろした先にあるのは、緑色の瞳だ。鮮やかな光彩に惹き込まれ、戻れなくなっていく自分を感じていた。
「エッジ」
 名を呼ぶと、彼は小さく体を揺らした。頭を撫で回復魔法を唱え、体中についた傷を癒す。
「……何だよ……俺を殺したいなら、さっさと殺せよ……っ」
 やわらかな頬を両手で包み込み、彼の顔に自らの顔を近づけていった。
 私は、何をしようとしている?
「な……っ!」
 熱い頬だった。触手の粘液が、彼の体温を高めているのだと思った。
 重ねた唇は、ひどく甘かった。眩暈を起こしてしまいそうになるくらい、甘くて――――胸が傷んだ。
「ん、んんんっ! う……!」
 口腔を蹂躙し、思う存分味わう。瞼を開くと、きつく目を閉じ震えている彼の顔が見えた。
「ふ、あ……っ!」
 身を捩り逃げようとする体を強く抱きしめる。全てを奪い尽くしてしまいたい、何もかもを知り尽くしたいという一心で、彼の喉元に唇を押し当てた。
「……なに、すんだよ……! 嫌がらせか? ……あっ!」
「そう……だな。嫌がらせだ。これに懲りたら、もう私のことを追いかけるのは止めろ」
「ルビカンテ……」
 熱に浮かされているその声は酷く淫靡で、理性が壊れていくのを止められそうにない。
「……感情のまま行動するから、こんなことになる。どんなに感情を高めても、強くなることはできない」
「違う! 感情があるから、だから、人間は強くなれるんだ!魔物には、分かんねえかもしれねえけど……」
「人間は……か」
 人間であった頃の私は、強さを手に入れることができなかった。
 聖騎士になり父親を見返すことを夢見て修行をし、敗北して、人間の無力さを知った。
 魔物になったことを後悔しているわけではない。
 感情が人を強くするわけではないという自分の信条を曲げるつもりもない。
 けれど、この男を見ていると、心の中のどこかが軋むような、そんな気がした。
 エッジが夢見ている世界を信じてみたいような、そんな気持ちになってしまう。
 両太腿を掴み、脚を広げる。破れた下着の隙間から、勃ち上がっている彼のペニスが見えた。破れているところを更に破き、やわらかい肉を指の先で撫でる。首を横に振り涙を浮かべているその姿に、嗜虐心をそそられている自分がいた。
 やはり、私は魔物なのだ。
「ひ……っ!」
 下衣を剥ぐと、エッジは首を横に振った。
 二度と、私を追いかけられないようにしてやればいい。
 困惑の表情を浮かべているその顔を覗き込みながら、ゆっくりと体重をかけていく。
「や、いやだ、ルビカンテ……ッ!」
 窄まったその場所は、触手の粘液で濡れていた。
「ひ、ああぁ、あ……っ!」
 ぼろぼろと流れる涙が痛々しい。
 彼の中は熱くて狭くて、少しずつしか進めない。荒い息を吐きながら、エッジは「いやだ」と譫言のように呟き続けていた。
「いてえ、よ……っ」
 肌を上気させているその姿を見れば、感じているのが痛みだけではないということはすぐに分かった。触手の粘液の力は想像以上に強いもののようだった。
「ひっ!」
 最も太い場所が、中に収まる。
 口をぱくぱくさせて、エッジはその光景を呆然と見遣っていた。
「抜け馬鹿……あぁ……っ」
 言われるままに引き抜き、再度、腰を進める。先程よりも深く沈め、徐々に速度を上げていく。
 甘い悲鳴が耳に届き、浅ましく彼を求める自分自身を止められなくなっていく。
 頭がおかしくなりそうだった。
「あ、あぁっ!」
 彼の中が、きつく締まった。
「あぁ、う……っ!」
 彼が放った精液が、彼の顔を汚した。それでも、彼のものは勃ち上がったままだ。
 太腿を掴む手をずらすと、強く掴み過ぎていたのか、彼の太腿には私の手の跡がくっきりと残っていた。その跡の赤さにまで、欲情している自分がいた。
「……んっ! ああぁ、あっ、あ」
 太いものが、彼の中を行き来する。彼の額は汗ばみ、閉じることができなくなった口からは、唾液が一筋垂れていた。
 繋がった場所から、濡れた音が響いてくる。
「……エッジ……ッ」
 胸を撫で、乳首を指先で愛撫する。だらだらと先走りの液体が零れ、彼は二度目の吐精をした。搾り取るように締めつけられ、私も、彼の中に精を放った。
「あつい、あ、あ……!」
 快楽に支配されてしまいそうなくらい、気持ちが良かった。
 何度も「熱い」と繰り返し、エッジは啜り泣いた。手首を戒めていた触手がいなくなっていることにも気づいていないようだ。
 引き抜くと、栓を失った後腔から大量の白濁が溢れ出した。
 エッジの体を抱き上げる。抵抗することもできずに力を失っている彼の体を、胡坐をかいた膝の上に背を抱く形で座らせた。
「や……、ルビカンテ……ッ、も、もう、やめ」
 彼の声も聞かず、もう一度深く挿し入れた。
「ひ……っ!」
 仰け反り逃げを打つ体を強く、腕の中に閉じ込めるかのように抱きしめる。
 彼の爪が、私の腕を引っ掻いた。


***


 目を覚ました時、ルビカンテは俺の顔を覗き込んで、苦しそうな表情を浮かべていた。
「……ルビカンテ……」
 体に力が入らなかった。人形のように揺すぶられた体は馬鹿みたいにだるくて、目の前が霞んで、俺を抱いている太い腕を跳ね除けることもできやしなかった。
「あれだけ酷い嫌がらせをしておいて、何で、んな顔してんだよ……酷いことされたのは、俺の方なのに」
 ルビカンテの手が、俺の頭に伸びてくる。警戒して体を固まらせると、その手がびくりと止まった。
「…………すまなかった」
 大きな手が、俺の頭を撫でた。熱い手だった。
「謝るなよ。俺は……俺は男だし、減るものでもないし、もう、いい」
 体についた傷は癒えていたけれど、腹の中の異物感は無くならなかった。どろどろになっていた全身はまるで何もなかったみたいに綺麗に拭かれていて、ルビカンテの生真面目な性格を表しているみたいだった。
 ルビカンテが悲しそうな、苦しそうな顔をしている理由が分からない。
 魔物の瞳をじっと見つめる。
 近くで見るその瞳が何故か人間のものによく似ているように思え、どうしても目が離せなかった。
 魔物の瞳は、こんなにも深い色をしていただろうか。黄色いだけではなかっただろうか。
「……嫌がらせのつもりなら、謝る必要なんてない。俺を遠ざける為にやったことなんだろ?」
「エッジ……」
 おかしい。ルビカンテの瞳を見ていると、胸がずきずきと痛くなってしまう。今にも泣き出しそうに歪んでいるその表情が、切なくて堪らないのだ。
 俺を犯した奴に、あんな酷い事をした奴に、こんな感情を持ってしまうなんて。
「……下ろせよ」
「無理だ、まだ体が」
「下ろせって言ってんだろ!」
 ルビカンテの体から下りようとして暴れ、落ち、ずるりと地面に突っ伏した。顔を上げ、魔物を見上げる。
「俺は、おめぇを倒す。諦めたりしない」
 体中が痛くて、でも、弱音を吐くわけにはいかない。だから、強く言った。
「……おめぇが何を言ったって何をしたって、俺は諦めない。いつか、おめぇを倒してみせる」
 傍に置かれていた刀を拾い上げ、足を引き摺り、マントを体に巻きつけた。
 踵を返し、森の出口を目指す。
 引き止めようとしたルビカンテを視線だけで制し、首を横に振った。
 驚いた顔をして、ルビカンテは俺の手首を掴んだ。
「もう、おめぇの手は借りない」
「エッジ」
「……そんな情けない顔をしてるおめぇは、おめぇじゃない」
 そう、違うのだ。初めて出会った時のルビカンテは、こんな顔をしていなかった。
「おめぇは、もっと悪役らしい顔をしていればいい。魔物らしい顔をしててくれよ。情けない顔をするんじゃねえ」
 俺は何を口にしようとしているのだろう、と思った。けれど、口が勝手に動いてしまう。
「正々堂々と戦おうとする、おめぇの姿勢は…………好きだ。だから、だから――――」
 涙が溢れる。唇を噛んで、俯く。
「だから! ……優しくなんてしないでくれ」
 ルビカンテは、寂しそうに笑った。
 俺の手首を掴んだまま、もう片方の手で俺の涙を拭う。
「お前らしい言葉だ」
「……それ、褒めてんのか?」
「勿論、褒めているつもりだ」
「どうだか」
 手首を掴んでいる手の熱さに、意識が吸い寄せられる。
「手……離せよ」
「ああ」
 するりと去ったその大きな手に、何故か名残惜しさを感じてしまう。
 次に会う時は、敵だ。今日の出来事は、単なる事故だと思えばいい。何もなかったかのように、再会すればいいだけだ。
 ルビカンテから目を背け、歩みを進める。
「エッジ」
 優しい声が聞こえて、思わず振り返った。
「お前と出会えて良かった。お前と出会うまで、人間に特別な感情を抱いたことなどなかった」
「ルビカンテ……」
「仇を討ちたいなら、幾らでも挑んでくれば良い。何度でも相手になってやろう。お前が勝てる日が来るとは思えんが」
 かあっと頭に血が上る。
「絶対に勝つ! 勝つったら勝つ! 次こそ、おめぇを叩きのめしてやる!」
 ルビカンテは、ただ笑っていた。背を向けて去る俺の背中に、奴の視線が突き刺さる。
 ――――エッジ。せめて、その手で終わらせてくれ。
 ルビカンテが小さな声でそう言った気がしたけれど、もう振り返ることはできなかった。

 End