月が綺麗だから、散歩してくる。
 そう竜騎士に告げて、エッジは宿屋を後にした。
 本当に、素晴らしい晩だ。雲一つなく、月光は眩い。無数の星が散らばり、草の香りが鮮やかだった。
 エッジは風を受けながら、薄っすらと微笑む。花屋の店先で萎れかかっていた水色の花を一輪買い取ると、それを指先で回してくんくんと匂いを嗅いだ。
 甘い匂い、と呟く。花屋の娘に手を振った。
(いーい気持ちだなあ)
 可愛い姉ちゃんだったなあ、などと思いながら空を見上げる。そうして花を腰に挿し、ひょいひょいと木に登り始めた。高い所の方が、星が綺麗に見えるのではないかと思った。
「よっ……と」
 太目の枝に乗る。
 宿屋、道具屋、防具屋、武器屋、酒場、花屋。町中の建物の屋根を見渡すことができた。
「……花屋……って、あれ?」
 さっき出会った花屋の娘がうろたえている姿が葉と葉の隙間から見え、エッジは首を傾げる。枝を掻き分けると、娘が後じさりしている様がエッジの瞳に映った。
「おーい、姉ちゃん、どうした!花屋の姉ちゃん!」
 叫ぶが、届かない。
 甲高い悲鳴が耳に入ってくる。身を翻して飛び降りると、エッジは来た道を走って戻った。



「お姉ちゃん、そこの酒場で一緒に呑もうぜ」
「そうそう、店の後片付けなんて放っておいてさ、俺達と遊ぼ」
 座り込んでいる娘の目の前に、二人の男が立ちはだかっていた。二人とも盗賊じみた格好をしている。娘は彼らを見上げて、唇を震わせていた。
「姉ちゃんっ!」
 娘と盗賊達の間に体を滑らせ、エッジは男達を睨みつける。
 苦無を取り出し、構えの体勢をとった。
「……てめぇら、この姉ちゃんに何の用だ」
「お前には関係ないだろ。俺らはこのお姉ちゃんに用があるんだよ」
「嫌がってんじゃねえか」
「煩い野郎だな。どけよっ!」
 男が短剣を振り翳す。
「どくわけねえだろ」
 エッジはそれをひょいとかわし、苦無を投げた。
「姉ちゃんのピンチなんだからよ」
 苦無は男の首を掠め、首元に巻いてあったスカーフを捕らえる。スカーフに引っぱられて、男の体が地面に転がる。その体を蹴飛ばしてうつ伏せにし、項に苦無の持ち手を叩きつけた。
「貴様っ!」
 もう一人の男が殴りかかってくるのを寸でのところで避け、エッジは高く跳躍した。男が目を点にして上空を見上げる。男の瞳には月の逆光の中で不敵に笑むエッジの姿が焼き付けられ、鈍い音と共に、男の顔に蹴りが直撃した。
 倒れ込んだまま、二人の男は動かない。男達の背中を小さくつついて気を失っていることを確かめた後、エッジは娘の方に手を伸ばした。
「……立てるか?」
 呆然とした表情で、娘は頷く。エッジの手を取り、立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……」




「――――ってなことがあったんだよ」
「ほう」
「女の子が無事で良かったね」
 机に頬杖をつきながら、カインはエッジの瞳を見つめていた。セシルは満面の笑みを浮かべながら、うんうんと頷いている。
 エッジは「良かったよな、だよな!」とセシルに微笑みかけてから、
「何だよ、ほうって」
とカインの顔を覗き込んだ。唇を尖らせながら、エッジはカインの額を小突く。
「いてっ」
「あの姉ちゃん、俺に惚れたかもしんねえな!」
「……馬鹿」
 カインは額を撫でながら、
「直情馬鹿」
と呟いた。その言葉に、エッジはカインの顎を摘み上げる。気に入らない、と思った。
「ああ?聞き捨てならねえな。誰が馬鹿だって?」
 カインが含み笑いをした。
「……お前だ。セシルが直情馬鹿に見えるか?」
「いや、見えねえけど」
 セシルはどちらかというと、引っ込み思案だ。
「で、俺のどこが直情馬鹿なんだよ」
「全部だ全部」
「てめえっ」
 肩を揺すぶろうとして伸ばした手を、セシルに制される。
「まあまあ、二人とも。そこまでにしなよ」
「セシル。おめぇ、こいつの肩をもつのか」
「い、いや、そういうんじゃないんだ。ただね、」
 するりと二人の間に身を割り込ませながら、
「カインは、エッジのことを心配して言ってるんだよ。そこの所は判ってあげて欲しいんだ」
「セシル!」
 騒がしい音をたてて、カインが椅子から立ち上がる。
「もう、素直じゃないんだから。『あの馬鹿、またどこかで変なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな』って言いながら、部屋中をぐるぐる回ってたくせに」
 悪戯っぽく微笑んだセシルの顔を見つめているカインの頬が、真っ赤に染まった。
「セシル、いい加減なことをっ」
「本当のことでしょ。心配してるなら、心配だってちゃんと言えばいいじゃないか」
 二人の攻防が何だかとても面白くて、エッジは声をあげて笑った。
「カイン、おめぇ、結構可愛いとこあるじゃねえか」
 腹を抱えて大笑いすると、カインは『ばつが悪い』、というような顔をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。



 三日間滞在したこの町とも、明日でお別れだ。
「花屋の姉ちゃんに挨拶してくるよ」
と皆に告げ、エッジは宿屋の扉を開いた。
 見上げれば暗い雲の隙間に明るく輝く月が覗いていて、お月さんは今日も綺麗だなと思いながら、砂利道を歩き始める。
 けれど目当ての花屋が閉まっていることに気づき、頬を指で掻き、小さく首を傾げた。
(おっかしいなあ。閉店するにはまだ早い時間だぞ)
 扉の前に下げられた『Closed』の看板が、風に揺れていた。扉の硝子の奥は真っ暗で、中には人がいないということも分かった。
 もしかしたら、何か用事があったのかもしれない。「つまんねえの」とひとりごちて、宿屋へと踵を返そうとした。
「――――よう、この前の煩い兄ちゃん」
 唐突に降ってくる、低い低い、男の声。
 途端、胸糞の悪くなる光景がエッジの視界に飛び込んできた。
 盗賊が、花屋の娘の首筋に短剣を押し当てている。唇に下卑た笑みを浮かべながら、盗賊達は言った。
「武器を捨てて俺達に降伏しろ。そうすれば、この女には手を出さない」
「そうそう。早く捨てないと、このお姉ちゃんの命はねえぞ」
 白く細い首筋に、一本の赤い線が走った。娘は真っ青な顔をして、掠れた悲鳴をあげた。
「やめろ!!」
 懐から出した手裏剣を構え、エッジが叫ぶ。その手裏剣に目を遣ってから、
「武器を捨てろって言ってるんだよ!この女がどうなってもいいのか!!」
 男が大声で喚きたてた。
 娘の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。長く美しい栗色の髪は乱れ、フリルがあしらわれている水色のワンピースは土で汚れてしまっていた。
(姉ちゃん……っ)
 昼間出会った時の、あの可愛らしい笑みはどこにもない。エッジの胸が強く痛んだ。
 躊躇逡巡しているエッジを見て、盗賊の一人が何かを取り出す。手のひらほどの大きさのそれを、見せつけるようにして振った。
 がらん。鐘の音が響いた。
「…………ひ、」
 エッジの喉が鳴る。襲い来る息苦しさに、エッジは音の正体を知った。
(……静寂の鐘か……)
「魔法を使われちゃあ、かなわねえからな」
 男がわざとらしく笑った。
 喉が苦しくなり、目の前が霞みだす。男の持っている短剣が月光に照らされて光ったのを見て、エッジは持っていた武器を――手裏剣や苦無、刀を――地面へ放り投げた。
 金属音がしばらく続き、後に残ったのは娘の泣き声だけだった。あまりの息苦しさに、エッジは膝をついた。気力を振り絞っても、倒れないようにするのが限界だった。
 娘を突き飛ばし、男達が足を進める。エッジを取り囲んで、脇腹を蹴りあげた。
「うっ……!」
 もんどりうって倒れた体に、破裂音に似た音のする何かを叩きつけられ、瞬間、エッジの背筋におぞましい感覚が走った。
「あ、ああああああっ」
 二度、三度、四度。肩に、腰に、足に打たれたそれは鞭だった。体中が痺れ、動けなくなる。固まろうとする自らの体を叱咤しながら口元を覆う布を下げ、エッジは首を巡らせ、娘の姿を探した。
 娘は手のひらで口元を覆い、足をがくがくと震わせながら、やや離れた場所でこの光景を見つめていた。

『にげろ』

 声を出すことは叶わなかった。唇の動きで察してくれ、そう願いながら、エッジは必死で口を動かした。

『おれはいいから、はやく』

 娘は首を横に振り、けれど、エッジはそれを許さなかった。きつい眼差しで、彼女を射抜く。栗色の髪が風に靡き、彼女の姿は建物の陰に消え、見えなくなった。
 エッジの唇には、微笑が浮いていた。
「何が可笑しい?」
 苦虫を噛み潰したような表情で、男はエッジの頭を蹴った。脳がぐらぐらと揺れる。呻きながら、エッジは地面を引っ掻いた。
(まぁた、あの男に馬鹿にされっちまうなあ……)
 エッジの脳裏を、一人の竜騎士の姿が過る。今夜も、苛々しながら俺を待っているんだろうか。思うと、急に愉快な気分になった。
「紳士ぶりやがって……本当に馬鹿な男だ!」
 仰向けにされ、横っ面を叩かれる。ぼやけた視界の隅で、銀色が光った。男が、短剣を振り下ろしているところだった。
(……ああ、やべえ…………もう、だめ、かも……)
 煌めく切っ先が、目の前に迫る。天国っていいところかな、などとおかしなことを思い浮かべた瞬間、短剣が弾け飛んだ。
「う、うわっ!」
 短剣を持っていた男が後ずさりをし、鞭を持っている男の後ろに隠れた。エッジの前に、見慣れた背中が立ちはだかる。金糸にも似た髪が揺れ、白いシャツの裾は、風をはらんではためいていた。
「……この男に馬鹿と言っていいのは、俺だけだ」
 逆光で分かり辛かったが、その背中と声はあの男のものだった。すらりとした細い脚。得物である槍を握っている手は節張っていて、やけに男らしかった。
 槍が空を凪ぐ。鞭が遠くの草叢へ落ちるのが見えた。カインはエッジをちらりと見遣ってから、苦しげに呟いた。
「……馬鹿王子」
 カインの言葉に重なるようにして、ひい、と情けない悲鳴をあげながら、男達が走って逃げていく。
 カインは舌打ちをして、地面に落ちている二つの手裏剣を手に取った。
「これ、貰うぞ」
 言い終えるより早く、手裏剣は宙を舞っていた。一瞬の間の後、またもや男達の情けない悲鳴が響き、そして漸く静かになった。
 残されたのは、傷だらけで横たわるエッジと、溜息をついているカインの姿だけだ。
「馬鹿王子」
 先ほどよりも『馬鹿』の部分を強調しながら、カインは地面にしゃがみ、エッジと視線を交わらせた。
「殺されそうになった人間らしい顔をしろ。お前、どうして笑ってるんだ」
「ど、して……ここ、が、わかっ…………っ」
「喋るな、黙れ。……彼女が教えてくれたんだよ。お前が殺されかかってるって」
 娘が、しゃくりあげながら「ありがとう、ごめんなさい」と口にする。
「ねえちゃん、が……ぶじで……、よか、た、よ……」
 言いながら笑ったエッジの頭を、カインは軽く小突いた。




 後日。
 エッジの傷もとうに癒え、皆があの事件を忘れかけた頃、彼はぽつりと呟いた。
「しっかし、おめぇが手裏剣を扱えるとはなあ。思いもしなかった」
 飛空艇から見える空は澄み渡っている。エッジの言葉を聞いたカインは小さく微笑んだ。硬質な兜の下の表情は、酷く柔らかだった。
「……お前に出来て、俺に出来ないわけがないだろう」
「けっ!一生言ってろ」
 二人は大声をあげて笑う。
「何だか楽しそうね!」
「ねえねえ、何の話?」
 興味津々、といった顔で駆け寄ってきたローザとリディアに、エッジは笑顔のまま答えた。
「カインに手裏剣の投げ方を教えてやってたんだよ。何でも、竜騎士を引退するとかで」
「……お前の方こそ、一生言ってろ」
「付き合いきれない」と言いながら去っていくその横顔が微笑んでいたことにエッジは満足し、
「…………ありがとよ」
あの時言えなかった礼を、口にした。





End






Story

カイン受30題